秋の章 影狼〜カゲロウ〜
壱・秋晴れの空は色めいて
畦道を歩く者が一人。ふうらりふらりと、鼻の奥で唄を奏でながら歩いてくる。道は枝分かれし、右には大きな町、左には小さな村……はてさて、どちらへ
はた、と目を止めればその分かれ目に道祖神がある。
その
「……だあれ?」
男が持つ大きな番傘を見やり、子は尚も問いかける。
「だあれ?」
「……誰でもないのだ、俺は」
くぐもった声が布から漏れてくる。子供は「ふうん」と聞き流し、またも下を向いた。
「――何を、描いている?」
今度は男が問いかけた。子供は既に目もくれず、「人!」と短く答える。
「人、か……だが、そいつには腕がない。足もない。目も鼻も口も、ない」
人というには部位が足らない。地面に描いていたものは、言われなければ大小気ままな石ころのよう。しかし、子供は「人」だと言い張る。
「ふむ、
男は呆れの息を鼻から吹き出した。
それからも子は黙々と、手足のない
「
一心不乱に描き続ける子供へ言葉を投げる。
「
「ふん? どして?」
興味のなさそうな返しだが、耳には入れていたらしい。
男は短く鼻で笑った。
「……狼を、呼ぶ」
***
残暑も過ぎ去ったが、まだ
「だからさぁ、それをあたしに言っても無駄だと思うのよ」
「そこをなんとか! 頼む! 鳴海、お前が最後の望みなんじゃ」
「やーだよ。
最早、声色も低く、呆れと疲れが垣間見える返し方だった。
普段の鳴海は他人に対しては愛想良く振る舞っている。店の顔と言ってもいいくらい、仕事には積極的だ。だが、それを崩すこともしばしばある。
じっとりとしつこい年寄り相手にはほとほと愛想が尽きていた。と言うのも、村の長老会総出で
しわくちゃの爺婆たちは粘着質な執着がある。彼らとの付き合いもそろそろ十年に差し掛かる鳴海も周知だったのだが、適当にあしらうこともとりわけ容易ではない。
「竹田の爺さんはなんて言ってんのさ。なんで村長が来ないの。頼みってのは長がやるもんじゃないのかい」
「はぁ?」
「………」
爺婆というのは、都合が悪くなれば耳が遠のく。鳴海は肩を落とした。
「だぁかぁらっ! 若い衆を黙らせるなんて無茶言うんじゃないよ! 大体、
「もう言うたんじゃよ。でもな、わしらの話を聞いてくれんのだ」
近くにいた小さな爺が杖を頼りに足を震わせながら言う。
「……それを早くお言いよ」
既に仁科へ話が通っているとは。その事実に、鳴海は気が遠くなった。
さて、この口論の発端である彼らの頼みというのは、来週に行われる豊作祭りで
異世代間のくだらない喧嘩を収めるために駆り出されるという、なんとも呆れた依頼である。当然、仁科も乗り気じゃないのだろう。
「しかし、前にお前さんらで若者を脅かしたことがあったじゃろう」
今度は婆が口を出してきた。すると波紋のように、老人たちは「そうだったそうだった」としきりに頷く。
鳴海はばつの悪い顔で遠くを見た。
「あん時みたいに派手にいっちょやっとくれよ。その辺りの手伝いはなんでもやるからよぅ」
「やつらに一泡吹かせるんじゃ」
――どうでもいいことだけはよく覚えてやがる……。
確かに一度だけ、長老会に頼まれて猫乃手が働いたことがある。
時代の流れに乗り、傍若無人に村の改革を推し進める若者たちに幻術を見せて少し脅かしただけなのだが。しかし、これのせいで猫乃手が老人以外の人間に不信を抱かせたと言っても過言ではない。現に、鳴海は一部では「化物」扱いされている。なんとも解せない。
それに、
「おんなじ手を奴らが二度も大人しく食うとは思えないんだよねぇ……」
思案めいて言うと、爺婆たちは揃ってとぼけた。
「はぁ?」
このやり取りを何度繰り返さなくてはいけないのだろう。
「まぁまぁ、皆さん。鳴海さんも困っているようですから、今日のところはご勘弁いただけませんか」
すると、老人たちの背後から細い男の声が聞こえた。一斉に振り返り、その人物を中心に道が出来上がる。
「なんじゃ、
彩﨑と呼ばれた男は、軽装の甚平姿で立っていた。目尻に小じわがあり、笑うとそれがよく目立つ。そしてその横からひょっこりと顔を出したのは森家の孫娘、
「神主ーどうにかしとくれー、あたしじゃもう手一杯だー」
「そのようで」
彩﨑は苦笑しながら返した。
「あまり猫乃手さんにご迷惑かけちゃいけませんよ」
「それじゃ、なんだ。お前が奴らを収めるとでも言うかい」
「大体、お前は奴らの手先のようなもんじゃろうが。長老会の世話役のくせして」
彩﨑の登場に攻撃の矛先が変わっていく。それをも軽々
「若い子たちも、まぁ無謀に言っていますが何も喧嘩がしたいわけじゃあない。祭りを盛り上げようという彼らなりの知恵なんですから、それを頭ごなしに押さえつけてしまうのは良くない」
だが、老人たちは渋面のまま。そこで、彩﨑は傍らの真文に合図した。
「ええと。皆様、実はもう村長にはお話を通しておりまして、許可を頂きました」
ご覧下さい、と真文は薄い紙を開いて掲げた。そこには達筆な文字が書き連なっており、村長、竹田の署名がある。老人たちは目を丸くし、肩を落とした。
成る程、こちらが一枚上手だったか。鳴海は背後で小さく忍び笑った。
「さぁ、これではもうどうにもできませんね。あれこれ画策していたところ申し訳ありませんが。それでも今年の豊作祭りは例を見ないほどに楽しいものになりますぞ」
この彩﨑の言葉で締めくくられ、一同は半強制的に解散と相成った。
渋々と長老会の面々は帰路についていく。それを見送りながら、鳴海は彩﨑に声をかけた。
「やぁ、神主。まさか本当に、あんたに助けてもらえるなんて。なんだか悪いねぇ」
「ははは。いやしかし、猫乃手でも借りたい時に助けてもらおうと思っていたのですがね、まさかこっちが助けてしまうとは、これもまた奇妙な話ですな」
「確かにそうだ」
鳴海は
「世話かけたね。まさか真文も噛んでるなんて」
「私はただ、彩﨑さんのお手伝いをしただけです。とくにこれと言っては……」
謙遜の姿勢を見せる真文。
その頭を、鳴海は手のひらで掴み、わしゃわしゃ
「んなことないさ。助かったよ、
笑顔を見せると真文は顔を
「あ……それはそうと、僕は鳴海さんに言伝を預かっていたんですよ」
彩﨑が思い出したように言う。鳴海は真文の頭から手を剥がした。
「ほう、なんだろう」
「えぇ。狐の
「あ……」
瞬間、鳴海は青ざめた。と言うのも、狐印の社へ向かおうと店を出た瞬間に長老会から囲まれてしまったのである。足止めを食らって、すっかり時間が経ってしまっている。
「しまった。ちょっくら行ってくるよ」
鳴海はげんなりと片手を上げて二人に言った。その後ろをパタパタと真文もついてくる。
「お供します」
「いや、いいよ。それに、あの狐の連中んとこだよ?」
しかし、彼女は首を横に振り、笑顔を見せる。
「実は気になっていたのです。鳴海さんがいつもどこへ行くのか」
「うーん……見せ物じゃないんだけどねぇ」
それに神主はいいのか、と振り返ると、彼はもう帰路についていたようで姿が見えなくなっていた。
「今日はもう私も手が
真文が言い淀む。しばらく待つと、彼女は自嘲を浮かべて言った。
「祭りの手伝いに出向くと、その、迷惑になってしまうのです」
「え? なんで……」
言いかけるもすぐに口を引き結び、押し黙る。真文は小さく息を吐いた。
「相変わらず、評判は良くないのですよ。この目のせいで」
鳴海はもどかしく舌を打った。
「あんたの居場所はある。だから、そんな顔するんじゃないよ。ただでさえ左側が不細工なんだから右までそんな面してちゃ、いよいよおしまいだ」
「……ふっ」
「おい、そこは笑うとこじゃないだろう」
小さな笑いの漏れを鳴海は聞き逃さなかった。隣で口元を押さえる真文は、それでも肩を震わせて笑っている。
「
「あぁ……そうかい」
照れ隠しにふてぶてしく返したが、鳴海は真文の様子をちらりと見やって口元を緩めた。
真文は強くなった。まだまだ甘い面もあるが、それでも繕いと怯えと意固地で固められた壁が今や薄くなっている。表情も随分と柔らかくなった。時折、仁科に呆れを表したり、怒る素振りも見せてきた。これには、喜ぶべきか否か複雑ではあるが、感情豊かになるのは悪いことではないだろう。そんな安堵を覚え、鳴海の歩調は軽やかになる。
それから二人は祭りの話へと方向を変えた。
どうやら、豊作祭りには
ヨビコ山の
「おーい、狐よー」
呼びかける。すると、木陰からぴょこっと耳を伸ばす毛玉の姿があった。
「悪かったよ。遅くなっちまった」
愛想笑いを貼り付けて狐を待つ。すると、二つの金色の毛並みが揺らめいた。瞬間、二匹が枯葉を転げて、鳴海の目の前で人――十代くらいの少年へ変わった。着物に前掛けという
「おっそいんだよぅ!」
「散々探し回ったじゃないかぁ!」
ずずいと顔を寄せられれば迫力に押し負ける。鳴海は後ずさり、「まぁまぁまぁ」となだめた。しかし、こうして趣いたというのに歓迎が手荒いのはいかがなものか。
「
「そう! 困る! 大いに困る……って、うわぁ!」
「きゃあ!」
散々に文句をぶちまけている二匹が真文の姿を目にした。怯えて飛び退いていく。
「櫻のお化け!」
夏にこの二匹は真文の櫻幹によって手痛い扱いを受けているが……それを覚えていただけまだ低脳ではないらしい。真文はいたたまれない様子で鳴海を見た。
「聞き捨てならんよなぁ、真文。怒っていいよ」
しかし、怒る気はなく悲しんでいるようだった。仕方なく、鳴海が拳を落とす。いたいけな乙女の心を
「いったぁい……」
「痛いぃ……うー……酷いよぉ」
「そらないぜ、姐さん。あんたの一撃は狐にとっちゃ重くって
「敵わんのですぜ」
文句だけは一流だ。
「鳴海さん、私はなんともないので……」
真文が言うが、おいそれと認めるわけにはいかない。駄目なことは駄目だとはっきり白黒つけるのが道理だ。そう言ってやろうと口を開きかけたが、がさがさと草の根をかき分ける音によって遮られることとなる。
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