肆・懐古の波に揺蕩う
祭りの準備に向かう前に、真文は猫乃手の戸口で立ち止まっていた。
昨日はなんとも後味の悪い幕切れだったので、二人の様子がとくに気にかかっていた。
――また言い争っていなければ良いけれど……。
だが、そんな考えも
帰りにでも寄ってみようかと悩んだ挙句、戸に背を向ける。しかし、その場で長いこと足踏みをしていたせいか間が悪く、背後でガラリと音が響いてきた。
「ひゃっ!」
思わず驚きの声が飛び出してしまう。
「あらら。真文さん、じゃないですか……お早いですね」
欠伸を噛みながら現れた仁科が目を丸くした。彼は手に持っていた眼鏡を鼻に掛けると、繕うように微笑んだ。頬の腫れは引いている。真文は安堵と元の気まずさが混ざり合い、顔を俯けた。
「ええと……何か、御用でも? 今日は祭りの準備で来られなかったんじゃ?」
仁科が怪訝そうに訊く。
「あ、いえ、その……あのぅ……」
いつもとは違い、彼の柔らかそうな髪の毛は寝癖がついている。それをちらりと見やるも、真文は開かれた店の奥へ目を向けた。
「あぁ、
あっさり言うものだから、真文はきょとんと彼を見返した。
鳴海がいない。
それは、つまり……
「ま、まさか、お一人で出かけられたのですか?」
妙な胸騒ぎの正体はこれだったか。真文は目を泳がせた。
「そんな……だって、鳴海さんは、お一人だと危ないって」
「そうですよ」
割り込む仁科の声には、情が一つも見当たらない。真文は口をつぐみ、息を飲んだ。
「あの狐のところだけなら、村の中だけならまだしも、何がいるか分からない所をうろつくのは……不可能でしょうね」
――だったら、どうして、
「だったら、どうして、とでも言いたいんでしょう。何故、あいつを助けないのかと咎めるんでしょう」
硝子体の奥にある憂いげな瞳は、どんよりと色が濁っていた。
言葉が出てこなくなる。声を掠め取られてしまった。彼の冷たさに当てられて動けない。嫌な空気がじっとりとまとわりついてくる。息が詰まる。真文はその場に凍りついたように立ち尽くしていた。
一方、仁科は目を伏せる。はぁ、と深く息を吐いた。
「……真文さん」
「は、はい……っ」
和らぐ仁科の声とは対称に、真文は緊張気味に返す。
彼は戸口をきちんと開けると、店の中へ促した。
「茶でも、どうですか」
いつもの笑み。繕いの顔には、一切の感情を浮かべない。彼の顔はまるで能面だ。真文はぶるりと肩を震わせた。
「どうかしましたか?」
「あ……いえ……」
舌に溜まった唾を飲み込んで、真文は店の中へ足を踏み入れた。
***
「――こうして、二人きりで話すのは、久しぶりですね」
真文は姿勢よく彼と向き合い、湯呑を両手で握り締めた。対し、仁科はだらしなく猫背のまま湯呑を手のひらで揉む。
「えぇと……何からどう話せば良いやら……長くなりそうで困りますね」
「こちらからお聞きする方がよろしいですか?」
つい、口を挟んだ。すると、彼はにっこりと笑みを浮かべる。
「あぁ、その方がいい。真文さん、お願いします」
柔らかに促すも、そこには何か投げやりな様子が窺えた。真文は咳払いし、喉を整える。
「以前、先生が仰っていたお話の、続きをお聞かせ願えますか?」
「以前……あぁ、山へ行った時の……続き、でしたかね。確か、キリが悪いところでやめてしまったような」
一通りの確認をする仁科は眉をひそめて湯呑を覗いた。口が重たい。しかし、それを急いて促すことはせず、ただじっと黙って待つ。
「えぇ、そうでした。私は、鳴海の家で雇われた、
「先生は、その、鳴海さんの家で揉め事を起こした、と
やんわりと話を運んでみる。すると、仁科は「あぁ」と声を漏らし、後頭部を掻いた。
ここまでつっかえるほど話しにくい内容なのだろうか。それにしても調子が悪そうだ。
「そう。鳴海の家は、確か、江戸の時代から続く大きな農家だそうです。土地を沢山持っているんでしょうかね。その辺りは詳しくないのですが、ともかく大きな家でした。そのせいなのか、どうなのか、まぁ農家ですからね、古い伝承や迷信を重んじる、そんな家でしたよ」
一口、薄い茶を
「あいつは体が弱かった。それは妖のせいだからと彼の両親は私を引き取った……えぇ、この時の私は妖を視ることが可能だった。なんでも出来ました。払うことも消すことも、触れずとも物を動かす、なんてことも出来たんです。でも……それは、唐突に失われました」
真文は湯呑を握る手を一層強くさせた。思わず肩に力が入ってしまう。
夏の暮れに、あの碁石が言っていたことを思い出す。
――あやつは、少し前に我らを視ることがなくなった。
あれだけでも想像には難くない。仁科が妖を視ないということは薄々と気づいていた。
それに、鳴海も言っていた。仁科には視る力がなくなったのだと。代わりに自分が視るようになったと。
固唾を飲み、真文は仁科を真っ直ぐに見つめた。
「失われた……と言うよりも、奪われてしまったとでも言えば良いのでしょうか。私はそれなりに力が強かった。過信していた。己の力に頼りきりだった。それが、全ていっぺんに、消えてしまった」
「何が起きたのですか」
唇はもう正常ではなかった。
「
悔いが見えた。声の端々に熱がこもっている。それが伝播し、喉の奥へと流れ込み、真文までもが苦しくなってくる。
「そこからは早かった。鳴海は、妖を引きつけてしまうから、視てしまうとなれば家にいることすら許されない。奥方はとくに厳しい人で、あぁ、私も何度か手酷く喰らいましたがね……とまぁ、そんな様子で。そんなわけで二人揃って追い出されたんですよ」
もう一口、茶を啜る。その隙に真文は息を吐き出した。いつの間にか呼吸を止めていた。
親が子を追い出すというその真実は分かった。しかし腑に落ちない。いや、理屈は分かるのだ。己の環境と照らし合わせれば確かに違うもので同情なんて簡単に出来やしない。「分かる」だなんて軽薄な言葉を吐くことも。
だが、心は納得していない。
「――真文さん、怒っていますか?」
問われて、どきりと胸が鳴る。に言葉が出ず、真文は湯呑の茶を口に含んだ。なんの風味もない。
どう答えれば良いのだろう。怒る行為自体がおこがましく思える。そもそも怒っているのかすら怪しい。いや、全身に熱がこもっている辺り、もしかすると――
「……怒っている、のでしょうか。私には難しく、これをどう言葉にすれば良いのか、分かりません……でも、先生にそう見えてしまったのなら、私は怒っているのでしょうね」
一言ずつ確かめるように言う。すると、仁科は苦笑を漏らした。
「真文さんらしいですね。でも、私も同じなのです……あぁ、でも私情の恨みが一つ二つあるもので、違うものでしょうね」
口調は穏やかであるが、厳しく言い放つ仁科である。その口から飛び出した野蛮な響きに、真文は身構えた。
「恨み……ですか」
「はい。私はあの家で、立場がなかったものですから」
そう言いながら、彼は左手に巻いていた包帯を右の指でいじる。それが目に入った真文は、ごくりと息を飲んだ。目を泳がせるも、何故か視線がそちらへ傾いてしまう。
「鳴海の兄がいたでしょう? あの人はお偉い将校様なんですけれどね、それ以前に気性が荒いのです。たまに帰省しては、憂さ晴らしを……」
包帯が解かれる。しかし、その奥にあるものを見る勇気はなかった。真文は飛びつくように、仁科の左手にしがみついた。
「もう、もう、十分です。先生、申し訳ありません……やはり聞くべきではなかったと、踏み込むべきでは……勝手なことを言うべきではありませんでした……私は……あの……」
悪い胸騒ぎがした。見てはいけないものを見てしまいそうで、その恐怖が全身に回っていた。喉がカラカラに渇いてしまっている。目を
はだけてしまった包帯の下が僅かに見え、腹の底がヒヤリと冷える。包帯の下にあるはずの張りのある皮が――ない。
ゆっくり離すと、真文はもう彼の顔を見ることは出来なかった。
「……いえ。話をしようと言いだしたのは私ですから。こちらこそ、申し訳ありません」
さらりと耳の上を滑る仁科の声。そこには落胆が滲んでいるように思えた。
それから彼は手早く左腕を隠して嘆息しながら続ける。
「どうも悪い気持ちのままではいけませんね……でも、あと少しだけ聞いてもらえますか」
***
少し、長居しすぎてしまったようだ。日は遥か高いところにある。少し雲が多い。まるで己の心模様をあらわすかのようだ。真文は溜息を吐き出した。
雑木林をゆっくりと抜ける。枯葉が土にろうとしていく様を目に映しながらも、想いは遠く
仁科が鳴海を助けない理由――それは、帰れないからだ。
「もしも鳴海がここへ戻らなかったら……いえ、まず戻ってくることよりも、あの家に辿りつくかも怪しい。無事でいられる保証はないです」
憂いを帯びた笑みで、彼はそう静かに言った。
――そんなこと、あってはならない。
だが、仁科が本気でああ言ったわけではないのだと、いくら鈍感な真文でも気づく。仁科が見殺しにするはずがない。
何故なら……彼の妖を視る力を鳴海が預かっているから。この事実を引き合いにしてしまう自分が愚かしく思えたが、それでもこの事実にすがって鳴海の無事を祈るしかない。
探しに行こうか、と村の麓へ目を留める。ふらりと足が傾く。
まだ、今なら間に合うだろうか。
浅はかに発した己の無責任で、鳴海を焚きつけたことに仁科が怒っていた。今なら分かる。十分に分かる。だから、彼の心の動きが酷く荒かったのだと分かる。あの腕に隠されたものを思い返すだけで、よく分かる。
愚か者はどっちだ。
二人の間を裂いたのは、間違いなく自分だ。その責務は果たさなければならない。
足が前へ進んでいく。一歩一歩、踏みしめるように。鼓動が高鳴れば、駆け出すことも容易い。
その時、背後から低い音がした。
「――そこの」
獣かと思ったが違う。真文は足を止め、すぐさま振り返った。
「そこの、お嬢さん……一体、どこへ、向かう」
白い布を頭からすっぽりと被さった出で立ちの人物を捉える。高下駄を履いており、まるで修験者のよう。異様さに思わず目を瞠った。
その者は手に握っていたのような長い棒をとん、と地面に突き立て、窺えぬ顔で睨んでいた。その視線に圧を感じてしまう。
「そっちは、ちいとばかり、足場が悪い。そのような靴とやらでは行けまいて」
「はぁ……どうして、そんな」
「ふむ。何故と問うか、お嬢さん。主がよく分かっておる
「あぁ、いえ。そうではなく……」
なんだろう。
腹の底が冷え冷えとしていく。肌がつような。不快が回る。
瞬間、空っ風が髪をさらい、真文は思わず顔を俯けた。
地面の土埃が舞い上がる。袖で顔を覆い、突風が止むのを待つ。
「……え?」
次に目を開けた時、あの奇妙な男の姿はなかった。
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