参・万物流転の世だから

「寒さのせいか元々具合の良くない手があまり動かなくなったんだ。傘を握るのも難しく、だったら腕にかけられるこの洋傘にしようと、前の傘を水土里の宿に置いてきてしまってね。それに新しいものには簡単に目移りしてしまう」

 安東は真文が出した茶をじっと見るだけで、手に取ろうとはしなかった。指が動かせないのだろう。手の皺がり集まり、曲がったままの指は凍ったように固まっている。

「それでも傘が必要なんですか?」

 仁科は問いながら戸の横に立てかけていた蛇の目傘をちらりと見やった。

 安東がゆっくりと頷く。

「こっちでは雪だが、向こうは雨だと聞いたものでね。海を越えただけの地なのに、どうも季節が遅れているらしい」

「向こうの気候はのんびり屋なんでしょうね」

 仁科は苦笑を浮かべた。そして、また蛇の目傘へと視線を向ける。

 老客の対応は仁科に任せたのか鳴海はすっかり元いた帳簿台へ引っ込んでいた。

 一方、真文は座敷から下がってもなお仁科の視線が気がかりだった。傘という言葉に胸の内が敏感になっている。

 最近、仁科と鳴海が大喧嘩をしたのか障子の枠が一箇所だけベロリと紙が剥がれていた。そこから様子を窺っている。

「ふむ、成る程。安東さん、前に持っていたという蛇の目傘はどんなものだったんです?」

 仁科の言葉に真文は無意識に肩を震わせた。言いようのない焦燥に駆られる。

 胸の奥、脳内でも安東の傘がどれであるのか大凡の見当はついた。あの古傘ではないかと。

 しかし感情が気ぜわしく動悸がする。

 何故、こんなにも気持ちを揺らがせているのだろう。あの蛇の目傘の持ち主が安東ならばいい。そうであってほしい。持ち主に返ってくれたらいい。それなのに心に支える何かが邪魔をする。

 ――の真文、可哀想な子。

 悪意の雑言が唐突によぎる。奥深く厳重に封印しておいたはずの心無い言葉を思い出し、心臓が跳ね上がった。

「……安東さん。もしかして、この傘ではありませんか?」

 仁科は三和土に降りて、あの古傘を安東に見せた。老客は「あぁ」とすぐに声を上げたが尻すぼみに小さく唸る。

「随分とくたびれてしまっているなぁ……はて、これだったか……」

「風に吹かれて飛ばされてきたんですよ。水土里町から追いかけてきたのやもしれない」

「ううむ……」

 煮え切らない安東の態度。おそらく元の持ち物であったかすら思い出せないのだろう。

「これではないのでしょうか」

 たずねる仁科に安東は困惑の笑いを向けた。

「どうだったかな。特に思い入れはないから自信がない……他に似たようなものはあるかね? どちらにしてもそれじゃあ雨は凌げない」

「あぁ、まぁ、そうでしょうね」

 仁科は古傘を引っ込めた。その笑みからは彼の感情など読み取れやしない。ただ、その淡々とした互いの応対に我慢ならなくなった真文は思わず障子戸を開けた。皆の目がこちらに向いていようが構わない。安東が驚いたように目を丸くするのも仁科の表情がどんな風であるのかもどうでもいい。

「その傘は」

 声が震えたまま口から飛び出す。頭の中は真っ白なのに自身の奥底に仕舞っていた感情がどっと押し寄せる。

「その傘は本当に貴方のものではないのですか?」

 思いが沸騰する。

「捨てたんでしょう。要らないからと。不要だと。呆気なく捨てたんだわ」

 灼熱が更に脳へと達する。

「思い入れがないだなんて、そんなのあんまりよ」

「真文さん」

「ずっと、待っているんです。それなのに捨てられる方の身にもなって」

「真文さん、やめなさい」

 気がつけば鳴海が後ろから腕を引いていた。仁科がじろりと眼鏡越しにこちらを見ていた。

 前後から冷えた空気に抑えられ、真文はすぐさま口をつぐんだ。怪訝そうな顔を向ける安東を見ることも出来ず、ふらりとよろめく。

「……っ」

 声も喉を通らなかった。そんな彼女を冷えた手がまたも引っ張る。

「ちょいと、こっちにおいで」

 鳴海は安東に誤魔化しの笑みを向けるとすぐに真文を座敷から下げた。引きずられるように廊下へと出され、そのまま奥の部屋まで連れて行かれる。

 未だ胸は嫌な音を立てている。全部の血管をどろどろに溶かされた鉄が不快にゆっくりと巡るよう。気持ちが悪い。

 どうしてあんなことを言ってしまったのだろう。あんなこと――いや、なんと言ったかなどもう覚えていない。ただ酷く感情的に言葉を吐いたのは自覚がある。

 藺草いぐさの感触を足の裏で感じてすぐ真文はその場に座り込んだ。

 鳴海は黙ったままで向かい合って座るわけでもなく、部屋の隅に置いてある行灯の引き出しを開けていた。マッチを擦り、火を灯す。その動きを静かにじっと目で追いかけた。

「――光は見ているだけで落ち着くものさ。真文、大丈夫かい」

 ぼやけた光の中で鳴海が柔らかに言った。そこに咎めはなく、代わりに困惑と哀れが見える。真文は顔を俯けた。

「寒いかな。布団でも出そうか。くるまっとけば暖かいだろうし」

「結構です」

 寒さなど感じやしなかった。むしろ巡る熱と羞恥のせいで茹だっている。

「そう……」

 鳴海が珍しく粗相を怒鳴らないものだから罪悪を感じざるを得ない。重苦しい。どうにも気を使っているのだと感づいてしまい、胸の内が無性に痒くなる。その感覚が鬱陶しく重く、苛立ちへと変化した。

「真文」

 頑として口を開かないので鳴海から声がかかった。慰めるような響きが癪だと感じた。だが同時に心が解けそうな恐怖もあった。強張らせた心が緩んでしまう。

 優しげな音で呼ばないで欲しい。思い出してしまうから。

「私には」

 真文は息を詰めながら言った。

 ずっと我慢していた。仕舞っておいたはずのものが溢れ出して止まらなくなる。

「聞いて欲しいことなど、ありません」

 見ないようにしてきた。気づかないようにしてきた。小さな傷も見て見ぬふりをしてきた。感じないようにしてきた。

「聞かせるようなものではないのです。恥ですから。あんな過去もの……要らないわ」

 そうしておかないと壊れてしまうから。

「……それは本当にあんたが思っていることなのかい?」

 鳴海の指が前髪をくぐった。ひんやりと冷たい感触が包帯越しに左目を撫でる。あの酷い傷跡をなぞるようで、その存在を瞬時に思い起こさせた。

「もし本当にそう思うんなら、これもすっかり忘れてしまったってことかい。綺麗さっぱりなかったことにして……」

「忘れてなどいません!」

 優しい指を払い除け、真文は慌てて声を上げた。肩が震える。

「ねぇ、真文」

「やめてください。それ以上、そんなに……優しくしないで……」

 大声で怒鳴られれば、まだ気持ちにふんぎりがついたかもしれない。しゃんと気を引き締めることが出来たかもしれない。それなのに、どうして気づいてくれないのだろう。放っておいてくれないのだろう。

 手のひらに顔を埋めると視界は瞼の内側だけになる。

 頭に血がのぼっているだけだ。気持ちが昂ぶっているだけ。静かにしていれば収まる。今までもそうしてきたのだから。

 今まで――

「……わ、私は、捨てられっ子なんです」

 指の隙間から言葉が漏れた。もう自制は効かない。

「でも、そうだと信じたくなかった。ずっと、待っていたんです。そう約束したから……」

 雨の日も風の日も、お天道様がさんさんと降り注ぐ日も、雪の日だって山が色を変えていく模様をいくつも見送って、それでもずっと待っていた。丘に続く石段で待ち続けていた。父の帰りを。

「見ないように感じないように、気づかないようにしてきました。小さな傷も見て見ぬふりをしてきました。信じていました。ずっと幾度となく」

 この世は万物流転。目まぐるしく新しいものが風と共に流れ込む。それは輝かしく、おそろしくも魅入られる。いくら時の流れが他より遅くともその流れは必ずやってくる。どこからともなく。

「父もそうだったのでしょう。森家の長男でありながら母が亡くなったすぐは家にあまり寄り付かなかったと聞きます」

 飽き性、気分屋、能天気。

 それは昔から言われていたらしいが、気前が良く愛想のいい男なもので憎まれることは特にない。悪い噂というよりも呆れの方が強かったとは後々、こっそりと聞いたものだった。

「そんな人であるなんて幼い私は分かるはずもなく。優しい父でした。よく笑う人で、家に戻ることがあれば真っ先に私の頭を撫でてくれるんです。大きな手で」

 目一杯抱きしめてくれたのをよく覚えている。けれど段々とそれが薄れてしまい、真実か幻かあやふやになってきた。

「五つの時でしょうね。ぱったりと姿を見せなくなりました。それはもう呆気なく」

 最後に会ったのは春だったか夏だったか、秋、それとも冬――もうろくに思い出せない。ただ交わした約束だけははっきりと覚えている。父の声を忘れていても。

「すぐに戻るとそれが口癖のようでした。えぇ、確かそうです。戻ると約束したんです。だから私はずっと待っていました」

 何年も。どんなに父の思い出から遠ざけられようとも決して約束を忘れることはなかった。

 祖父母が水土里町の尋常小学校へ通わせようとした七つの年の春。叔父に預けられることとなったが、その時に祖父母へ頼んだことを思い出す。

「私がいないとお父さんが驚いてしまうから伝えておいてくださいと、そうお願いしました。父が戻ったらすぐに帰ろうと……そんな日が来ることはありませんでしたが」

 学校に楽しい思い出はない。どこを見回しても同年の女児は少なく、また教師もあまり構ってはくれなかった。しかし仲の良い友人は僅かだがいたはずだ。名前は記憶にあるけれど彼女らがどんな子供だったかまでは覚えていない。

 勉学に励むのは祖父母と父の為だ。今にして思えば帰らぬ父を忘れさせる謀りだったのだろうが純粋な幼心は操れない。

 教師からいびられようとも叔父や叔母、従姉妹とのぎこちない生活にも耐えられる。頑張れば報われる。褒美だってもらえるはず。父が褒めてくれるはず。

 真文は馳せた記憶から少し離れるように顔から手を離した。色味の薄い空間で、鳴海がただ静かにじっと聞き入っている姿が目に留まる。

 その真剣さに応えるよう真文は背筋を伸ばした。

「ある日、叔父が言いました」

 ――この前、兄貴を見たんだが若い女と連れ立っていたなぁ。

 父というものは母娘を愛するものだと信じていた。父は強く母を愛していたと娘も愛していたと、無償の愛を注いでくれるものだとそれまでは信じていた。側にいなくとも愛してやまないものであると。そんな綺麗な思い出に塗り替え、跡形もなく装飾を施した。

 何故そう思い込んでいたのだろう。

 叔父家族がそうだったからか。いや、違う。

 父が母の話をすると遠くを見つめて黙っていたから。慈しみが見えたから。底抜けに明るい父が、悲しい色を見せたから――だったろうか。

「それすらも今では曖昧なんですけれど……それがはじまりだったことは確かです」

 万物流転の世だから、人の心は移ろいやすい。

 でなければ、この心が浮かばれない。

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