陸・冬櫻は春を待たず

 岩蕗邸を飛び出そうとした時、師は助言した。

短刀そいつの使い方は、お前ならばすぐに分かるだろう。荒っぽい使い方をしてあるから、多少の荒業は出来る……まぁ、使い方次第でどうとでもなるさ」


 腰に差した短刀の柄を握ったままで、仁科は笑みを絶やさず鯰と向き合う。泥をかぶったぬったりとした生臭さが店の中に広がっていく。

 鯰は座敷に上がってもなお同じ言葉を繰り返した。

《娘サン ヲ 貰イ受ケニ 来マシタ》

「……その前に、少しだけお話をしませんか」

 仁科は鼻を掻きながら言った。安穏とした声音だが、彼の瞳は混沌の黒が蠢いている。

 鯰は小さな濡れた目をじっと仁科に向けた。そして、大きな口からゴボゴボと何かを吐き出す。黒くドロリとした粘着質な何かが畳の上に広がった。三和土にまで向かう。品物が黒の泥に飲み込まれていくも、仁科は静観を決め込む。

 対し鯰は不気味に口から泥を吐き出しながらブルブルと震え始めた。表皮が泡立っていく。大きく膨らむ風船のようにそれは内部を圧迫せんと全体が肥大していく。

「やれやれ。本当に話が通じないらしいな、これは」

 仁科は溜息を吐き、ゆうらりと気怠げに立ち上がった。

「私はただ話がしたいだけなのです。しかし、貴方は聞く耳を持たない。まぁ耳がどこにあるのかは分かりませんがね……怒るのは結構ですが、それは無意味ですよ」

 鯰は今や天井に達するほど膨れ上がっている。泥は踝が浸かるほど溜まっている。店内はガタガタ震え、外から揺らされているかのよう。棚に置いた品が泥の中へと真っ逆さまに落ちていく。飲み込まれていく。

 仁科はただ冷ややかにその様を眺めていた。威嚇の鯰を睨みあげる。

「この店を突き破って村を壊しますか。昔のように」

 その声は届かない。怒りに狂った大妖を止めるほどの言葉ではないようだ。仁科は短刀を鞘から抜いた。鉄色の刃を真っ直ぐに足元へ突き立てた。

 ドンとそれは力強い音を響かせる。肥大していた鯰の視線がすぐさま短刀へと移った。鯰の動きがピタリと止まる――途端に外が唸りを上げた。轟々と、地を割るような山の悲鳴。それが店の壁を叩く。

 鯰は何かを探すように忙しなく視線を動かした。狼狽か。外と対比して何の唸りもしない無音の大妖はやがて自らが吐き出した泥の中へ埋まるように溶けていき収縮した。ドロドロと流れて戸の隙間から出ていこうとする。

「まだ話はついてませんよ」

 短刀を引き抜いた仁科もその後を追う。

 店を飛び出せば、元の鯰の姿へ戻った大妖が川の方へ大急ぎで向かう姿が見えた。

 荒れ果てた山と野、田畑が広がった景色。

 ここは本当に吹山村なのか疑わしいほど麓一帯が崩れている。地響きが遠く向こうで鳴っている。

 当然、鯰川も水が溢れかえり、櫻並木をなぎ倒していた。壊れている。何もかも。

 全て壊れていれば、もう壊すものがない。

 鯰は右往左往し、かつてそこにあったはずの古櫻の元で止まる。仁科も息を切らしながらそこまで追いついた。

「……そこには、もう誰もいない」

 死んだ櫻を指し、彼は言う。

「彼女たちを解放するんだ。でないと、いつまで経っても救われない」

 櫻の怪異を生んだのは人である。それを肥大させいつまでも縛っていたのは鯰の憐れみだろう。だが、救われないままの魂は腐る。百年もの長い年月によって、また大きな力によって暴走させる。また新たな悲劇をもたらすのだ。

 仁科は鈍く光る鉄色を鯰に向けたままゆっくりと近づいた。

 それに気づいた鯰は刃を見、仁科を見、また櫻へと目を向ける。やはり言葉を発さない。顔色も分からない。ゆっくりとした時が流れ、刃が触れるか触れないかそこまで到達した瞬間。

 ニィッと鯰は大きな口を横へ伸ばした。

《居ナケレバ 又、他ヲ捜スマデ》

 水を含んだ音が重なり合い、言葉をつくる。

 仁科は目を瞠った。またも鯰は姿をくらまそうと収縮していく。

 刹那、彼は鯰に向かって刃を振るった。弧を描く切っ先。鯰の首をとらえる。不気味な笑みを見せていた鯰だったが、途端に目をひん剥いて口からまたも黒い泥を撒き散らした。

 仁科は刃に付着した泥を見た。じわじわと浸透するように泥が刃の中へ吸い込まれていく。

 咄嗟に振るったからか切れが甘かったらしい。鯰はゴボゴボと煮立った湯のような音を漏らし、その場でのたうち回った。

「浅いか……だったら」

 バタバタと足元を暴れる鯰を見下ろし、左腕に巻いた包帯を解く。躊躇なく皮膚に刃を滑らせ。鮮血を刃に染み込ませた。それを真っ直ぐ鯰の脳天へ――突き刺す。

 瞬間、鯰の大きな顔から黒の泥がほとばしった。小さな目からは目玉が飛び出し、詰まっていた中身が飛沫の如く噴射される。膨大なそれは仁科の頭にも降り掛かった。それらは短刀に飛び散るとやはり刃に吸収されていく。

「……人を喰らうならば、生かしてはおけない」

 仁科は肩で息をした。頭からかぶった泥を嫌そうに拭う。生臭さく、鼻が曲がりそう。

 刃を仕舞い、血が滴る左腕を隠すように袂へ突っ込んだ。

「さて、と」

 村の辺りへ目を向ける。崩れて荒れた山や野は、みるみるうちに元の姿を取り戻していった。溢れかえった川も何事もなかったように静まっている。

 今まで札に書いた文字による幻術を見せることはあったが、村全体に術をかける大技はない。靄がかかった景色が夜の空へ溶ける。それを眺めていると、気が緩みそうになる。脱力しかけ、仁科は自嘲気味に笑った。笑ったついでに渇いた空咳が飛び出す。思ったよりも体力を消耗したらしい。

 しかし、まだ終わりではないのだ。まだ真文を見つけていない。彼女を拐った鯰は消えたのだから隠された彼女を捜さなければならない。

 ふと萎びた古櫻へと視線を移した。その向こうにある川面。月のない冷えた夜の川は波一つ立っていない。

 そこにひとひらの花弁を捉えた。川面に浮かぶのは白い点のような。一瞬、光かと思ったがそれが花弁であることを彼は妙に確信していた。花弁が浮かんだそこから波紋が広がっていく。

 仁科は息を潜めて、萎えた櫻の脇をすり抜けた。ゆっくりと新芽が覗く芝を踏んで川岸を滑り降りる。やはり櫻の花びらだった。一片だけの花に手を伸ばしてみると、その花を中心に次々と薄紅の櫻が川面から浮かび上がってきた。伸ばしかけた手を止め、凝視する。一瞬の間に花弁にまみれていく水面。だが、浮かんでくるのは花だけではなかった。

 白く透き通った滑らかな肌が見える。浮き上がってくるのは馴染みのある少女。目を閉じたままで川面から姿を現した。

 彼女は花を纏い、ゆっくりと目を開かせる。睫毛を瞬かせ、目が合うと彼女は安堵したように微笑んだ。

「――先生、おかえりなさい」

 眠りから覚めたばかりの真文は穏やかな声でそう言った。そんな彼女を抱き起こしながら仁科も笑う。

「お待たせして済みません、真文さん……ただいま」

 一面に浮かぶ花が一斉に揺らめいた。


 ***


「――夢を、見ていたのです」

 彼女は目を再び開いた後、静かに言った。

 霊媒堂猫乃手へ戻り、彼女の体が眠る部屋で仁科と鳴海はその目が開くのを待っていた。魂が戻った彼女の青白い頬には徐々に赤みが浮かんでいく。

「夢、ですか……」

「えぇ。とても恐ろしく悲しい夢でした」

 真文は緩やかにも毅然とした声音で話し始めた。

「櫻の下で亡くなった彼女の記憶です……あの人がどんな思いで生きることに執着していたのかが分かりました。そして、出会ったんでしょうね。あの鯰と。貪欲同士、惹かれ合うものがあったのではないかと思います」

 あの川面で彼女は全てを悟った。

 百年の時を経てば優しげな情など薄れてしまうのだろう。憐れみは呪いへと変化した。しかし、当時には在った。生きることに執着した女と大妖を繋ぐ何かが。その何かは──やはり、縁だろうか。

 真文は遠くを見つめるように、ぼんやりと天を眺めた。そこには不安そうな仁科と鳴海がいる。その視線で我に返った真文はむず痒さを感じ、瞬きを繰り返した。起き上がろうとしたが身体が上手く動かない。

「あぁ、動かないでください。まだ不安定でしょうから、そのままで」

 仁科が慌てて言う。それならば甘えるしかない。真文は段々と事の大きさに気づき、不安と困惑を浮かべた。

「ええと……あの、その、何やらご心配をおかけしたようで……いつの間に私はこうなってしまったのでしょうか……」

 日常を過ごしていたはずが、いつの間に捕らわれてしまったのか。その境界が分からない。

 すると、仁科が鳴海をちらりと見やった。説明を促されれば、それまで黙り込んでいた鳴海が咳払いする。

「そうだね……日で言えば、二月十三日。中星に会った帰りだよ」

「あぁ、あの帰りでしたか。まったく気がつきませんでした。だって私、帰ってきたつもりだったもの」

 既にその時から、身体と魂は離れていたのだ。簡単に奪われてしまったことに驚くも、心は不思議と穏やかだった。

 ぼやけた天井を見ていると瞼が段々重くなっていく。息を大きく吸えば藺草いぐさの香りが懐かしく、また落ち着きをもたらしてくれる。

「還って来られて、良かった……」

 すぅっと息を吸い込めば、微睡みの中へ落ちていきそうだった。これが夢でなければいい。本当に帰って来られたのだと自覚しつつも、今眠りに落ちてしまうのはとても惜しいと思えた。

 仁科の手のひらが彼女の両瞼にかぶさってくる。

「今はゆっくりお休みください。大丈夫。また明日の朝に会いましょう」

 耳の奥に優しげな声が届けば、もう眠りに抗うことは出来なかった。

 ゆるゆると温もりに埋まるように重たい体が落ちて、落ちて、落ちて……深く落ちて行く。

 深むる眠りの中で意識はない。無音の中、やはり水面を漂う感覚で眠りが深まっていく。

 落ちて、

 落ちて、

 更に深くまで落ちて……――


 ――まだ、死にたくない……!


 金属が擦れたような、それでいて華奢で脆い悲痛な叫びが鼓膜を震わせ、真文は思わず飛び起きた。


 起き上がれば、そこは自室ではなく鳴海の部屋だった。隅に置かれた行灯が煌々と暖かな光を揺らめかせている。

 真文はふらつく足のまま襖をそっと開けた。冷たい廊下に裸足を乗せれば驚きで肩が上がる。冷たさにいちいち怯えながら表の座敷へと顔を覗かせてみる。すると、寝転がった仁科の頭が見えた。

「おい、仁。そこで寝るんじゃないよ。客が来たらどうするのさ」

 鳴海の呆れた声が遠くで聴こえてくる。すると、仁科は欠伸をしながら安穏と返した。

「しばらく店は休みにしましょうよ。品も全部壊れてしまったのだし」

「はぁ? ふざけんなよ、お前。何呑気なこと言ってんだい。売り物がぶっ壊れて大損こいたってのに、今働かずしていつ働くのさ」

「もう休むって決めたんですよ。店主は私です」

「煩い、黙れ。この、のらくら者が……――あら」

 鳴海は座敷に上がると、すぐに真文の姿を捉えた。仁科も寝転がったままでこちらを振り向く。見つかったことに真文は照れ隠しの笑いを浮かべた。

「賑やかですね」

「どこをどう見てそう言ってるのさ。真文、あんたまだ寝ぼけてるんじゃないかい」

「あら。もう十分眠りましたもの。そろそろ動かなければ体が固まってしまいそうだわ」

 すぐさま言えば、鳴海は口角を引きつらせて眉をひそめた。だが、これは笑いを堪らえようとしているのだ。仁科の手前、破顔を我慢しているのだろう。

 それに気づかない仁科が案の定、冷やかしの笑いを投げた。

「あはは、言い負かされたな、登志世」

「煩い!」

 鳴海の拳骨が仁科の脳天に落ちた。

 そんな今朝は二月にしては晴れやかで、春の暖かさが漂う緩い風が吹いていた。

 穴の空いた畳を真ん中に仁科と鳴海が横並びに座り、その向かいで真文が姿勢良く座る。訊きたいことは山とあり、切り出したのは真文からだった。

「先生……私の左目をどうなさったのですか」

 起きてすぐに気がついた。傷で塞がった左目は眼球は存在していることは分かっていても重みをなくしたように軽い。深い傷を顕にしたままで、真文は静かに答えを待った。

 一方で彼らは気まずそうな顔をしていた。

「――呪いを解きました」

「えっ……」

 仁科の言葉は簡潔だった。ただ、どうにも似つかわしくない頼りなげな態度に真文は怪訝に首を傾げる。すぐさま仁科はそれに応えた。

「まぁ、勝手にしたことなので……そのう……うーん、怒られるかなぁと」

「そんなことないです。ただ、びっくりして。そんな急に、そう言われても……」

 呪いを解いたなんて呆気なく言われてしまえば驚くのも疑うのも当然だ。それに実感もない。しかし、左目に巻き付いた櫻の呪いには確かな重さがあったのだと改めて思い知ることが出来た。

 眠りの中で聞いた悲鳴は呪いを解いた時の櫻の叫びだったのだろう。眠りの最中に行われたのか。

「真文さん」

 そう呼ばれるまで思考を巡らせていた。

 真文はごくりと唾を飲み、仁科の顔を真っ直ぐに見つめる。彼は未だに気まずそうな表情でいた。

「呪いを解いたと言えども完全ではありません。以前、櫻の呪いは他の妖が嫌うものでしたから、それが護りになると言いましたよね……でも、今回のことは想定外でした。本当に申し訳ありません」

 彼は悔やんでいるのだ。それがようやく悟れた。

 真文は呆気にとられて彼が頭を下げる様を見た。目をぱちくりと開かせ、そろりと鳴海に視線を向ける。こちらもまた渋い顔をさせていた。

「あ、あの……そんな、でももう終わったことですよね?」

 慌てて問うと仁科は前髪の隙間から目を覗かせた。

「まぁ終わったと言ってもいいんでしょうが……傷を癒やすにはまだ時間がかかりそうです」

「それくらい、なんてことはありませんよ、私は」

 呪いが消えたというならば安心だ。たとえ目が見えずともそれだけで抱えていた鬱がまた一つ消えるのだから。真文の答えに仁科もようやく安堵の息を漏らした。自然と互いに笑みがこぼれる。

「仁ったら、柄にもなく焦っててね。血相変えて飛んで帰ってきたんだよ」

 悪戯っぽく笑いながら鳴海が教えてくれる。すかさず仁科が眉を顰めた。

「登志世だって一睡も出来なかったって文句言ってましたよね」

「はぁ? 文句なんて言ってないんだが! それに登志世って呼ぶな!」

「あぁもう、どうしてすぐに言い合いをするんですか、お二人とも」

 気が抜けるとすぐこれである。真文は止めに入りながらも可笑しくなり、声を上げて笑った。言葉通り憑き物が落ちて心は晴れやかだ。

「まったくもう……あぁ、そう言えば先生、しばらく休業だと言ってましたよね?」

 ひとしきり笑うと真文は思い出したようにポツリと言った。確かに店の品は乱雑になっていてとても売り物として出せそうにはない。仁科は「うーん」と腕を組んで唸った。

「休みたいんですよね、しばらく」

「まだ言うか、お前」

「そりゃだって、やることが色々ありますしね……あ、そうそう」

 仁科は欠伸を噛みながら言う。

「ついでなんですが、鳴海、お前のその変な引き寄せ体質も取り除いておきましたよ」

「へ?」

「え?」

 思わず聞き逃すところだった鳴海と真文は同時に声を上げる。

「いや、だから色々とやることがあるんですよ。お前がそんなだと店を任せられないじゃないですか。今回のこともお前が外を出歩けたら起きなかったかもしれない」

 そう言われてしまうと鳴海は開きかけた口を閉じてしまった。真文は二人を交互に見やる。

「あぁ、でもその目だけはまだ預けたままにしておきますね」

 仁科は澄まして言うと今度は大きな欠伸をした。驚きと困惑で言葉が出ない鳴海の横で、真文は思考を回転させる。

「えっと、つまり……鳴海さんはこれからもう厄に襲われなくて済むってことですか」

「その通り」

 仁科は得意気に言った。真文の顔が綻ぶ。当の鳴海は未だに自覚がないらしく、固まっている。

「良かったですね、鳴海さん!」

「え? あぁ、まぁ……うーん、良かったのかね」

「心置きなく実家にも帰れますよ、いい事尽くしですね」

 仁科は皮肉たっぷりに言う。たちまち鳴海の眉間に皺が寄った。

「余計な世話だよ、まったく……でも、それじゃあ……」

 しかし、その先は紡がれなかった。代わりに仁科が言葉を掬い上げる。

「そう。まずはあいつを倒しに行かなきゃいけませんから……まぁ、春以降の話です。ともかくひとまず休ませてください」

 そう言うと仁科は話の終了を宣言するかのごとく座敷から出て奥の部屋へと引っ込んだ。取り残された真文と鳴海は顔を見合わせる。

「……まったく、困った店主だよ」

「そう、ですね……」

 真文は苦笑をこぼしながら段々と目を伏せた。

「先生、色々とやることがあると仰ってましたが……いずれまたどこかへ行かれるんでしょうか」

 それは少し寂しくもあったが猫のように気まぐれな店主のことだ。ひょっこり戻って来てはいつものようにのんびりと店で寝転がっているだろう。そして興味の赴くまま、妖を追いかけて生きていくのだろう。

「でも、今はまだ……ここに居て欲しいですね」

 川辺の櫻が咲き誇るまでは。

 そこはかとない寂しさが二人の間を流れる。

「……さてと。片付けを再開しようかね」

 唐突に鳴海が声を上げる。散らかったままの店を見回して呆れの笑いを飛ばした。彼は店の戸を開こうと手を伸ばしている。真文も慌てて立ち上がった。

「お手伝いします、鳴海さん」

「いいのかい?」

「えぇ、もちろんです」

 真文は意気込んで小袖をまくった。それを見て鳴海は穏やかに笑むと、店の戸を大きく開け放つ。

 春にはまだまだ及ばない、それでもいくらかは穏やかな風が吹き込んだ。



《鯰川、了》










 *



 *



 *


 時は平成も末。時代をいくつも経たこの頃。

 とある町に佇む木造の平屋は「霊媒堂 猫の手」という大きな看板が掲げられている。薬と雑貨が並ぶ棚には奇怪な札や守りなんかもあり、そのほとんどが狐の印を施してある。

 ここに仁科という名の若者がいるのだが、彼にはどうも特異な能力があり、なんと妖を視るらしい。この雑貨屋で扱う品はどれもこれも珍妙なものばかりで、店主自身もこれまた妙ちくりんな性格だという。腕は確かだが、あまり関わらないほうが身のためだ。怪異なんぞ知らぬほうが幸せだ。

 しかし、どうにも上手くいかないのならば訪ねてみるといい。この世の不思議、怪異、災厄を解決に導く霊媒の仕事を請け負っているそうだから、およその力にはなってくれるだろう。

 店主に気に入られればの話だが――そう、そこに不敵な笑みを浮かべた彼が、その人だ。

「あぁ、どうも。いらっしゃいませ。霊媒堂 猫の手へようこそ」

 何時の世も、人が在る限り不思議というのは廃れることがない。



《霊媒堂 猫の手〜初代編〜 完》

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