伍・現し世は合縁奇縁なり

 あの顔が、どうして今ここでぎったのだろう。

「時に、真文さんは、蒿雀アオジをご存知でしょうか」

 耳に慣れない言葉だ。真文は首を傾げた。

「アオジ、ですか……」

「はい」

 仁科は眉を下げて穏やかな表情を見せた。

「見た目はただの雀なんですがね、そいつだけ人の顔を見て鳴くのです……えぇ、元より、雀というのはあまり人に懐かない。舌切り雀ならまだしも。でもまぁ、それとも似たようなものでしょうね」

 そうおどけて言いつつ、彼は目を伏せた。そして神妙に喉をごくりと鳴らし口元を微かに震わせる。

「そのアオジにったら気をつけて下さい。私が近くにいたら必ず頼ること。もし、そうでなければ……逃げて下さい」

 唐突に告げられる脈絡のない怪しい言葉。何故、雀ごときに怯えなければいけないのか。怪訝に眉を寄せていたら、仁科はすぐに答えた。

「その雀は、狼を呼ぶ」

「えっ……」

 声が漏れ出てしまい、咄嗟に口元を手で覆う。一体どうして、あの可愛らしく手鞠てまりのような雀と獰猛な肉食獣に繋がりがあるのだろう。

 その問いを投げる間も無く、仁科が言う。

「送り雀というやつです。聞いたことありませんか? ない、ですか……えぇと、あれは何処どこの伝承だったかな。ともかく、しばしの間は雀に気をつけてください。やつが呼ぶ狼は……くだんの元凶となる者ですから」

 念を押すように言う彼の口には笑みが一切ない。


 それが先程に言われたことである。不穏な予感を覚えつつも、やはり鳴海の安否が気掛かりだった。胸のざわつきが止まらず、具合が悪くなってくる。

 真文は、ふるりと頭を振るってきびすを返した。


 ***


「どうも気分が優れないように見えるんだけど……今日はもうお帰りなさい」

 祭りの仕度に、神社まで向かった途端に神主の彩﨑から諭された。穏やかだが、その口調は有無を言わせない圧がある。押し黙ると、彼は「あっ」と慌てた。

「いや、何も足手まといだとは言ってないんだから。真文ちゃんには明日に備えておいてほしいし。こちらの心配は要らないよ」

「はぁ……」

 気の抜けた返事をしてしまい、真文は顔を引きつらせて笑った。だが、誤魔化しは効果がない。彩﨑は確信付くように「ふむ」と眉を寄せた。

「さては、何かあったね。おそらく、仁科くんと鳴海さんに関すること。違うかな?」

「は、はいっ?」

 言い当てられて、思わず声が裏返る。

「あぁ、もう、私ったら、顔に出やすいのかしら……」

「しっかりと顔に書いてあるよ。成る程、成る程。真文ちゃんも、あの二人のことがどうにも気がかりで仕方ないわけだ。そろそろ、付き合いも長くなってきた頃だしね」

 彩﨑はニヤリと口の端を横へ伸ばすと、「隅に置けないなぁ」と冷やかしを投げた。

 しかし、内容としては別段浮ついたものではない。真文は顔を俯けた。

「あの、彩﨑さん……ご相談に乗っていただくことは可能ですか?」

「そうだなぁ。今日はもう、備品の確認くらいしかないだろうから……おやつにしようか」

 そうして、彩﨑は真文を裏の社務所へと促した。


 ***


 真文は、昨日の一件と仁科に語られた過去の話を、かいつまんで話した。

 始終、黙って聞いていた彩﨑は背筋を伸ばしたまま真剣に聞き入っており、話し終えるまで何も口を出さない。

 彼は真文の数少ない話相手である。幼い頃より祖父と共に遣いで出向いていたからか、今では悩み相談をするのならば彼と猫乃手のどちらかといった具合だった。

「――私は無知をいいことに、余計なことをしてしまったのです。やはり、踏み込んではいけなかったように思えて仕方なくて。あの……あの先生の表情を前にして何も出来ず、逃げてしまいました……私は、どうしたら良かったのでしょうか」

 羊羹ようかんを一口、もそもそと食べながら真文はしおらしく言った。縁側で足を投げ出し、小さく空を蹴る。

「んー……どうしたら良かったか、ねぇ」

 鳴海が出ていったこと、仁科が怒っていること、二人のこと。さわりを話しただけで、彩﨑はゆっくりと思案するように唸りを上げる……が、すぐに苦笑を浮かべた。

「難しい話だね。と言うのも、正しい解なんぞないと凡俗ぼんぞくな僕は思うわけです」

 こちらの重さをまったく感じ取ることなく軽く言い、彼は羊羹の切れ端を口に放り込んだ。

「うーむ。なんだろう。あの二人は、まるで固結びの糸ようだな」

「え?」

 茶を啜る彩﨑に、真文は呆けた顔を向ける。いきなり何を言い出すのだろう。

「複雑に絡んでいて解けない。無理矢理に切ってしまうことも出来るけれど、しない。僕にはそう見えるかな」

「固結びの、糸ですか……それでは、誰かがきちんと解いて結び直さなくては……」

 そんな真文の言葉を、彩﨑は手を振って遮る。

「無理に解くと切れてしまうからね。放っておきなさい」

「えっ」

 思わぬ発言に、つい声を上げると彩﨑は面白そうに口元を緩めた。

「それこそ余計な世話なんだよ、彼らにとっては。うん、きっとそうだ」

 納得するように頷く彩﨑。真文はわけが分からず、羊羹を口に含むと力強く噛んだ。頬がぷっくりと膨れる。

「何も真文ちゃんが気に病むことはないんだから。彼らの方がずっと大人だし……あぁ、でも、たまに大人げないところもあるなぁ」

 よく言い争っている二人の姿が容易に思い浮かんだのか、彩﨑が吹き出す。同時に真文の強張っていた肩もわずかに緩んでしまった。その隙を突くように、彩﨑はさらりと言った。

「君は仁科くんを信じているんだろう?」

「えっ……それは……っ」

 つい言葉がつっかえた。何故か口が淀む。

 信じたい。それは勿論。しかし、彼のあの貼り付けたような笑みと言葉が渦巻き、躊躇ってしまうのだ。

「信じ、たいのです。私は……でも、私、今朝に先生を見た時……怖いと思ってしまったんです」

 睨まれたわけではない。怒鳴られたわけでもない。

 仁科が目の前にいるだけで感じた――あれは恐怖だ。恐れが全身に回った。

 ただ漠然と優しい人だとでも思い込んでいたのか。夢から冷めた感覚に似ていた。

「あぁ、分かるよ、それ」

 あっさりとした声が返ってくる。

 きょとんと見ると彩﨑は照れ臭そうに頬を掻いて続けた。

「真文ちゃんがまだ小学校にいた頃、かな。ほら、あの頃はまだ水土里町に住んでいたから知らないだろうけれど、あの時に僕も思い詰めて潰れかけたことがあったんだよ。それを、あの二人に助けてもらって。あれに限らず、とくに仁科くんは……なんだろう。我々とは何か違う生き物に見えることがある」

 言っていることは分かるのだが、理解までは追いつけなかった。真文は首を傾げ、不満を顕わに彩﨑を見た。

「違う、生き物?」

「そう」

 怪訝な視線に気がついたのか、彩﨑は慌てて咳払いする。

勿論もちろん、彼は人間だ。でも、僕らとは違ったものを持っている。妖を視ることは出来ないけれど感じられるようだ。要はと縁を結びやすい、とでも言うのかな。そのせいか、彼がまとう空気というのはどこかしら影がある。暗い何かを背負っている。それが、他の人にとっては不気味に見えてしまう……だって、他と違えば怖いものじゃないか。それが『人』なんだから」

 最後の方は、弱々しく寂しさが見える。真文は唇を噛んだ。

 彩﨑の言う通りだ。人はならうもの。他と違えば避けていく。奇異の目を向ける。いやしくも、あることないこと吹き込んで、徐々にゆっくりと異端を排除しようとする。そういう生き物だ。

 気づくのは容易だった。今はそれほどではないが、かつては己も異端の立場にいたのだから……悔みか怒りか、どうにも口の中に残る甘さが鬱陶しくなる。

「あ、このこと、仁科くんには内緒にしてね。あの人、怒るとしつこいから」

 こちらの感情とは裏腹に、彩﨑は茶目っ気たっぷりの笑みを見せてきた。気遣いか、彼の無自覚な奔放か、どちらにせよ鬱屈した空気が吹き飛んでしまう。ほろりと緊張が抜けた。

 それに仁科が怒るとしつこいことは真文にもいくつか思い当たる。ぎこちなく苦笑を漏らした。

「鳴海さんは……どうなるのでしょうか」

 問いではない。ただの呟きだ。

 彩﨑は真剣に考え込んでくれる。まったく、仁科とはえらい差だ。

「そうだね。僕も鳴海さんが心配……でも、これはもう祈るしかないのかな。とにかく、信じておくしかないんだろうね、二人を……そして、明日は祭りだ。そう暗い顔をしていたら一座の方々に失礼だからね。頼むよ、真文ちゃん」

「う……はい……」

 不安は未だ残っている。しかし、ここは彩﨑の言う通りにしよう。

 そもそも、こちらがジタバタ焦っていようがどうすることも出来ないのだから。

「それにしても、真文ちゃんは随分と変わったね」

 思わぬ言葉に首を傾げてしまう。

「人の為に怒ったり、焦ったり、悲しんだり出来るようになって。今までは周りに合わせていただけなのにね」

「はい? そう、でしょうか」

「そうですよ」

 彩﨑は嬉しそうに頷いた。

「それも、きっと彼らのおかげなんだろうね」

 涼しい目元がなんだか仁科を思わせる。茶化す素振りは鳴海のようだ。真文は彩﨑をじっと見つめた。

「彩﨑さんって、なんだか、あのお二人にそっくりです」

 思わず言うと彼は少しだけ口をすぼめた。

「……よく言われるよ。僕も付き合いが長いからね」

 考えた返答には僅かな嫌気が差していた。


 ***


 権堂家の歴史は古く、江戸幕府第五代将軍・徳川綱吉の代から続く豪農の家柄である。

 武家ではないものの、その辺りでの地位は高く、定かではないが京の都から流れ着いた公家くげの出でもあるのだとか。とにかく、山間の長閑のどかな地に大きな屋敷を構え、その一帯を束ねる役目も担っている。

 しかし、それも今は昔の話。明治維新後の制度改革に巻き込まれ、衰退の一途を辿る命にある。それに、後継者がいないことも原因の一つだ。権堂家の長男である肇は農耕よりも政治や兵役に興味があり、反対する両親を黙らせてさっさと家を出ていった。

 一方で次男は病弱で先が長くないと言われていた。次男――ここ十年は姿を見たことがないとその地に住む者たちは口を揃えるのだが、あることないことの噂が独り歩きをするだけで、真実は有耶無耶うやむやのままに葬られようとしていた。

 さて。権堂家のある地から山を二つ越えた獣道に一人の若者が息を切らして疾走しているのだが、それこそ権堂家の次男である、今は榛原鳴海と名乗る者。

 吹山村を出てすぐに、大きな岩に逃げている最中だった。ただ前を通っただけなのに、目が合ったというだけで追い回されている。理不尽なことこの上ない。

 だが、追われるのは慣れっこだ。ここ十年、山を走ることが多かったため、その逃げ足は素早く長けている。

 鳴海は走りながらも懐から狐印の小瓶を探り当てた。

 ――畜生ちくしょう。早々にこいつを使うことになるとはな……。

 瓶の封を食いちぎって開け、背後で転がる大岩へ投げつける。なんてことはない。ただの目薬だ。ただ、効き目は抜群で目に入ってしまえばしばらくは動けない程度。目眩めくらましと言ってもいい。えいっと力任せに投げつければ見事に命中し、途端に大岩は唸りを轟かせた。

「はっ、雑魚ざこが。もう二度と追っかけてくんな!」

 勝ち誇って道に出る。

 笠の下から伸びる長髪はわずかにうねっており、朝露のせいでますます湿気しけてしまう。実家を出されてあまり手入れをしていなかった報いかと、自嘲をこぼしながら草木を掻き分けて先を急いだ。

 なんとしても日が暮れる前に家……とは行かずとも、宿のとれる場所まで辿り着いておきたい。先の大岩もそうだが、この世ならざる者たちの姿はちらほらと目にしている。木霊やら、精霊やら、小妖怪やら。

「ん?」

 目の前をふわりと飛ぶ、こうじのような白い綿毛が……光のようでもある。思わず身構えた。

 ――あぁ、もう、不便な体だよ、まったく。

 そうやって、頭の中でひとちる。

 幼い頃から病弱で、時には死も危ぶまれていたこともあるようで、それの大半は妖絡みだというが……視えるようになってからは殊更ことさら、その事実に信憑性をもたらしてしまう。

 何かと妖がつきまとう。宿命というものなのだろう。生まれ持っての宿命――受け入れていたのに抗いたくなる。

 ――まったく、これじゃあまるで天邪鬼あまのじゃくだね。

 我ながら血迷った判断だった。そんな嘆きも頭の隅に追いやって、とにかく先を急ぐ。

 坂道は体力を奪う。第一の関門である大きな峠の入口で、鳴海は溜息を吐いた。

 その時。

 ぽつ、ぽつ、ぱたた。

 足元の地面に小さなみ。そして、笠に何かが落ちてくる。上を見上げると、鼻先にぴしゃんと雨粒が。

「おいおい、冗談じゃない……」

 幾らか腹をくくって出て来たものの、雨は予想していなかった。

 経験上、雨は不吉の前触れだ。

 足早に道を抜けようとも、まだまだ集落は見えやしない。町よりも遠い閑静な土地は妖の棲まう所であると相場は決まっている。恐らく、常人では視えぬ類であっても、思わず目に入ってしまうのだろう。

 鳴海は笠を深く被り、慎重に進んだ。しかし、舐めるような視線を背に感じている。肌が粟立ち、寒気が忍び寄る。空は陰っていき、雲の流れはぐんぐんと早い。風もよく通る。

「ったく、どこまで運が悪いんだよ」

 舌打ち混じりにぼやいた。

 一際大きく吹く突風が肌をかすめた。どうやらこちらの文句を風が聞いていたらしい。思わず腕を上げて顔を護り、立ち止まる。

 ざわりと草木を荒らす風は、木の葉を蹴散らして嘲笑っていた。

「くそっ……」

 薄目で見やると、腕にはびっしりと切り傷が。風がつけたあとだろうか。こんな道端で傷を作っていたら厄介だ。何せ、やくを受けやすい体質だ。血のニオイを嗅ぎつけた厄介共が集まってくる。

 ――急がないと。

 足を踏み出し、風を払う。が、強い唸りを受けていては背後で蠢くものに気づけない。

 黒く蠢く、糸のような。どろりと濁ったのりのような。無数のぎらりとした目玉が。近く、すぐ後ろに迫っている。


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