伍・我が物と思えば軽し傘の雪
自身に潜む闇を払うには、鬱々と溜まったものを消化するには──
たった一人きりで解決へ向かうには険しく無謀であるのだと改めて考え至ったのは数日過ぎたこの頃。
あの古傘の行方は知らされていない。もしかすると安東に渡ったのだろうか。それならばまた大事にしてもらえるといい。真文は自家の縁側で耽っていた。
白く分厚い影のある空を見上げる。息を漏らせば、ほぅっと空気を白く濁らせる。
「体を冷やしますよ」と祖母が部屋の奥から声をかけてきたが上の空で返事をし、足をぷらんと揺らしていた。
冷たさに凍えることはない。むしろ気持ちを和らげてくれる。
それに塞がった瞼の奥にある眼球が冷たさを欲するようにくすぐったかった。左目を傷つけたあの櫻はどうやら冬が好きらしい。
気づかないふりをやめた真文はここ数日、左目に宿るという
――貴女は、
幾度となく訊けども答えはない。
真文はふと包帯を解き、それまで寒さを隔てていた壁を取り除いてみた。
傷をなぞる。反応はないが、狐も鳴海も言っていたように左目の傷口からは櫻枝が伸びているのだ。
ゆうらりと薄く漂う形なきもの。触れることは出来ないのに真文にはその形がはっきりと分かる気がした。
手のひらを滑らせ、形のない櫻をそっと撫でる。
疑心はある。思いに反して心臓は緊張するように煩く鳴る。そこに感触はない。しかし、櫻は確かに生きているのだと身体のどこかが理解していた。
すると突然に柔らかな低音が冬の空気に触れた。
「……寒くないですか?」
すぐさま顔を向けると、濁った鶯色の羽織を纏った仁科がそこにいた。
真文は慌てて左目を隠そうと顔を背けたが、クスクスと彼が笑うので仕方なしに髪の隙間から顔を覗かせる。
「先生、あの……どうしてこちらに?」
何故わざわざ丘を上ってきたのだろう。折り鶴を飛ばして呼んでくれれば降りて行ったのに。
不思議に首を傾げていると、はたと右目が仁科の手にするものを捉えた。新品の蛇の目傘が握られている。
彼は「隣、いいですか?」と彼女の左側を指した。
「ちょっと貴女にご用がありましてね」
座るなり彼は蛇の目傘を膝に乗せる。もしやあの古傘か。赤い紙にはピシャリと折り目が入っている。
見つめているとふいに仁科が咳払いした。それにより真文はハッと我にかえる。
「あ、あの、私……お茶をお持ちしますね」
「いえ、お構いなく。すぐにお暇しますので」
仁科の声は穏やかだ。そう言われてしまえば素直にストンと座り直す。ただ、どうにも解せない真文は隣に座る彼を探るように盗み見た。
そもそも仁科が森家へ足を運んでくるのは珍しい。黙って観察していると、いつものだらしない着流しではないことが羽織の下から窺えた。冬だから厚着なのかと思いきや、旅用のしっかりとした靴を履いている。
「ええっと、御用というのは……」
いくら考えても分かるはずがなく、問えば彼は静かに返した。
「傘の修繕が終わったので、真文さんに見せようと足を運んだ次第です」
やはりあの古傘か。安東へは返さなかったのだ。それを知った真文はなんとも複雑に濁った思いを抱いた。
そんな彼女の横で仁科は傘を開く。ばさり。音を鳴らして紙が開いていく。
白の視界に、たちまち鮮やかな赤が広がった。
思わず見惚れていると仁科は傘の柄をこちらへ向けてきた。彼もどこか楽しげで笑顔を浮かべている。それは皮肉めいたものではなく純粋な色。
真文は躊躇いなく傘を受け取った。
すると――
《――うふふふふ》
柄に触れてすぐ、くすぐるような笑いが全身を包んだ。思わず傘を見上げる。
くたびれていた赤は本来の美しさを取り戻したように繊細で且つ頑丈だ。付喪神の喜びが伝わってくる。
真文は口をぽっかり開けて赤に魅入った。白い息が赤へ吸い込まれていく。
「傘を回してみてください」
横で仁科がそっと教えてくれる。言われるまま傘の柄を手の中で捻るように回した。
「あっ……」
思わず喉から声が飛び出した。
赤がくるりと色を変えていく。思わず浮かばせた息も瞬く間に空色へ変わっていく。
そうしてころりと転がるように表情を変えた傘の内に広がるのは麗らかに晴れた春日和。
ぱっと傘を下げると天は重い曇り空。しかし傘の中だけに晴天がある。
更に柄を回せば次は満天の星。燦然と輝く陽光。爽やかな若葉。花が溢れ、色粉が舞い、光が瞬く。それはさながら万華鏡。
彩り豊かに変化する模様に真文は顔を綻ばせた。
生まれ変わった傘は華やいで、溜まった鬱を吹き飛ばしていく。その密やかに甘く穏やかな笑いが真文の笑声と重なり合う。
薄っすら生えた霜に裸足のまま降り立つと無邪気に傘を回した。
「喜んでいただけて何よりです」
仁科も嬉しそうに言った。思わず我を忘れてはしゃいでしまい、真文は慌てて縁側へ戻った。照れ隠しに笑う。
「先生が修繕を?」
「はい。傘が『直して』と言うものですから、それならばと少し細工をしてみたのです。成功しましたね」
悪戯に笑う、そんな彼つられて真文も高く笑う。傘を開いたまま座ってもなお、くるくる回していた。その様子に安堵したのか仁科は息を吐く。
「思ったより元気そうで良かった」
「えぇ。体調は悪くないので……でも、この傘のおかげですっかり気が晴れてしまいました」
喜びのあまり言葉はすんなりとそう紡がれていく。だが、仁科は「おや」とどこか釈然としない。
「それだけで気が晴れたなんて、そう単純に割り切れる話ではないと思うのですが」
その鋭い言葉に全身が固まる。本心を言ったつもりだったのだが。
すると仁科はスッと人差し指を立てた。
「一時の感情で自身を測っていては後々苦しくなります。慎重によく考えなくてはいけない。それに人はこの世で最も複雑怪奇な生き物だ。厄介で面倒。上手く運ばないのが常です」
言葉はえらく立派だが、いかにも真面目ぶった物言いなので、ふざけている節があった。
その調子がおかしく真文は堪えきれずに吹き出してしまう。仁科も伸ばしていた背筋を緩めて笑った。
「というのは、まぁ私もごく最近に知ったことでして……いやしかし人の心模様や思いの幅というのは難しいですね。十人十色とでも言うのでしょう」
彼にも思う所があるらしく、その目は段々遠くなっていく。その視線の先を見ようと真文も後を辿った。
傘の中は綺羅びやかで美しい。もしかすると付喪神の心を映しているのかもしれない。
人というのは複雑だが単純でもある。誰かが喜べば、その感情は簡単に
「あぁ、そうだ」
思いを巡らせていた仁科が唐突に声を上げる。彼は懐を探り、畳まれた和紙を取り出した。こちらに差し出してくる。
「真文さん宛です。鳴海から」
真文は傘を閉じると躊躇なく受け取った。丁寧に折られた和紙を開く。三つ折りの紙、その中央に堂々とした一文があった。
『我物ト思ヘバ軽シ傘乃雪』
薄い紙に認められた文字。それは流れるような細く鋭い形で、几帳面とぶっきらぼうさが浮かんで見えた。
「……え?」
真文は右目を大きく開かせて、もう一度読み直した。怪訝な表情の真文に仁科も横から覗き見やる。すると彼も眉をひそめた。
「ふむ……?」
「これは『笠』が正しいのでは?」
「うん、間違えていますね」
真文の声にあっけらかんと返す仁科。
「恐らくは……この傘に置き換えたということですかね」
空を映す傘を指し、仁科は呆れの溜息を吐いた。「まったく」とぼやくように不満をこぼす。
「真文さんのところへ行くと言えば慌ててこれを押し付けてきたんですよ。己で渡せば良いものを」
「鳴海さんらしいですね」
ふふふと控えめに笑っていると、仁科は不服そうにも頬を緩めた。
感情には素直だが、こうした慰めには不器用な鳴海のことだ。顔を見せるのが忍びないのだろう。それならばこちらから出向くしかない。真文は呆れの息を落とした。
「我が物と思えば軽し、傘の雪……」
文字をゆっくりと辿り、脳裏に意味を思い浮かべる。
どんなに降り積もる雪が重く伸し掛かろうとも自分の物だと思えば軽く感じられる。背負わなくてはいけないのだ。それを踏まえて今を見据える。
鳴海がどんな思いでこれを選んだかは分かるつもりだった。
彼もまた似た境遇だったのだから。そして気がついたのだろう。忘れないでほしいと願ったのだろう。
想像してみると寒風に晒していた鼻がツンと痛む。思わず和紙に顔を埋めた。
「真文さん」
仁科の改まったような声がかかり、真文は無意識に背筋を伸ばした。彼の眼鏡の奥にある瞳を見つめる。憂いが見えた。
「貴女は、お父さんを恨んでいますか?」
その問いには驚いた。傷で塞がっているはずの左瞼が僅かに痙攣したように思える。喉の奥が固くなり、口元が引きつった。
慎重によく考える。そうして見えた心は小さく自信のないものだった。
「……恨んでしまったこともありました。けれど、それはいけないことなんです。私の中では。だから……寂しくなるのです」
喉に力を込めてぽつぽつと言葉を落としていく。
期待は常にあるのだ。諦めようとも今だって希望を捨てきれない。願ってしまう。そのせいでまた同じ過ちを繰り返す。鈍感に生きようと企む。
「私はいつまで経っても学ばないですね。どうしても間違えてしまう。先生と鳴海さんに頼りきりで……」
段々と俯いた。張っていた気が緩んでいく。それはおそらく自身への呆れが招く脱力感だろう。情けないと思いは募らせても意識は逃げの姿勢を保ったまま。強くありたいと願えば願うほど遠のいているように思える。
「強くあろうとするのは良い心がけですよ」
慰めるような声。彼は間髪入れずに後を続けた。
「ただし、一人きりで思いつめるくらいなら、それが間違えだと気付いたのなら人任せにするのも手です。私だって色んな手を借りてきたんですよ」
彼は手のひらを広げて振った。その動作がまた軽々しいので真文は拍子抜けしてしまう。
「だから、それを今から返しにいこうと考えているんです」
そう言い、仁科は縁側を降りた。大きく伸びをする彼の目はきゅっとつり上がっていく。
彼は一息つくと真文の頭に手を置いた。
「本当は呪いを解こうと思っていたんですよ」
「え?」
思わぬ言葉に素直に驚く。
「でも、今改めて視ましたが、私にはまだその自信が足りない」
寂しげに言う彼の瞳に細長い小枝が映ったような気がしたが、まばたきに誤魔化されてしまう。
「その左目は貴女のものです。貴女たちは左目だけでなく、芯の奥底で深く繋がっている。だとしたら貴女の心を、感情を無理矢理に奪ってしまいそうで怖い」
そうはっきりと言われてしまえばむしろ清々しい。
真文は納得を示そうと頷いた。仁科も頷き返してくる。そして、脇に置いた傘に目を向けた。
「傘をお渡しします。それも貴女のものだ。大事にしてもらえますか?」
真文も傍らの傘へ目を移した。
しっとりと滑らかな柄にしっかりと張られた紙。鮮やかな空模様に生まれ変わった傘。それを指で触り、真文は再びこくりと頷いた。
「大事にします」
「よろしく頼みます。あ、あと、ついでに鳴海のことも頼んでいいですか」
思わぬ言葉に目を瞠る。彼は苦笑交じりに言った。
「少しの間だけ……ちょっと今から岩蕗さんのところへ行ってくるので。まぁ、春までには戻ってきますよ」
「そう、ですか……」
不安が膨らむ。唐突な外出だと思ったが彼の姿を見ればその予感はあったもの。真文は思わず、彼の羽織をつまんだ。
「本当に帰ってきてくれるんですよね?」
「もちろん。あの人が持っているものを譲ってもらうために出かけるだけですから心配は無用ですよ」
力強くもあっさりとした彼の目に真文はどくどくと脈打つ胸を押さえた。
――大丈夫。彼は信じられる。
そう傷跡に言い聞かせ、手にした紙に目を落とす。だが、つまんだ羽織はまだ離せない。
「約束、ですからね」
「はい」
「絶対ですよ」
出てきた言葉は涙ぐむ声だった。自身の怯えように呆れて笑ってしまう。
──あぁ、そうか。
真文は顔を上げた。視線の先にある仁科の柔らかな表情に笑顔を向ける。そっと指を離した。
「行ってらっしゃい。お気をつけて」
「はい、行ってきます」
彼は照れくさそうに笑いながらも手のひらを振って足を踏み出した。
一歩ずつ遠のいていく背中に胸が詰まる。
いつの間にか大事になっていた。大きな存在になっていた。いつの日か父を見送った時の思いが蘇り、暗雲が立ち込めていく。
それならば心に傘を差してみよう。
降りしきる雨は冬の間は雪となる。冷たく重いそれは段々と積もってしまう。それがどんなに重くても、自分のものなのだ。我が物と思えば幾分、和らぐ重さだろう。
仁科が去った場所を真文はしばらく眺めていた。
いつの間にか舞い落ちる綿雪に気が付き、傘を開いてみる。透き通る晴れた空を左目も見ているようだった。
《空傘、了》
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