参・色は思案の外

 雲の流れが早まってきた頃。

 ただただ妖の通る時を縁側に座って待つだけの間、仁科がぽつりと話した。

「やはり、どうにも分かりませんね……」

「何が」

「……いや、まぁ、こういう仕事ですから、男女の色恋には何やら深い根元みたいなものがあるなぁと、しみじみ」

 ぼんやりと雲を目で追いながら仁科が言うので、鳴海も同じように空を見上げた。

 脳内に蘇るのは、凡そ五年以上は前だったか。男女のもつれた色恋に巻き込まれたことがある。

「そう言えば前にもあったねぇ」

「でも、あの頃とまるで変わっていないことも」

「ふうん?」

「……知識は増えましたし、特に女の人を相手にすることもあるし、何より遊ぶには丁度いい」

 へらりと笑う仁科に、鳴海は軽蔑の目を向けた。

「嫌らしい奴め……それにお前、人の金で遊ぶのもいい加減にしときなよ。本当、いつか痛い目に遭うぞ」

 その説教には、聞く耳を持たぬ仁科である。彼は足の裏を掻きながら言った。

「しかし、それ以上に踏み込むのは……どうにも分からないんですよね」

「それ以上?」

「えぇ。例えば、一生を添い遂げようとそのひとに恋慕する……利治さんみたいな生き方が、どうにも私には分からない。まぁ、あまり人に思い入れがないからなのでしょうが」

 仁科の声は皮肉じみていたが、その中には後を引く重さと寂しさがある。

 だが、鳴海もこれまでに考えたことがなかったので、珍しく同調してしまう。

「ふうん……まぁ、他人の惚れた腫れたなんてのにはあたしも興味はないね。くだらない」

「多少は興味があってもいいでしょうよ。人の世が在る限り、断ち切れないものですよ」

 手の平を返すような呆れた声に、鳴海は鼻を鳴らした。

 だが、確かにその通りなのだ。頭では分かっていても、これと言って現実味がなく想像が及ばない。

「――お前は、何時までそうしておくのですか」

「は?」

 唐突の問いに、眉を顰めて仁科を見やる。彼はこちらを見ずにただ、左腕の包帯を弄んでいた。緩んだそれをきちんと巻き直すように。

「そうしておくって、何だよ」

「いや、別に。ただ……」

 仁科はしばらく言い淀む。こちらを見ようとは決してしない。

「なんだよ、はっきりしなよ」

「いや……ただ、毎度毎度、そうやって化粧して面倒じゃないかと」

 真面目くさった言い方がわざとらしい。

 鳴海は顔を顰めたまま、仁科の耳を引っ張った。とにかく何かしら、危害を加えないと気が済まない。

「痛い……ちょっと、本当に痛い……」

「煩い」

 仁科は鳴海の手を払い除けた。余程痛かったのか、耳を指で擦っている。それを半眼でじっとりと睨んでおいた。

「まったく、こっちは不便だろうと気を遣っているというのに……」

「よくもまぁ、そんなこと言えたもんだね。それに生憎と、不便は生まれた時から慣れっこなんだ。今更、どうってことはない」

 縁側に正座しているのももう疲れがきている。鳴海は投げ出すように足を外へと向けて座り直した。

 ちらと横を見やると、仁科は不機嫌露わに口の端を下げている。

 その顔を見るのはとうの昔に見たきりで、随分と久しぶりに思えた。

「手前がくたばるまで、このまんまでいいよ。急に便利が良くなってしまうと……ほら」

 言葉を切る。口がぴったりと塞がってしまい、後を続けるのを躊躇っている。

 ――怖い。

 と、その短い言葉を吐き出すことが、どうにも重苦しかった。

 そんな鳴海の思考を読んだのか、仁科は溜息で返してくる。

「……それはまぁ、解せるところではありますね」

 哀を交えたその声に、何も返すことが出来なかった。

 一度、会話が途切れてしまえば仁科はしばらく黙り込んでいた。時折、溜息を吐いているだけ。

 夕方の雨足はとっくに気配が失せており、じわりと蒸すような暑さが鬱陶しい。

 待てども月が高くなるだけで、妖の気配もない。眠気が襲うか、と思いきや何故だか冴えており、退屈さは感極まる。

 因みに、仁科も同様で、彼は袖に忍ばせていた半紙を指先で丁寧に折っていた。彼の趣味の一つである折り紙だろうが、鶴や奴を作っては放ったらかしにしているので、鳴海にとってはいいものではなかった。

 これがいつか役に立つのなら良いのだが……

 風が頬を凪いだ。

 その時、ひょろりと透き通った細長い煙のようなものが目の端を横切っていく。

「仁!」

 思わず立ち上がり、傍らの仁科を呼ぶ。彼もまた、紙を床にばら撒いたままで素早く立ち上がった。

「何か……いますね?」

「あぁ。今しがた、あたしの横を通ったところさ……ったく、いい度胸してやがる」

 肩に氷を置いたような、ひりひりと冷たさを感じる。ほつれた髪の毛が、こめかみにへばりついてしまうほど、気づかぬうちに冷や汗を流していた。

 嫌な動悸を抑えるべく、鳴海は深く息を吸い込んだ。そして、背後をゆっくりと振り返る。

 目を細めて、暗い視界を探るように宇山の部屋を見渡す。

 静かな寝息を立て始めた彼の傍らに、それはいた。

 ゆうらりと仄かに漂う虚ろな女。死装束に乱れた長い黒髪。血色の悪い顔は、死んだ時のものか。大きく剥いた目で、静かに宇山を見下ろしている。

「――仁。そこにいる……女だ」

 指し示す方向を、仁科はゆっくりと辿った。

 景色に溶け込みそうなほど、透けているその女の亡霊を、彼の目で捉えることは出来ない。鳴海でさえ、目を細めて見なければ分からないのだから。

 そろりそろりと近寄ってみる。宇山は目を瞑ったままで、身じろぎ一つしなかった。それどころか、顔を顰めて全身を硬直させていた。起きているのか眠っているのか、傍目では見分けがつかない。

 鳴海は次に、女を見やった。ただ何をするわけでもなく、じっと立ちすくんでいるように窺える。

 揺らめく体躯から漂う気は冷たく、肌が粟立つほど。この空間が、寒気で張り巡らされていた。

 ぼそぼそ、と。細かな囁きを耳で捉える。もう一歩近寄って見ると、彼女の髪の隙間から青い唇が覗き、震えていた。


 ――……い…………さ……い――


 息を潜めておかないと聴こえない。弱く、脆い声。


 ――…る……な…………い――


 背後の仁科を振り返ると、彼も同じように女をジッと見つめていた。

「……視えるかい」

 口の動きだけで訊けば、彼は首を横に振った。しかし、何か感じ取っているらしく、女から目を離さない。

 そして、ゆっくりと右手を伸ばして鳴海をこちらへと引き寄せた。代わりに、自分は前へと畳を踏みしめる。

「――貴女は、ヒサさん、ですか?」

 言葉を区切る。すると、女はぴたりと囁きを消した。

「ふむ。どうやら当たりでしょうね。急に気の重さが変わった」

 恐らく、女――ヒサの亡霊が口を閉ざしたからだ。彼女の声が消えた瞬間、宇山の顔色も心なしか穏やかさを取り戻しつつある。

 それでもヒサは宇山から目を離すことはない。

「ようやく整ったところで……問いましょう。貴方がたに何があったのか、その解を」

 それから、鳴海と呼ぶと仁科はヒサの動きを伝えるように指示した。彼はというと、まだ動かぬ宇山の周囲に小枝ほどの炭を並べていた。

「こうして、結界を作っておけば、そう易々と手出しはされない。どんなに彼が悪人であろうと、なかろうと、亡者ごときに手を下されてはこちらの立つ瀬がありませんからね……さて」

 布団を囲むように炭を並べ終わると、仁科はヒサのいる傍に座った。

 鳴海の目には、ヒサの哀を浮かべた表情が映し出されている。

 彼女は何をしにここへ来たのか。

 その真意を、知る。

「ヒサさん。貴女はどうして、死んだのでしょう」

 揺らめく女は、かつて慕っていた男を、その間に入る部外の者を枝垂れた髪の隙間から交互に見つめていた。

「貴女は、利治さんではない人の元へ嫁ぐことに、あまり寛容ではなかった」

 ヒサは首をもたげると、こくりと縦に振った。

「肯」

 それだけを背後から鳴海が言う。続けて仁科が問う。

「……利治さんと仲違いしたまま、新しい生活に馴染めなかった」

「肯」

「利治さんから、鬼灯を贈られた」

「……肯」

「貴女は、その鬼灯を食べた」

「肯」

 全ての問いに、ヒサは従順に答えていった。そのどれもが「肯」で、間違いはないようだ。

「貴女は、気を病んで死んだのでしょうか」

 その問にも、彼女は「肯」で応える。鳴海は項垂れた。

 瞬間、気が抜けていくような息の音が、か細く聴こえた。誰が発したものなのか分からない。しかし、その音には消えゆくようにかすかだ。

「それは、利治さんのせいですか」

 宇山に酷い仕打ちを受けたと聞いた。

 彼の起こしたことによって、彼女は病んでしまったのか――しかし、答えは

「否……」

 仁科の細い目が開いていく。こちらの思惑が、外れた。

「……そうですか。では、貴女自身が鬼灯を含み、子をも成せず、死を選んだと言うのですね」

「肯」

 彼女は、仁科から目を逸らし、横たわる宇山に寄り添った。顔を近づけるも、張られた結界の壁にぶつかり、悲しそうに項垂れる。

「仁……」

「大丈夫です。しかし、彼女のことが益々分からなくなりました……一体、何故、ヒサさんは死して尚、現れたのでしょう」

 仁科は眉を顰めて顎を触った。

 宇山を恨んでいないのなら、何故、彼女は彼の枕元に立っているのか。

 その未練が、いまいち掴めない。

 ――未練……

「ヒサさん」

 呼んだのは鳴海だった。

「あんたは、未だ、宇山のことを慕っている。忘れられずにいるんだね」

 その問いを聞いた彼女は立ち上がるように、その身体を揺らめかせた。そして、こちらへと振り向かせる。

 髪の隙間から見える目は落くぼんでおり、酷く顔色が悪い。それをこちらへ近づけてくる。思わず腰を浮かせて後ずさった。

 彼女と目を合わせていると、こちらにまで彼女の感情が流れてくる。

『許して……』

 その声が耳を伝う。震えて、息を押し殺す、その声が。

『ごめんなさい。許して……利治さん。許して……』

「――鳴海、下がっておきなさい」

 仁科の鋭い声と、からりと音を立てる三つの鈴音を聞くまで、鳴海は動くことが出来なかった。

「……いや、待て。仁。この女は、ただ……寂しいだけだ」

 立ち塞がろうとする仁科に、鳴海は静かに言った。彼女の解がようやく分かった。

「寂しいだけ……それで、利治さんを連れて行こうとしたわけですか」

 仁科も顔を顰めたまま、合点がいったように唸る。

「では、その未練を断ち切らねばならない、ということ。その根元は何処に……」

 宇山に目をやれば、ヒサも同様に彼を見た。寝息はないが、目を開けない。

 ヒサがそうしているのか、それとも狸寝入りを決めているのか、夜目ではそのどちらも判断し難い。

 その枕元に、よく熟れた袋実がある。

「あぁ、あれだ」

 仁科が呟く。そして彼は、その鬼灯を手に取ろうと移動した。

 その実をどうするつもりか。

 無へと変えた彼の表情からは何も読み取れない。袋実を包帯の巻いた手のひらに乗せた仁科は、宇山の枕元に立ったままで、静かに口を開いた。

「ヒサさん。この未練を、断ち切っても良いですね?」

 そう訊きながら、彼は鳴海に目を向けた。ヒサに問うているのだと気がつくことに遅れを取ったが、鳴海は彼女へと視線を送った。

 彼女の答えは――

「肯……」

 頬を伝う、銀の筋が目に焼き付いた。その答えに、仁科はまるで嘆くような溜息を漏らした。

 懐から、小刀を取り出す。

 そして、鬼灯の実を手のひらの上で二つに斬った。


 ***


「夢で……ヒサに会いました」

 翌朝。陽が昇ってまもなくのことである。憔悴した宇山が猫乃手を訪れていた。

「僕は、馬鹿です。てっきり恨んでいるのだと思っていたのですが……違いました」

 茶には手をつけず、彼は伏し目がちに辿たどしく続ける。向かいに座る仁科は足を立ててその膝上に肘を置いて頬杖をついている。退屈そうな態度だが、顔つきはどうにも憂い気だ。

「ヒサは『ごめんなさい』と言っていました。ずっと、同じことを繰り返していました。恐らく、最初の頃にも……なのに」

「貴方は聞き間違えたというわけですね。しかし、それほどに彼女を恐れていたわけですから、あながち間違いではないでしょう」

 仁科の声に、宇山が顔を上げる。頬を引きつらせていた。

「現に、貴方はあのひとを恨んでいたのでしょう? 他の男と子を設けるなど以ての外、と。だから……鬼灯を彼女に渡した」

 宇山は言葉を失った。それが全てを物語る。

 彼は彼女への未練を断ち切れずに、屈折した情を持ち合わせていた。

 それが、彼女を引き寄せてしまう結果へと変わった。

 妖と縁を結ぶのは、人が自ら踏み込むのが常である。鳴海は二人の様子をただ黙って見ておくしかできなかった。

「これを、お渡ししましょう」

 沈黙の中に嘆息を落とせば、いとも容易く破られる。

 彼が宇山に差し出したのは、二つに分たれた鬼灯だった。

「私が断ち切ったものです。せめて、持っていて下さい。彼女の為に」

「……はい」

 絞るような声で宇山は承知した。

 思わず鳴海の口から安堵の息が漏れてくる。

「念の為に、宇山さんの家には盛塩を家の四角に置いてあります。それでもし、また何かお困り事があれば遠慮なく猫乃手までご一報ください」

 仁科に代わり、事務的な内容を告げると、宇山はようやく柔らかな表情を見せた。


「あら? お客様……がいらしたのですね」

 宇山と入れ替わりに、涼しげな浴衣に身を包んだ少女が顔を覗かせる。

「おや、真文さん。今日は」

 それまでの憂さが晴れたかのように、仁科の表情が切り替わる。

 鳴海も彼女の登場に、僅かながら気分は晴れた。

「今日は。お忙しいのですね」

「いやいや、そんなことないさ。ちょいと面倒だったけれども」

 手を振って応えると、真文は「はぁ」と釈然としない。

「まぁ、面倒ではありましたね。恋慕の相談など、もう金輪際……」

「あらまぁ、先生までそう仰るだなんて、余程のことだったのですね」

 苦笑する真文に、仁科と鳴海もつられて笑う。

「――確かに、色は思案の外と言いますし。他人が介入したところで上手く解決しないですものね」

 小さく呟く少女の表情は、どこか固く、遠くを眺める節があった。



《幕間・鬼灯、了》


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