弐・良薬の矛が哀を産む
「そもそも、妖との縁を結ぶには、人間側に何かしらの
淡々とした声が座敷に渡る。
目の前に座る宇山は、緊張の面持ちで仁科の言葉に耳を傾けていた。
「ですから、真偽を確かめる前に私は幾つか貴方に問います。全て、正直に答えて頂けますか」
ごくり、と彼の喉笛が動くのを見た。
人間には誰しも、心の奥底に秘めた何かを持っている。
それは勿論、仁科にもあれば鳴海にもある。この気弱そうで温厚な青年も例外ではない。
さて。仁科の言う、宇山の隠し事とはなんなのか。それが全て明るみになるのか。それもこれも、彼の問い次第。
宇山は覚悟を決めたのか、神妙に頷いてみせた。仁科が満足気な笑みを返す。
「先ず。私が特に気にかかったのは貴方が聴いた声のこと。『許さない』でしたか……利治さんは、何か誰かしらに恨みを買うようなことをしたんでしょうか」
この問いはまさに的確だった。
聞いていないようでいて、しっかりと聞いている。こういう鼻持ちならないことを簡単にこなしてしまうから、常に感情で動く鳴海は面白くない。
だが、今は冷静に物事を推し量らねば、見えるものも見えなくなってしまう。無粋な茶々は入れずに、事の顛末を見守っておく。
一方で宇山は目を泳がせていた。
嘘がつけないのか。しかし、あまりにも単純すぎやしないか。
隠し事がままならない性分では、損をしやすいのが世の常である。
鳴海の中で、彼の気弱そうという印象に薄幸が新たに付け加えられてしまった。
赤の他人から、勝手な想像を施されているとは露ほども知らぬ宇山は益々、狼狽の色を浮かべている。
「ええと……恨み、を買うこと、ね。それは……ある、と言えばあるのですが」
「それはなんですか」
「いやぁ……それは、その……えー」
いやに勿体ぶる。先を促せども、のらりくらりと躱されそうで我慢ならない。それは仁科も同じだろう。
「正直に答えなければ、ここから先へは進めません。いっそのこと全て吐けば楽になると思うのですがね」
仁科の口調は焦れをおくびにも出さないほど、厳しい響きがある。その一喝に、宇山は観念したのか、頭を垂れて早口に言った。
「あ、あの、僕には馴染みの、所謂、慕う
蓋を開けば、何やら色恋沙汰の惚気話だった。
こういった内容は口に出すのを躊躇うもの。与太郎ならば分からなくもないのだが、宇山はそれとは正反対の男だ。
無理やりにこじ開けてしまったことで、鳴海だけでなく仁科さえも気まずく、二人は同時に咳払いで誤魔化した。
「――成る程。そういうことですか」
宇山は顔を上げることも出来ずに肩に力を入れて恥辱に耐えている。
「それで……馴染みのその
尚も踏み込んで問うのが仁科という男である。ここまで聞いてしまえば後の祭りだ、なんてあっけらかんと言い訳しそうだ。
同様に宇山も吹っ切れた様子で、溜息を吐き出し、その赤らめた顔を上げた。
「はい。名をヒサと言いまして。その、ヒサが……嫁ぎ先の家で先日、死んだとの報せがありました」
「はぁ……」
呆気なく、彼らの恋路は幕を閉じた。だが、このことから結びつくのは容易である。
宇山の枕元に降り立ったのは、そのヒサという女か。
彼とどう喧嘩別れをしてしまったかにもよるが、彼女が恨みを抱えて怨霊と化した可能性がある。
ただ、それを間に挟んでまで主張するに至らず、鳴海は傍らでじっと聞き入ることに専念した。
「彼女から恨みを買っているのだと、そう言いたいのですね」
仁科の問いに宇山が頷く。
「……僕は、怒りに任せて彼女に酷いことを言いました。手も上げました。それを恨んでいるに決まってます。聞いた話では、ヒサは向こうの姑と合わず、病に
悔いの表情を見せる宇山。いや、もしかすると恋い慕う相手が亡霊となって現れたことに対して恐れを抱いているのか。
一向に引かない彼の冷や汗から、そう読み取れてしまう。
しかし、仁科は宇山に無関心だった。
「ふむ……では、あの鬼灯はなんなのでしょう」
枕元に転がる、熟れた赤い袋実を脳裏に思い浮かべる。ヒサが置いていったものなのか。
いや、それより他に気にかかることがぽろりぽろりと湧いて出てくる。
気づいていないのか。それとも、わざとはぐらかしているのか。
「鬼灯、と言えば、子供の時分に羽根つきの玉として使ったものです。もしかして、利治さんとヒサさんもそうして幼少に遊んでいたのでしょうか」
恋い慕うほどの馴染みならば、ありそうな話。
宇山は「えぇ、まぁ……そうだったかな」と照れ隠しにも思える、後頭部を掻きながら答えた。昔の記憶を掘り起こそうとはせず、口をまごつかせて有耶無耶にする。
「ははぁ。では、思い出の代物というわけですか。余程、仲睦まじかったと見える」
仁科は愛想よく笑いを交えた。宇山もつられている。
しかし、この場で、ただ一人傍観を決めている鳴海は、何故だか不穏を胸中に覚えており、渋面のままだった。
彼らの会話には、これといって何ら怪しいものは見当たらない。
だが、鳴海には正体の見えぬ違和に気持ちの悪さを感じる。具体的には説明がつかない、むず痒い、居心地の悪さを。
「分かりました。では、質問を終わりにしましょう。利治さんもそろそろ腹が空いた頃でしょうから、先に帰ってお休みください。また後ほど、お伺いいたします」
そうして仁科は、鳴海の不穏を他所に宇山を追い払わんとばかりに会話の終了を宣言した。
ぼたぼた、と。
茅葺屋根を叩く雨音に、宇山は肩を震わせた。
***
雨はどうやら狐の仕業らしかった。
狐の嫁入りにしては遅い刻だ。
雨足が引いた頃、二人は行灯の薄明かりの中で夕餉を前にしていた。
炊いた白飯と真文から裾分けに貰った梅を置いただけの食事に、やはり仁科は眉を顰めている。先ほど、摘み食いをしていたから、まさか夕餉にまで梅が出てくるとは思わなかったのだろう。
しかし、二人は贅沢を言っていられない状況下にある。その理由の一つは雑貨の売れ行きが芳しくないことだった。
「――黙って食え」
「いや、あの……何も言ってないじゃないですか」
「顔が文句言ってやがるから、こちらにまで届いちまったのさ。飯が食えるだけいいだろう」
「うーん……」
釈然としない素振りで梅を口の中へ放る仁科。
鳴海は早々に白飯を平らげると、一息ついた。
「で、宇山の裏は見えたのかい」
ゆっくりと白飯を貪る仁科に、苛立ちながら鳴海が問うた。箸を咥えたままで仁科が頷く。
「えぇ、まぁ。大方」
随分と素っ気ない。そんなにも、夕餉の献立が気に食わないのか。
では、問いを変えよう。
「なんで、はぐらかした」
「はい?」
意図が分からないのか、それとも分かっていてとぼけているのか。仁科の態度がどうにも癪に障る。鳴海は眉を吊り上げた。
「鬼灯だよ。普通なら、鬼灯と言えば真っ先に浮かぶのが堕胎薬と解熱薬だ。あたしは、あの時からどうにも違和感しかなくてね。今ようやっと気が付いたところだが、お前、別のことを言ったろう」
「あぁ……確か、羽根つきの玉と言いましたか。普通ならば出ない言葉、か。この歳にもなると、余計な知識が増えてしまうものですね」
たまたま、こちらが薬に詳しいとは言え、鬼灯の効能は先人の知恵のようなものではある。勿論、あの宇山だって鬼灯が堕胎に効くことを知っているはずだ。
そう言えば、彼の祖母も薬草なんかに詳しい老人の一人だったような。
「鈍いお前でも、これに気が付くとは。それなら、利治さんも諸々の原因はとっくに思い当っているでしょうね」
そして、仁科は箸を上に突き立てた。
「種明かしをしますと……ヒサさんは利治さんに殺されたも同然です」
その言葉には、こちらの息を止めてしまうほどの重さと衝撃があった。喉を潰されるような感覚がし、こめかみに冷や汗が浮き出る。
声よりも先に、表情が言葉を作った。
――そんなの……
「えぇ。大袈裟に言いましたが、結論はそうでしょう。でなければ、彼女が怨霊に成り果ててまで、彼を恨む理由がない。鬼灯は彼が彼女に何かしら含ませたのです。用法を間違えれば、良薬は毒にもなるんです。ヒサさんは昨年に嫁いだと言っていましたし、もしかすると鬼灯が原因で堕胎も……」
どんな家に嫁ごうとも、子が出来なければその嫁は使い物にならない。
姑と上手くいかないのは、そのせいとも考えられる。
死んだのは病だろうが、それを引き起こしたのは……
あまりの酷な想像に、鳴海は首を横に振って打ち払おうとした。
そうではないことを半ば願いを託すように仁科を見やる。
「……まだ定かじゃないだろう?」
「はい」
箸を飯に刺し、仁科はニヤリと笑った。
「憶測で話をして、彼を怖がらせても、ね。益々口を割らないでしょうから、わざと話を逸らしたのですが……」
そして、残った飯を全て口内へ放り込む。充分に咀嚼し、飲み込むと彼は湯呑の
鳴海は僅かに安堵し、一応の納得をした。
確かに、宇山が恨まれるだけのことをしでかしたことが、例え憶測だろうと現実味を帯びているのは過言ではない。
あの、首周りについた黒い痣も鬼灯も彼を戒めるものか……いや、待て。それでは一つだけ腑に落ちないことがある。
「――なぁ、仁」
茶を堪能している仁科に、鳴海は新たに浮かんだ疑問を口にした。
「ヒサが恨んで、宇山の枕元に立ったのなら、どうして一夜のうちにとどめを刺さなかった?」
何故、彼女は宇山を殺さなかったのか。その問いに仁科は両眼を開かせた。
***
男に裏切られ、殺された女が怨霊となって枕元に現れる。よくある話ではあるし、有名な怪談でも語られている。
だが、これに限っては典型が当てはまらない。
上手く結論が出せないまま、二人は村の東にある宇山家を訪ねた。
夜も更ける頃合いで、家人はとうに床へついたという。ただ、依頼主だけが沈痛な面持ちで仁科と鳴海を迎え入れた。
「とは言え、口寄せが出来ないので、ただひたすらに彼女を待つしかないのですが……いえ、利治さんはお気になさらず、私たちだけで対処はしますよ」
調子のいいことを言うが、仁科に怨霊の姿が視えるのか甚だ疑問である。これは徹夜の仕事になりそうだと鳴海は今宵の休息を諦めた。
宇山家は古いながらも、柱のしっかりとした平屋だ。狭いながらも、庭には畑があり、小ぶりな野菜が静かに熟す時を待ち侘びている。
その中に、鬼灯の実はなかった。
「あの、何か……札とか経を唱えたり……そういったことはしないのでしょうか」
忍び足で宇山の部屋へと向かっている間、吐き出すように彼は訊いた。それを仁科と鳴海は顔を見合わせて苦笑する。
「済みません。生憎と今宵はそれが出来ないので」
声を押し殺して仁科が言った。対し、宇山は顔を引きつらせる。
暗がりで分かりにくいが、彼の顔色はとても悪いのだろう。雨上がりの夜は八月とは言え、ひんやりと涼やかなのだが、彼の頬には薄らと汗が浮き出ている。
縁側から家の裏手へ行けば、宇山の部屋があった。
障子を開け放し、彼だけを部屋に残して二人は縁側に座って待つ。
「こちらのことは気にせず、利治さんはゆっくりとお休みください」
「はぁ……」
仁科の安穏とした声に、宇山は呆気にとられていた。怨霊に憑かれているかもしれないと言うのに、ゆっくり休むことが出来ようか。
彼にとっては、二度目の悪夢が待ち受けているのだ。おちおち眠れやしないだろう。
「時に……今宵は地獄の釜が開く日。鬼灯と言えば提灯を思い浮かべますね」
満月をぼんやりと眺める仁科が、ぽつりと呟いた。
あぁ、そうか、と鳴海もこそりと頷く。
その背後では、宇山がもたもたと就寝の準備をしていた。
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