肆・諦めは心の養生
――捨てられっ子の真文。可哀想な子。
教室で誰かがそう言った。確かにさらりとその言葉は流れた。
声の主を探せば一目瞭然で、侮蔑の笑みを向ける一つ上の従姉妹が目に留まった。
「ヨウちゃん、なんてことを言うの」
思わず立ち上がり、真文は驚きと怒りをすぐさまぶつけた。
恐らくは昨夜、叔父の言葉をその娘であるヨウもしっかりと聞いていたのだ。ふてぶてしい切れ長の目で真文を見下すように笑う。
「だって、そうでしょ。あんた、
瞬間、パチンと肌を弾く音が教室の柱を震わせた。それまでざわついていた窓ガラスや木枠がしんと静まる。
ヨウの頬には赤い熱が広がっていた。真文は息を荒げて彼女の頬をもう一度打つ。それからはすぐに同級生の少女たちが真文の手を引っ張り、押さえつけた。ヨウは泣き喚き、辺りは瞬く間に騒然と化す。
教師は一方的に真文を叱りつけ、さらには叔父夫婦が呼び出される始末となった。
「理由はどうあれ手を挙げるだなんて、女子の行いとしては恥ずべき行為です」
ヨウと同じ目をした叔母は静かにそう言った。
ぐすぐすと鼻水を啜りながら真文とヨウはその晩、叔母に説教を食らったもののやはり咎められたのは真文だけだった。
「女子たるもの慎ましく、淑やかに。人に手を挙げるだなんて許しませんよ。それに、お祖母様が聞いたらさぞ悲しまれることでしょう。真文、反省しなさい。まったく……お義母さんが甘やかし過ぎたんだわ」
説教は段々と愚痴へと変わる。そのせいか情のない厳しさを感じ取った。時を経た今でもそうだと思える。
「真文は明文さんに似たのよ、きっと。本当、野蛮なんだから」
辛く当たられるのは至極当然である。親戚と言えども父親の悪い噂が伝われば、その皺寄せは娘に向かうものだ。
大人しく、淑やかに、慎ましく。
叔母は何かしら祖父母を盾に取り、真文に言い聞かせた。それは確かにヨウへも教えられていたのだが明らかに情の差が違うのだ。透明なのに強靭な壁を感じた。疎外感を知った。
「――私は、それを気づかないようにしました」
気づかないようにしなければ溢れ出してくる。わがままを言って泣き叫びたくなる。大声で呼びたくなる。父を。
心はいつも土砂降りで傘を差すことすらとうに忘れてしまった。
父に捨てられ、親戚に邪険にされ、村と町では父への風当たりに温度差があり、決して良いものではない。学校には居づらくなるばかり。
大人しくしていなければ、またヨウが叔父や叔母に言いつける。その抑圧に耐えようと堪えるも……心に溜め込んだ雨水がとうとう破裂してしまったのが九つを迎えた頃だった。
「気がつけば私は祖父母の家に戻っていました。どうやら水土里町から吹山村へ続く道端で倒れていたというのです。あまり覚えていないのですが……叔父の家から飛び出したらしく」
泣きながら夜道を裸足で駆けたのだと思う。あてもなく走っていたのだろう。足の裏は血だらけで体はどっぷり冷え込んで、目を覚ました時には祖父母の森家へと戻っていた。
「春に仁科先生にも言われたんですが、私は人を信用していないというのです。あの時は自覚がありませんでした。そんなこと、あるはずがないと。でも……」
指先が震える。骨の奥がむず痒くなるようで真文は掴むように両手を腹の前で握りしめた。
「気づかないように、していたんでしょうね」
ゆっくりと諦めを覚えて。濡れそぼった心だから絶え間なく降る雨にはもう気づけない。
鳴海は苦い顔を向けていた。彼はとても素直な人だから、そんな表情を向けてくる。仁科のように誤魔化すことが出来ない質だから、その真っ赤な紅が何を言えば良いか迷いを見せている。
真文は気を取り直すように息を吐いた。
「鳴海さん……私、あのお客様に謝ってきますね。あぁ、もう何故でしょうね……何故だか無性に、あの傘が私と重なって見えてしまったのです」
おこがましくもと自嘲する思いは口には出来ない。
そんな真文の手を掴もうと鳴海の腕が伸びてきた。それを躱すように彼女は首を横に振る。
「ごめんなさい」
口をついて出た言葉に鳴海は怪訝に眉を寄せた。
「なんで謝るのさ」
言えばすぐに返ってくる。しかし、いつもの豪快さはどこにもなく、しおらしいものだからこちらの目尻が緩まってしまう。
「済みません。私自身も……どうして父を思い出したのかよくは解っていないのです……あんな感情を晒すようなことを、どうして……」
呆気なく捨てられて思いを伝えることが出来なかったあの付喪神を哀れんだからと言えば正当な理由になるのだろうが、真文の中では何か違和があった。理性を忘れるほどのことではないのでは。そんな気がしてならない。ただ言葉にするのが難しいのだ。
「――ねぇ、真文」
鳴海の静かな声音に真文は前髪越しに目を向けた。
「ちょっとだけ、あたしの話を聞いておくれ」
なんだろう。優しく説き伏せるような言葉の羅列だろうか。
今はそういうものを欲していない。あからさまに落ち着いた鳴海の態度が初めから妙だとは感じていたが、一体何を話すというのだろう。
その思案はすぐに破られた。
「もしかすると突然の感情の乱れは……
鳴海は小さく後ろめたそうに言う。だが向ける目はなんだか縋るようで、それを無碍にあしらうことは出来やしない。
真文は躊躇い、目を伏せた。戸を開けようとした手をそろりと引き寄せる。
その奥で床板を踏む音が微かに聞こえたが、それが誰のものかは容易に見当がついた。仁科も聞いているのか。
一つ息を吸う。
冷たい空気を肺に取り入れ、真文は鳴海と向き合うことに決めた。
***
「――いやぁ、すみません。安東さん。すっかりお待たせして申し訳ないのですが……裏に行ってもやはり他の傘がなくて」
裏の部屋からひょっこりと仁科は愛想笑いを浮かべて座敷に戻った。
「いや、いいんだよ。無理にとは言わん……ただ、あのお嬢さんは大丈夫なのかね」
安東は不安げに眉をひそめて仁科を見上げた。
彼の指は、ストーブの暖かさで動きを取り戻している。仁科はそれを認めて、次にあの古傘へと目を向けた。
《……もう心配いらないわ》
入り口に佇む傘は壮年の女の姿へと変わっていた。
纏う衣服が少し痛んでおり、恐らく顔も崩れているのだろう。頭に被った傘で面を隠し、恥じらいを見せている。
《ひと目、彼を見られただけで私はもう充分ですもの》
「……そう、ですか」
思わず言葉が漏れた。それを安東は「ん?」と聞き返したが仁科は手を振って苦笑で誤魔化した。
「いえ……まぁ、あの娘にもただならぬ理由がありまして。物を大事にして欲しいとその気持ちが強く出てしまっただけなんです」
奥の部屋を気にする安東もその言葉を聞けば「あぁ」とようやく納得の吐息を落とした。
「目移りしてしまったことを叱られた気分だったよ。何故だろうね、あのお嬢さんの言葉が失くしてしまった傘が言ったように思えて……」
馬鹿馬鹿しい話だと安東は自嘲気味に笑った。框からゆっくり立ち上がる。
仁科は商品棚に立てかけていた黒い洋傘を安東へ手渡した。
「次のものは大事にしてください」
「あぁ、そうするよ。有難う」
先に立って戸を開け放ち、外へと促せば安東は小さく会釈した。
「お邪魔しました」
「いえいえ、またのお越しをお待ちしております。お気をつけて」
ちらちらと綿花のようなふっくらとした雪が天から落ちてくる。それを見上げながら安東は黒の洋傘を開いた。
その黒が白に隠れるまで、仁科は戸を開け放したままでいる。
「――本当に、これで良かったんですか?」
横でそっと安東を見送る蛇の目傘。彼女に問えば、こくりと傘が前のめりに動く。
「今ならまだ間に合うでしょうに」
《そうね、でも……》
彼女は小さく息を吐いた。
《あの人の手は鈍くなったのだから、もう私を上手く掴んではくれないわ》
足手まといになるならば、いっそのこと黙って離れてしまえばいい。
その理屈は分かっても心までは理解が出来ない。仁科は「ふむ」と眉をひそめた。
「あの人を恋い慕っているのでしょう?」
《えぇ、もちろん。でもね、私はあの人の邪魔をしてまで隣に居たいとは思わないの》
もう安東の姿は見えない。傘はひらりと中へと踵を返した。仁科もならい、ゆっくりと戸を締め切る。
傘は框に腰掛けると、ちらと目を覗かせた。ひび割れた顔が窺える。
《ゆっくりと諦めないとね……その為に貴方へ一つお願いがあるのだけれど、聞いてもらえるかしら?》
濡れた睫毛を瞬かせて彼女は上目遣いに言った。
「なんでしょうか」
面倒な予感を察知し、つい邪険な声音で返してしまう。
しかし、傘は咎めることなく潤んだ瞳を向けた。ささくれた唇が小さく動く。
《私を直して》
***
くすんだ色をかぶったかのような、この部屋だけはとにかく色味がない。いや、暖かな灯りはあるのだが色のぬくもりは感じられなかった。
塞がったままの左目のせいか。実はあの彩りの景色は嘘だったのではないか。視界が半分になったせいで、偽りを見抜く力が鈍くなっているのでは。
長年で根付いた癖はなかなか打ち払えないらしい。真文は暗く淀んだ思いを抱えて、ごくりと生唾を飲んだ。
「知らない方がいいと勝手に気を使っていたんだ」
櫻が左目から伸びているだなんて。季節によってその枝が変化しているだなんて。
鳴海の言葉は常に正直だ。そんな彼がずっと隠していたのだから相当に言い出しづらく、気を揉んでいたに違いない。
だが、こちらとしては余計な世話というものだ。
あぁ、どうしてだろう。安東に対する怒りも冷めないうちに、またも沸々と煮立ったような熱が腹の底からせり上がってくる。そんな悲しそうな辛そうな目を向けないで欲しい。こちらの惨めさが浮き彫りになってしまう。それを認めたら苦しくなってしまう。
真文は息を吸った。
荒々しい外の唸りのごとく胸の内側や脳の奥で不快な動悸を感じる。鼻の奥を引っ張るような痛みが走り、彼女は目を瞬いた。
「それは愚かなことだった。分かってはいても言い出せなかった。あの
固く掠れていく声。それを聞けば平手打ちしたい衝動が強くねじ伏せられてしまう。
真文は奥歯を噛み締め、指の関節が白くなるほど拳を握った。
――ずるいわ……そんなの。
教えてほしかった。いや、聞くのは怖い。今だってそう。
酷な惨状だったことは忘れられやしない。痛みにのたうち回ったことも恐怖のあまり声が枯れるまで泣き叫んだことも、己の愚かしさを恨んだことも。
おそらくこの左目について聞いてしまえば、心に平穏を保つことが出来なかったやもしれない。その気遣いくらいは重々身に沁みて理解出来る。出来るけれど別の暗鬱な思いが忍び寄る。
《裏切られたのよ》
《また、裏切られた》
《また――》
ざわざわと波打つ感覚が身体の内側をひやりと撫でる。
一瞬のことだった。その不快さに遅れて気づく。
「……それに」
鳴海の声で我にかえる。真文は意識を集中させ、鳴海の言葉を待った。
「毎日、穏やかにしていれば心を壊さずに済むだろう。ここで毎日喋って休んで、たまに店番をして。そうやって過ごせば悪い気持ちを育てなくていとね。ついつい話を逸らしたくなったんだ……あぁ、駄目だね。所詮はこれも言い訳か」
鳴海は項垂れ、緩んだ前髪の隙間から瞳を覗かせて自嘲気味に笑う。
「実はこの間も仁に叱られたんだよ。あたしが怒鳴るつもりだったのに向こうも珍しく怒るもんだから大喧嘩さ」
悔いが音となって伝ってくる。
怒っているのにこれでは上手く怒れない。いや、怒りたいわけではないのだ。「気にしません」と笑って返せばいいのに、そうしたくない。素直に憎めない。簡単に切り捨てることが出来なくなる。揺らぎが生じて困惑する。
「ずるいわ、そんなの……」
唇がわななくように震えた。声も揺れて言葉が上手くつくれない。
みるみるうちに嗚咽が飛び出していく。息を吸えばしゃくり上げてしまい、情けない声が溢れて止まらなくなる。
ふと隠れて泣いた春のことを思い出した。隠そうとして自身をも誤魔化そうと企んだ昨年の冬も思い出した。巡る記憶を遡れば、また父の背に辿り着く。
涙でぐしゃぐしゃになる顔を畳に押し付けていると広い手のひらが髪を触った。
父のものとは違うけれど狂おしく求めた優しさがそこにはある。
「ごめん」と呟く声が自身の情けない声と重なった。
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