玖・暮れなずむ夏
障子窓からは依然、熱気が立ち込めている。額から汗が滴る。真文は次の手を頭の中で思い描いたが、明らかに退路は無かった。
黒の相手をすること数時間、いくら白の指示を受けようとも追い詰められていた。
真向かいにいる幼子姿の精霊を見やると、にこりと笑みを返された。余裕
「ま、負けました……」
《うむ》
黒は唇を横へ伸ばして満足げに頷いた。
《お嬢ちゃん、なかなかに面白かった》
《仁科とはまた違う新鮮な対局であった》
いたく気に入ったようで何よりだが、負けたこちらとしては面白くない。
「……仁科先生は、以前より碁を嗜んでらっしゃったのですか?」
よく二人の口から仁科の名が出てくる。訊けば、すぐに黒が頷いた。
《我らを相手に何度かイカサマをしおって、勝率を上げていたな》
《実にあやつらしい》
じっとりと苦々しい口調で言う。それから白が《しかし》と続けた。
《あやつは、少し前に我らを視ることがなくなった》
《視なくなってから、あやつは我らをあの狭苦しい戸棚に閉じ込めたのじゃ》
その声は心に訴える響きがあり、真文は僅かに息苦しさを覚えた。
仁科が妖を視ることが出来ない、というのは知っていたが、以前は彼も視えていたのだと確信する。一体、彼に何があったのか。
真文は着物を握り、緊張顕に口を開いた。
「仁科先生は……いつから視えなくなったのですか」
その問いに二人は首を傾げた。丸い目玉はやはり碁石を思わせ、瞼から落ちてきてしまいそう。
《いつ、だったかの》
《昨日だったか》
《いや、もっと前じゃ》
《五十年? それよりも前?》
定かではないのか、二人は首を左右に傾げるばかり。その仕草が実に鏡合わせのよう。
《我らは人の感覚が分からん》
《昨日のようにも、百年も前のようにも思える》
これにはどう返せば良いか。真文は苦笑を浮かべ、溜息をついた。
額から吹き出す汗を拭う。
ここまで頭を使い、集中したのは実に久しぶりのことである。
「少し、休憩をしましょう。お茶はお好きですか?」
精霊だが、とふと思ったがとりあえず勧めてみる。二人は同時にこくりと頷いた。
「では、少々お待ち下さい。ただ今、準備を……」
襯衣の首周りをパタパタと扇ぎながら立ち上がる。その丁度に、戸を叩く軽い音が耳に届いた。
とん、とん。
「御免くださいまし」
甲高くも、か細い声。戸の奥に人の影がある。
下駄に足を通し、
「猫乃手さまに御用があるのです。開けてくださいまし」
「はいはい、ただ今……」
ガラリと開ければすぐに頭上が陰った。視線を上げて、訪問者を見る。
それは、大きな、大きな目玉が一つだけの顔だった。その下に伸びる首の中央に裂けた口があり、にやにやと笑っていた。ひょろ長い体躯で、真文を見下ろすのはまごう事なきこの世ならざる者。
《御用が、あるのです。店主は、おりますか》
肩が竦み、喉の奥がひゅっと音を立てた。その場に崩れ落ち、一つ目をただただ凝視する。
その瞬間、小袖から鈴がしゃらりと転がり落ちた。鳴らぬと言われていた鈴ががらんごろんと大きな鈍い音を立てる。
しかし、一つ目は鈴音など気にもかけず、裂けた口を開けて嘲笑うと店の中へと足を踏み入れてきた。
《なんだい、いねぇのかい。あの野郎、また逃げやがったね》
幾重にも重なった声を響かせる一つ目は、ぬらりと大きな頭をもたげて真文に詰め寄った。
《しょうのない野郎だ。お嬢さん、ちょいと付いて来な。あんたを食ってあの碌でなしを呼び寄せよう》
逃げる間もなく一つ目が腕を掴む。
振り払おうにも、それは虚しく無駄に終わる。ずるずると引っ張られるが、真文はもう片方の手で戸を掴み、必死に抵抗を試みた。
《まるっと一飲みさ。あっという間だよ。痛くないよ》
腕を鷲掴む力がどんどん強くなっていく。骨が曲がりそうだ。
「は、放してっ!」
その叫びと同時に、別の鋭い悲鳴が上がる。一つ目だった。彼女の腕を離し、その妖は弾かれるように外へと転がっていく。
真文は痛む腕を擦りながら店の外へそっと目を向けた。
一つ目の身体が二つに裂けていくのが見え、すぐさま目を覆ったが、その途端にポンッと軽い破裂音が聴こえてきた。
袖を捲くり、こわごわ見てみると……なんと、金色の毛玉がふっさり二つ。
「狐っ?」
地面に伏せて伸びた狐に、真文は思わず駆け寄った。
「まさか狐さんが化けていたなんて」
狐たちはいずれも意識がない。
一方で、真文は何が狐を襲ったのかとんと見当がつかずに途方に暮れる。しばらく、その場をうろうろ回っていた。
「あぁ、大変……どうしましょう……」
「真文さん!」
遠くから自分を呼ぶ声が届く。その声には覚えがあり、どうにも今は酷く懐かしい。真文はすぐに声の主を探した。
雑木林の向こうから走ってくる二人の姿。それを認め、思わず気が抜けてしまう。
「仁科先生! 鳴海さん!」
ようやく目の前まで来ると、二人は息を切らしつつ真文の様子を調べた。その血相を変えた顔に、真文は更に不安を覚える。
「真文さん、何があったんですか」
「大丈夫かい、怪我は? どこもないだろうね?」
あまりにも二人が慌てているので、こちらにも動揺が伝染ってしまう。両手を振り、そして足元の狐を指した。
「私は平気なのですが……そのぅ……狐さんが」
「はぁ、狐……」
仁科の呆気にとられた声。
「狐だぁ? なんだよ、ったく脅かすんじゃないよ……」
いつもよりも地味な様相の鳴海までも素っ頓狂な声を上げる。そして二人は、傍らでもぞもぞ動き出した狐を見下ろした。
「うぅ……えらい目にあったぁ……」
「あの悪党め……とんでもないもんを店に置くたぁ……くそぅ」
開口一番に出てきたのは恨み節。仁科は片方の狐の首を掴んだ。
「悪党、というのはどこのなんという人でしょうね」
「ややや! 仁科の旦那! お戻りでしたかぁ」
白々しい口ぶりの狐は、丸い毛玉の両手を擦り合わせる。
しかし、仁科の掴む手が幾分強いのか、調子の良い様子はすぐに失せて嗚咽を漏らした。もう一方の狐が悲鳴を上げる。
「旦那! ちょいと待っとくれ! 俺たちゃ、あんたの支払いもんを徴収しにきたんだ。なのに、店番に化物を置くなんてあんまりだ。櫻みたいなのがばばっと……」
だが、狐の口は封じられた。鳴海が狐の耳を引っ張り、睨みつける。
「おいこら、娘相手になんてこと言うんだい。それにもう支払いは済んでるはずだろう。どんだけぼったくれば気が済むのさ、えぇ?」
「姐さん……あや? 今日は化粧臭くねぇな。ただの登志世に戻ったんですかい」
この期に及んで狐は軽口を叩く。すぐさま鳴海の拳が落ちた。
「だぁれが登志世だ! 調子に乗るな!」
「あぁ、もう良いですよ。やめましょう。不毛だ」
仁科が嘆息しながら狐を地面に落とす。鳴海も渋々放してやると、二匹は青ざめて震えていた。
「ともかく、まぁ何事もなかったようですが……真文さん」
狐の言葉に真文は肩を落としていた。そんな彼女に仁科が手を差し伸べる。
「大変な用事を押し付けて申し訳ありませんでした。いや……まぁ、狐が来るというのは予め分かっていて……」
いつもより口調が滑らかでない仁科。どうにも後ろめたそうで、それに気がついた真文は思わず吹き出した。
「そのようですね……驚きはしましたが」
「いや真文、そろそろ怒っていいんだからね」
壺を小脇に抱え、鳴海は疲労感たっぷりに溜息を吐く。
確かに、いいように使われているという事実が浮き彫りになった。それでも真文に怒りが沸かないのは、とにかく仁科の狼狽ぶりが可笑しくて仕方がなかったからだ。
バツの悪そうな顔を見せているだけ、彼にも良心はあるのだろう。
「先生、鳴海さん。おかえりなさい」
笑みを見せると、二人は照れ隠しなのか小さな声で「ただいま」と呟いた。
話したいことが多くある。掃除がきちんと出来たこと、囲碁を楽しんだこと、お昼の握り飯が美味かったこと。
しかし、今は少し休ませた方が良いだろう。
「お茶を淹れますね」
言いかけて店の中へ入ろうと、戸口に立つ。すると、震えて黙っていた狐が仁科の裾を引っ張った。
「ちょいと待ちな、旦那」
「おや、まだいたんですか」
「随分な言い方せんでくださいな。こちとら何も、取立ての用事だけで人里に下りたわけではないんですぜ」
狐たちは細い目をきゅっと釣り上げて、仁科と鳴海を見上げた。
「狐の噂なんですがね。なんでも、間もなく異端者が現れるらしく」
「旦那方にも注意をしておくように、と」
その言葉の意味は分からない。しかし、口を挟むほど野暮ではない。
「ふむ……」
仁科は顎に手を当てて、短く唸った。鳴海を見やると、同じように険しい顔つきだ。
「つい先ほどにも、似たような忠告を受けましたね。成る程」
そうして「
「ご忠告をどうも。では、こちらからも一つ」
彼は狐ではなく、頭上を見上げていた。その目が、何かを捉えようとしている。
「しばらくの間は雀に気をつけてください……それも、特に
「はぁ、雀……」
首を傾げる右吉と左吉。真文も訝るように顔を顰める。
「送り雀は狼を呼ぶ、といいますから、ね」
その声は、あまりにも不穏が漂っており、狐は首を竦めて頷いた。やがて、飛び跳ねるように二匹は帰路へつく。
その後ろ姿を見送っているのか、どうなのか、こちらに背を向けているので表情は分からなかった。
「仁……」
傍らの鳴海が彼を呼ぶ。
すると仁科は、まるで酸っぱいものを口に含んだかのように顔を顰めてみせた。
「少し早いですが、夕餉にしましょうか。どうにも胃が寂しくて仕方ない。良ければ、真文さんもご一緒に」
そう言って彼はさっさと店の中へと入っていく。
「ったく。あいつはもう、本当にしょうがない」
仁科の背に一瞥をくれながら、鳴海が言う。真文も苦笑を浮かべた。
「……夕餉、真文がいいならどうだろう」
「あ、では……ご相伴に預からせて頂きますね」
快く答えると鳴海は微笑みを向けた。手招きされ、真文はその後ろを追うように中へ入る。
ふと、鳥の
それが雀なのかどうなのか、彼女には知る由もない。
《蠱独、了》
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