陸・奇妙奇天烈、狸穴一座

 ――まずい……まずい、まずい、これは本当に、まずい……

 視界は悪くなる一方だ。細長い灰色の雨が降りしきり、足元は緩く、一歩を踏みしめるだけで重さを帯びる。背や肩には厄がへばりついていた。どろどろまとわりつき、振り払えどもキリがない。腕の小さな傷口に当たれば化膿して膨らんでいくだろう。それだけは避けたい。しかし、それもつかの間だった。目玉の大きな黒い厄が腕を舐めるように滑る。

「っ……!」

 小さく些細ささいな傷なのに肌を削るような痛みが走った。思わず腕を抑えるも、あまり意味はない。息も苦しくなっていく。

 とにかく、この厄を剥がさなければ。だが、雨のせいかそれらは重みを増してきた。傷口を開き、掻い潜ろうとする。

「あぁ、もう! 鬱陶うっとうしい!」

 懐に忍ばせていた小瓶のもう一つを出した。店から出る前に仕込んでおいた清酒。それを一気に振りまいた。

 厄は慌てて離れたが、小さかった傷は今や紫に変色し、深みを増していた。

「本当にまずい……」

 一刻も早くこの場から離れなくては。

 だが、雨は強まる一方で、体力は徐々に蝕まれていく。

 視界が悪い。息が切れる。腕はじくじくと神経を刺激する痛みが絶え間ない。走っても走っても景色は一向に変わらない。

「え、あれ? どうしよう……おかしいな。この道を行けばいいはず、なのに……」

 おぼろげな記憶を脳内に巡らせるも痛みが邪魔する。この道ではないことはうすうす気づいていた。しかし、る気持ちと厄への恐れが足を速めていく。行く手はますます険しくなり、やぶが行く手を阻んでいた。それでも、足は歩みをやめない。追われるように前へ前へと進んでいく。

 ――早く、早く行かなくちゃ……行かないと……

《……何処に?》

 ――そんなの、決まってるだろう。

《……あの忌々しい家に?》

 ――あぁ、そうだ。忌々しい、胸糞悪い家だ。

《行ってどうする? 会ってもらえるのか、あの人に?》

 ――……。

《お前を捨てたあの人に、会いに行くのかい?》

 どこからともなく聴こえてくる声。

 それは厄か妖か物の怪か。

 あるいは、己か。

《お前をそんな風にしたのは誰?》

《お前は何にもれないよ》

《成りきれない。成り損ない。男にも女にも成れない。半端者》

《まるで化物じゃあないか》

《生まれなきゃ良かったのに》

《要らない子なのに》

《それでも、まだ、この世にいたいのか?》

 足がすくんだ。力が抜けていく。今日の雨はやけにお喋りで、耳の穴がすこぶる煩い。張っていた気が緩んでいく。目の前が暗がり、遠のいていく。

 まやかしだとは分かっていた。幻聴だ。相手にするだけ無駄なこと。

 それなのにどうして、足は動かない。家へと近づくにつれて鼓動は激しくなっていく。駄目だ、上手くいかない。

『疫病神』だと、何度言われたか。思い出さないようにしていたのに、あの声や言葉がっていく。母からまれた記憶がぐるぐると渦を巻いて止まらない。

 ――駄目だ。やっぱり、駄目だ。

 意思が崩れていく。すると、背後からずるりと何かが這い寄ってくる音を聴いた。

《おいで。連れてってあげよう、幽世カクリヨへ》

 よどんでいく。どんどん、どんどん、胸の中がくすんでどろどろと黒に染まる。もう、動けない。

 その時、急に足がふらついた。力が抜けたからではない。誰かが袖を引っ張ったような、強い力によろけてしまう。

「う、わっ!」

 思わず声を上げ、尻餅をつく。遠のいていた意識が急激に明瞭になり、鳴海はあちこちと脇を見やった。

「え?」

 見ると、腰の辺りでうずくまる子供がいた。くしゃりと濡れた黒髪に見覚えがある。荒く呼吸をしているところ、走って追ってきたよう。目元を強く立たせてこちらを睨み上げる、それは……

「……光輝みつき?」

 問うと彼は大きく頷いた。何故、光輝がこんなところにいるのか。傷のある腕にしがみつく光輝の姿に呆然とする。その背後から、今度は遅れてやってくる男の影。黒い外套をなびかせて冷たい雨に打たれるその人は、かつての師だ。

「はぁ……あぁ、ようやく見つけた。なんとか生きてるな、登志世」

 頼りなく眉を下げてこちらへ寄ってくる岩蕗いわぶきの姿に、鳴海は更に戸惑うばかりだった。


 ***


 雨により一時は祭りの開催が危ぶまれたが、夜が明ければカラッと晴れた青空が一望できた。

 午前は例年の通り、恵みに感謝するための儀式をり行う。彩﨑神主が仕切る彩﨑神社の境内で厳かに粛々しゅくしゅくと進んだ。村長をはじめとする村民が集まり、当然、真文も参列した。

 ただ、昨朝に旅立った鳴海や、険しい気配を匂わす仁科が気がかりではいる。

 それに、彼の姿はどこにもない。猫乃手の戸口へそっと、一言添えた手紙を挟んでおいたが様子は分からなかった。時が経てば真文の心はやきもきしていく。

「――さ、皆さん。豊穣の儀はまだまだこれからです。少しの休みを入れたら、またお集まりください。出来れば皆さん、ご一緒に」

 儀式を滞りなく終えた頃。彩﨑の声により、辺りはがやがやとにぎわった。

 あれだけ嫌がっていた長老会の面々もわずかに浮き足立っている。見世物を呼んだことは間違いではなかったのだろう。真文はひとまず胸を撫で下ろした。

 あとは……

「あとは、仁科くんが来てくれることだけ、かな?」

 後ろから彩﨑がこっそりと言う。まるで心の内を見透かしたような言葉に真文は慌てた。

「は、ははははい、そうですね! 鳴海さんも戻っていらっしゃれば尚良いのですが……」

「そうだね……」

 相槌には少しの諦めが含まれていた。空気が重くなる。

「ともかく、今は祭りを成さねばならない。真文ちゃん、今から一座の皆さんに挨拶に行くんだけど、一緒にどう?」

 その提案に、気を取り直して頷く。真文は一つ呼吸をした。


 ***


 びし興行こうぎょう狸穴まみあな一座いちざは過激な見世物に対する条例を真っ先に飲み従い、時代に合わせた演目を見せることで名を馳せた。帝都・東京ではそこそこ人気があるという。

 神社より少し離れた空き地に建てた簡易の芝居小屋で、彼らは待機している。のんびりと談笑しながら、すでに酒を煽っていた。

「どうも」

 先に彩﨑が入っていく。その後ろを真文がついていく。

 すると、ひょろ長い陽気な男が立ち上がった。

「おやぁ、神主様。今日のお日柄はすこぶる良いですな! 儀式ってやつぁ終わったのかい? 終わったかい。そいつぁ何よりで。こっちはもう準備万端でさぁ。いつでもかかってきやがれってんだ。どんとお任せあれ」

 狸穴一座の長を務める矢菱氏は、細長く針金のような体躯なのに声量だけは人一倍だ。口調も気が強そうで威勢がいい。

 彩﨑は明朗に笑うと、あとずさるように小屋の入り口へと戻った。

「元気がいいよね……まったく、彼らは無邪気な子供のようだ」

 要するに「威勢が良すぎる」というのだろう。他所の、しかも都会の人間は大人しい地方民にとっては異質に思えてしまうもの。だが一度、芸が始まればたちまち引き込まれるに違いない。

 真文はふと小屋の隅にいた者に目が留まった。なんとそこに、あの顔を隠した修験者のようなあの男がいたのだ。一座の者だったとは知らなかった。だが、その姿を見ているとどうにも胸騒ぎがし、落ち着かない。彼が顔を上げると同時に真文はすぐさま視線を逸らした。そのすぐ先に、大きな目玉が二つ。

「きゃっ!」

 思わず声を上げて飛び上がると、二つの目玉はぎょろりと焦点をずらした。落ち窪んだ目がどうにもおぞましく、背筋に寒気を誘う。

「あぁ、ドロ。お客人を脅かしちゃあ駄目よ。そいつぁ本番にとっとけぇ」

 座長の声に、大きな目玉の小男は小屋の隅へと駆けた。じっと、だんまりで真文を見やるが口は一向に開かれない。気味が悪く、どことなく酸っぱく嫌な異臭を放っている。まるで、風呂に数日入っていないような。浮浪者ふろうしゃのような。

 真文がもう一度、ちらと視線を這わせると、小男は口の端を釣り上げて笑った。


 ***


 とんつく、とんつく。太鼓が鳴れば人々はキョロキョロと首を回す。

「さぁさぁさぁ、そこのべっぴんさん、旦那様、嬢ちゃん坊っちゃん、はたまたお爺にお婆、皆々みなみな様。御用とお急ぎない方は寄ってらっしゃい見てらっしゃい。奇妙奇天烈、摩訶不思議が揃い踏み。さぁさぁさぁ! いよいよ開幕、狸穴一座の見世物をたーんとご覧あれぇ」

 無邪気な座長が畦道を軽快に歩くだけで、村民は興味をそそる。

 円錐形えんすいけいに大きな布をまとった造りの見世物小屋に、芝居櫓しばいやぐら、色鮮やかなのぼりがひしめいていた。そこへ吸い込まれていくかのように客足は絶えない。村民全員が集まっているのだろう。

 真文は小屋の入口辺りで、そわそわとうろついていた。袖に忍ばせていた仁科の折り鶴を出し、溜息を吹きかける。

 あれきり彼の姿を見ていない。心配やら腹立たしいやら。とにかく気が休まらない。

 と、前方が途端に陰った。

「やあやあ、お嬢さん。そんなあけっぴろげに不幸面を見せなさんな」

「そうそう。折角の祭りが台無しさ」

 目の前にひょっこりと顔を覗かせたのは、あの狐の兄弟だった。今日は青年の姿に化けているらしい。真文よりも遥かに歳上に見える。

「右吉さん、左吉さん! 来てくださったんですね」

「おうよ、なんせ中星様のお言いつけだからな!」

「おうよ!」

 威勢だけは人間顔負けだ。二匹はにこりと笑みを向けて真文の手を取った。

「さあ、入ろう。俺たち、今日を楽しみにしてたんだ!」

「うんうん。おやや? 今日は猫乃手の旦那はいねぇんだな? そいつは好都合」

 にまにまと笑い合う二匹を連れて、真文は小屋の中へそろそろと入った。

「座って見るのかい?」

「なんだかお行儀が良くって、尻尾がもぞもぞするぞ」

 右吉が言えば左吉が言う。二匹は小屋の中を見回しては感想を言い合った。

 円状の小屋には座敷のような長椅子が、舞台をぐるっと囲んでいる。

「見世物は私も初めてなんですが、こういう形の小屋は矢菱さんくらいだそうですよ。立見がほとんどなのだと彩﨑さんが仰っていました」

 得意げに説明すると、狐二匹は「へぇぇ」と感心に唸った。

 客の入りも良く、外で誘導する彩﨑の他に仁科と鳴海以外は馴染みの顔ぶれだ。真文は何度も小屋の入り口を見やった。

 仁科は来ない。彼は何を考えているのだろう。鳴海が不在の今、彼を脅かす者は確かに存在するのだろうが。

 それでも、少しくらいこちらに気を回して欲しかった。そんな自分本位の願いを素直に認める。

 会いたいのに。会って、安心したいのに。もう、どうしても通じないのだろうか。

 真文は胸に溜まった未練を断つように、最後の息を吐いた。

 ――先生なんて、もう、知らないわ。

 頬を膨らませて、最後列の長椅子にどっかりと座った。傍らの狐はその空気に触れて、驚くように目を合わせる。

「お集まりの皆々様。間もなく開幕にございます。お代はもうもらってますんで、とにかく見てってくださいな。なぁに、損はさせません。行きはよいよい、帰りはこわい? そんなこたぁござらんよ。最後までごゆるりとお楽しみくださいませ」

 高く造られた舞台の上で、軽快な矢菱座長のタンカが聴こえてくる。拍手が沸くと同時に、座長が口から真っ赤な炎を吹き出した。観客が仰け反ってどよめいた。

「っとと、おったまげた? そいつはぁ何よりで。しかし、まだまだ序の口ですよ。奇妙奇天烈、摩訶不思議、魑魅魍魎の世界へお連れしましょう」

 煙をぷかぷか宙へと浮かべ、座長は柔和な笑みを客席へ向ける。

「さて。ご覧の通り、私めがあずまの火吹き男。そういや、こちらの村は吹山村という名でござんしたな。吹く山に火吹き男、これまた何かのご縁でしょうか。あぁ、こいつで山に火をつける、なーんてことは致しません」

 それでも彼の口からは時折、炎が覗く。狐二匹は「ひゃあ」と情けなく小さな悲鳴を漏らすが、真文も顔を手で覆ってチラチラと座長を見ていた。

「前座を務めさせていただきますは私、火吹き男こと矢菱でございます。ではでは、お待ちかね。本日の見世物をご紹介。さぁさぁ、そこのお嬢ちゃん、隠れてないでよーく見て。おいおい、坊ちゃん、お手を触れちゃあいけやせん」

 絵巻がばさりと宙を漂った。客はそれらを目で追いかける。

 舞台で弾みながら、座長は陽気な声を上げた。

「見えます? これこれ。何、見えない? そんならば私が煙で指しますから、ね、それを目で追ってくださいな。はい、お次はね、こちらの芸をお見せしますよ。みょうちきりんで奇怪きっかいな、世にも不思議な軟体踊り。くねってくねって、うにょうにょうにょうにょ。あれれ? 腕が、腕がにょろんと伸びてきた……あぁ、違った。こうだった。はいはい、目をかっぽじって、耳を凝らしてよーくご覧あそばせ!」

 口上が終わって間もなく、舞台は一気に賑わった。

 洋装の男女が全身をくねらせて、まるでタコ足のごとく奇妙な動きで客席を練り歩けば、次は鬼に扮した芸人らが地獄の底から湧いて出てきたように大きな絵巻を広げて客の周囲をぐるぐるる。そうすれば、小屋の中は途端に地獄の世と化した。すると今度は、一人の坊主頭の老爺が舞台の中央でちんまりと座って、おどろおどろしい怪談噺を披露する。

 飽きの来ない見世物の連続に、老若男女問わず皆が目を輝かせていた。


 ***


 所変わって、狐社の入り口では藪を掻き分けてゆるゆると忍ぶものが一つ。羽衣を漂わせてゆっくりと外の様子を窺っている。

 その背後に突然、荒々しく地を踏み鳴らす音が立った。

 耳をぴくんと動かして、中星は素早く振り返る。

「なんじゃ……ただならん殺気をぷんぷん匂わせおって。どこぞの大妖の類かと思ったわい」

 不機嫌よろしく扇子で口元を隠し、その人物を睨みつける。

「何用じゃ、仁科。汝は見世物に行かんで良いのか」

「いや、まぁ……何の興味も湧きませんね。あんなもの」

 仁科の表情には色がない。中星を真っ直ぐに見据えるその痩身は木漏れ日を当てた眼鏡を光らせている。

 それを細目で見つめる中星は、喉からほほほっと甲高く短い笑いをこぼす。

「汝のその表情かおを見るのは随分と久しいな。汝は笑うより、そのなんとも知れん無の表情がよう似合うておる」

 この指摘に、仁科は嫌そうに頬を引きつらせた。

「うーん……これでも努めて表情豊かにしてきたつもりなのですが……」

「それは裏目というものじゃな。あんなだらしのないツラは儂は好かん。胡散臭うさんくさい」

 そうしてまた甲高くコンコンと嘲笑う。しかし、仁科は口元を一つも動かさず黙ったまま。

 ひとしきり笑った中星は小首を傾げた。

「して、何ぞ。汝が足を運んでくるとは、余程の大事じゃろうな」

「……えぇ、まぁ。中星様には是非、お力添えして頂きたく」

 仁科は鬱屈した息を吐きながら、早口でボソボソ言った。彼は何かを焦っている。

 中星は不機嫌に眉をひそめる。

「なんじゃ。はっきり申せ」

「……鳴海がいない今、私には頼りがない。私は今、かなり弱っています。だから、」

 少し言葉が切れる。もどかしげな声音には諦めが滲んでいた。

「もしも、私や真文さんに何かがあったその時は、をどうかお願い致します」

「………」

 中星はじっとりと舐めるように彼を見た。

 普段はとした男が、体を折り曲げて深々と頭を下げる姿を目の当たりにするのは、これで二度目である。一度目は鳴海が倒れた時だったが、それももう幾年も前の話だ。

 記憶を手繰たぐり寄せて、彼女はにやりと笑った。

「……その代わり、汝は儂に何をくれる?」

 願うなら、それなりの代価を払わねばならない。それが猫と狐の誓約。

 守銭奴の妖狐は至極の愉悦を浮かばせて、舌なめずりをした。


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