参・喉元過ぎれば熱さを忘れる

 その男は悠然とこちらを振り返った。堂々とした佇まいは、真文の目から見ても鳴海と似ていると思えただろう。しかし、その表面を見てしまえばまったくの贋作であることが悟れた。

「久しぶりに会ったというのに、その態度、か」

 冷然な微笑、鋭い眼光、穏やかながら威圧が含まれる声。彼は鳴海の実兄、権堂ごんどうはじめである。

「同じ血が流れていること嘆かわしく思うぞ、愚弟」

 掴みかかる勢いだったものの彼の眼光に嵌った途端、鳴海は足を止めた。冷たさに足元がすくわれそう。

「……何しに来たっていてんだよ」

「無論、貴様には関わりのないことだろうが、兄としての細やかな優しさを恵んでやろうと思ったのさ。まさか、こんなボロに住んでいたとは思わず……も相変わらずだったなぁ」

「用がないなら帰れよ」

 その情けない威嚇を見透かすように、肇は狡猾こうかつに笑った。顔立ちは鳴海そっくりであるのに、性の悪さが表情にありありと滲み出ている。

「まぁ待て。そう怒るな。ただの戯れだ。喧嘩しに来たわけじゃあない。最も、とは話にならんのだが……まぁ、いいさ。お前に一つ、しらせを持ってきた」

 そして、肇は鳴海を真っ直ぐに見据えて淡々と告げた。

「母が危篤きとくだ」

 あまりにも短くあっさりとしたその報せは、いわく、兄の細やかな優しさというものらしい。しかし、言葉には胸を穿うがつほどの衝撃と重さがあった。

 唐突な報せに鳴海は思うように声が出ない。そんな弟を見やる兄は、悠然と様子を眺めている。

「へぇ……」

 ようやっと言葉が形作られてそれが声になるも、出てきたのは狼狽ろうばいめいた不甲斐ないもの。

「へぇぇ。そうかい。そりゃあ、また……」

 肇は目を細めて、鳴海を一瞥いちべつした。

「フン。貴様はどこまでも恩知らずの恥知らずだな。相変わらずで何よりだ。では、確かに伝えた。後で煩く言うなよ」

「誰が……むしろ、清々せいせいする……」

 しかし、その言葉は形にはならず、空気に消え入った。拳を固く握るも、感情の乱れのせいで上手く力が入らない。立っているのもやっとで、それでも虚勢を張らなければこの兄に勝てないのだと本能で悟っていた。肇もそれを判っている。唇の端をつり上げて愉快そうに、こちらとしては至極不愉快な嘲笑を向けた。

「見ない間に随分と偉くなったな。半端者のくせに」

「お前……それを言いにわざわざここまで来たってのかよ。将校ってのは案外ヒマなんだな」

「フン。帰省のついでに寄り道をしただけだ」

 挑発には乗らないらしい。肇は襯衣シャツの襟元を正すと、姿勢良く踵を返した。少し離れた場所で様子を窺っていた真文を一瞥し、再び鳴海へ言葉を投げる。

「勘当された身だからどうすることも出来んだろうがな。しかし、道を決めることくらいは出来る。後は貴様が決めろ」

 外套がいとうを翻し、彼はそのまま林の方へと足早に向かった。鳴海はその後ろ姿を睨むだけ。

 ようやく姿が林の中へと消えると、真文がそろりとこちらへ駆け寄って来た。あまり機嫌の悪い顔を彼女には見せたくない。鳴海は顔を覗き込もうとする真文から目を逸らした。

「あーもう、まったく、嫌になっちまうよ。気分が悪りぃ。塩まいとこう、塩」

 そう無理矢理に声を上げるも、頰を滴る冷や汗のせいで思わず震える。そのただならぬ様子を、真文が気にしないわけがなかった。

「あの、鳴海さん……」

「心配は無用だよ。何かされたわけでなし、ただ嫌味を言われただけで」

「しかし、酷い言い方でした。あの方は、一体……」

 だが、そこから先は続かなかった。口を閉じ、躊躇うように鳴海の青白い顔を見やっている。彼女なりの気遣いか。深入りしようとしない控えめさに、鳴海は苦笑を見せた。

「あれは、あたしの兄貴さ。ただの嫌な野郎だけれども」

「はぁ……お兄様でしたか」

 二人は店の中へと入った。

 店の棚はとくに荒れた様子はないのだが、座敷には無数の紙が散らばっていた。鳴海はいぶかりながら奥へと行く。

 一方で、真文は上がりかまちに腰を掛ける。帰る機会を逃してしまったのもあるが、不安げな顔色は未だ拭えていないらしい。

 鳴海は奥の土間へ足を踏み鳴らしながら向かった。本当に塩を撒いておかないと気が済まない。それに、店の中にいるはずの仁科がいないことも奇妙だ。

 そう考えていると、両眼に仁科の姿が飛び込んできた。彼は土間の奥にある水瓶の前に座り込んでいた。すぐさま顔を背けられたが、その赤く腫れた頰を見逃さずにはいられない。

「仁! お前、それ……どうした……」

「いや、なんでもない」

「馬鹿言え。あいつだろう? あの野郎……やけに機嫌が良いと思ったら、どうりでお前を殴って憂さ晴らししたってとこだね」

 鳴海は肇の顔を思い起こし顔をゆがめた。そんな鳴海から逃げるように、仁科は立ち上がる。

「いつものことです。あの人は前からああだから……しかし、突然やって来るなんて妙ですね」

 仁科には知らされていないのだろう。鳴海は肇の用事を口にすることを躊躇った。

「ふむ……権堂の家で何かがあったと見える。しかし、私にもお前にも関わりのないことでしょう? 縁は切ったはずですからね」

「え……あぁ、まぁ……そうなんだが」

 仁科の口調は冷めていた。その無感情さに鳴海はどこか喪失感を抱いてしまう。胸の奥底がざわついて、こそばゆい。鬱陶しくそれはつきまとってくる。無理矢理に追い払おうと、鳴海は無駄に声を上げた。

「あぁ! そうだった、そうだった。塩をまかないと。あいつがここに入ったってだけで虫唾が走る」

「まったく同感です」

 塩のつぼを掴む仁科は、先ほどとは打って変わって穏やかさを湛えていた。むしろ、その様子が怖いのだが、こちらの空元気カラげんきを悟られていないだけ幾らか救いはあった。

 表へ出ると、真文が顔を覗かせていた。その浮かない顔色が仁科を捉えるなり蒼白になる。

「先生! どうされたのですか。そのお顔、怪我をしているわ。お、お薬を……」

「あぁ、真文さん。心配は無用です。少し、口の中を切っただけで」

 その返しはかえって心配を増長させると思ったが、鳴海は壺の塩を辺りにまく作業に徹していた。

「あぁ、そうそう」

 仁科は笑顔を絶やすことなく、座敷に散らかした紙を拾い集め始めた。そして、その中にあった折り鶴を真文にころんと手渡す。

「よく出来たものなんですよ。今までとは格が違う」

「はぁ……確かに、綺麗に出来ていますね……うーん」

 強引な逸らし方に、真文はしどろもどろ。見兼ねた鳴海は溜息を吐いた。

「真文、家まで送ろう。そういう約束だったから……仁、後は頼んだよ」

 鳴海は三和土たたきへ降りると、真文を手招きした。慌てて折り鶴を仁科に返す真文。

 それを、仁科は笑顔で見送っていた。


 ***


「あの、鳴海さん」

「……なんだい」

 外へ出るなり、真文は堪らず訊いた。仁科にもらった折り鶴を弄びながら。

「お母様のこと、本当によろしいんですか?」

「おや、聴こえてたのかい……まぁ、あたしには関わりのないことさね」

 鳴海は引きつった笑みを見せてきた。その口調には、やはり諦めが含まれている。

 一体、鳴海に何があったのか。想像も出来ないが、危篤の母に顔を見せようと思い立たないということは異様である。

 子が親に会わない理由とはよほどのことであろうが、そこまでを問いただす勇気がない。真文は胸に拳を押し当てて、不安を抑えようと努めた。

「そんな顔をしないでおくれよ。あたしのことだ。何も、あんたが思い詰めることないだろうに」

 鳴海は苦笑を浮かべ、「お人好しだねぇ」と楽観的に言った。それでも、この胸騒ぎを拭える力はない。知りたくもあれど、それを知ってしまえば彼らの側にいることが苦しくなってきそうで怖い。

 しばらく、草履ぞうり長靴ブーツが砂利を踏む音だけになった。風の音の方が煩い。陽はもう幾分遠くへと落ちていき、天は一番星が瞬き始めている。茜が薄紫に飲み込まれそうだ。

「――あたしは、妖が視えるようになったから、家を出されたんだよ」

 林を抜け、川が見えた辺りで鳴海が唐突に口を開いた。

 その出だしは限りなく重いもので、背負うには幅が足りない。華奢きゃしゃな肩にのし掛かった言葉を、真文は息を殺しながらゆっくりとその身に含んだ。

「まぁ、元々あたしの実家は妖に好かれるもので、とくに祖父じいさんがそうで。母はそれが嫌だったんだろう。あたしから妖を遠ざけるために仁科が雇われたのさ。でも、あいつの視る目が、あたしにそれが移されて、それで二人揃って追い出されちまったってわけ……あぁ、やっぱりどうでもいい昔話だね」

 真文は、何時いつだったか仁科が話していた言葉を思い出した。

 昔、揉め事を起こしたせいで家を出された、という。あれはそういうことだったのか、と今になって納得するものの、喉の奥を何かが引っ掻くようなもどかしさを覚えた。

「だから、あたしに親はいない。いないってことにしておかないと駄目なんだ。なのに、あの野郎が余計なことをしやがるから……悪かったよ、真文」

「そんなこと……!」

 何故、鳴海が謝るのだ。何故、笑っていられるのだ。時のせいなのか。目まぐるしく巡る時間ときのせいで、感情も鈍くなるのだろうか。しかし、隠しておかないといけない感情なんかないのだと、そう教えてくれたのは仁科と鳴海ではなかったか。

 真文は握っていたこぶしを開き、掴むように鳴海の手を取った。

「は? えぇ? 真文?」

 前を歩く鳴海は驚きの声を上げ、足を止める。

 真文は眉を釣り上げると、両のまぶたに力を込めた。右の神経はまったくの役立たずだったが、それでもこの気持ちを止めることは出来ない。強く瞼を上げて友の顔を見つめた。

「鳴海さん、会いに行くべきです。行ってきてください」

「え……」

「先が分かっているのに、自ら悔いを選ぶなんておろかです。それを教えてくれたのは、先生と鳴海さんです。だから……っ」

 言葉が詰まる。熱い感情が込み上げ胸を焼くよう。その痛みで涙が目尻に溜まっていく。包帯の下の右目でさえ熱さを感じた。

「だからっ! 私の手本になってくれないと! 指し示してくれるはずのお二人が、そんなことでは……私は誰を信じれば良いのですか」

 限界だった。それは瞼から勝手に零れ落ちていく。頬を滑っていく。

 途端、鳴海が慌てふためいた。

「おいおい、ちょ、待て。待て! 泣くな、真文! 頼むから泣くなっ」

「だって、鳴海さんが……そんなこと、言って、笑うから……」

 狼狽える鳴海に構うことなく真文の瞼は決壊した。涙が溢れ、どうにもならない。震える手で鳴海の角ばった指を握り顔を俯けた。

「うぅん……まぁ、考えておくよ」

 頭上に、引きつった声が降ってきた。迷いがあるようで、弱々しくもある。

 顔を上げると、そこには自分ではなく遠く何処かを見つめる鳴海の瞳があった。優しげなのに、光のない冷たい硝子玉のようにも思える。

 だが、その言葉を今は信じておきたい。真文は鼻をすすりながら涙を拭った。

「あ……でも、祭りに行くって約束、果たせないじゃないか。それでもいいのかい?」

 おどけたように言う鳴海。途端に真文は頰を膨らませる。

「いいに決まってるじゃないですか! お祭りよりも大事です!」

「あ……あぁ、すまない」

 彼女の勢いに、鳴海は珍しく気圧けおされているようだった。


 ***


 淡い紫が広がる。浮かぶ雲の濃淡が秋の空気に触れて、朝焼けが澄んで見えた。

 店の戸をそっと閉じるも、奥から物音がしたのでどきりと胸が鳴る。

「……やはり、行きますか」

 戸越しにくぐもった声が聴こえた。障子に仁科の背が見える。鳴海は顔をしかめて舌打ちした。

「お前、起きてやがったのか」

「あの人が来てから、何かあると思っていたんですよ。それに、真文さんがああやって言うものだから、まぁ……」

「盗み聞きかい? ったく、本当にロクでなしだよ、お前は」

「黙って出ていこうとするお前に言われたくありません」

 鳴海は障子を睨んだ。しかし、返す言葉が見つからない。

 あれから黙っていたのは、無論、仕方がないことだ。こちらの勝手な都合なのだから。それに、彼が絶対にこちらの意を汲むことはないということも分かっている。

「縁ってのは切ったつもりでも、何か見落としちまったようにしぶとく繋いであるものさ。だから、仕方ないよ」

「子を捨てた人にわざわざ会いに行く、なんて。私にはとても理解出来ませんね」

 幾分、怒っているかのように思えた。珍しく、いや昔のように苛々と周囲を威嚇していた頃に戻ったかのよう。そんな少年時代を思い返すと、何故か無性に笑いたくなってしまう。

「無理に付いて来いとは言わないだけ、マシだと思えよ。お前にとってはとくにあの家は嫌なところなんだし」

「えぇ、私は絶対にあの家には行きません。二度と顔を見せるつもりもない。だから、お前を助けることは絶対にしない」

「あぁ、そうだろうよ」

 仁科の冷たい声に、鳴海は苦々しく答えた。言われなくとも分かっている。

 笠の紐を再度、結び直して鳴海は戸から背を向ける。

「お前の手なんか借りない。よほどのことがない限り、猫の手なんか借りるもんじゃないからね」

 それだけ言い捨てると、振り返ることなく朝焼けの中へと足を踏み入れた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る