参・こんこんと溢れる

 それは綺麗な朱で塗られた小さな社だ。いや、小さいと言えども屋根までの高さは大人の男と同じくらいだろう。

 それはヨビコ山の麓にあり、木の葉が多い場所に佇んでいる。

 これが狐の社であるという確信を仁科は持っていた。

 現に、寝込む前の鳴海が「狐」と口にした時から頭の隅には置いていたもので、つい先程に店の隅に紫色の小袋を見つけたのだ。どう見ても狐の印。

 そこから考えられたのは狐と何か揉め事を起こしたのかもしれない、ということ。ただ、鳴海が口もきけない状態なので憶測にすぎない。

 薬を与えても一向に熱が下がらないのだから、鳴海が罹ったのは風邪ではないことだけは確かだ。

「厄介だな……」

 独り言ち、仁科は風荒ぶ野を早足で歩いた。ヨビコ山へは店から行けばすぐにある。

「そう言えば、あの山の一つ目やら大蛇やらを追っ払ったのが半年前……だったか。もういないんだろうと思っていたのに、甘かったな」

 一口に狐と言えど、大なり小なり力はあるのだろう。ただの獣でないのなら。さて、どんなものが飛び出すのやら……

 思案するうちに朱の社まで辿り着いた。鬱蒼と生い茂った草木の間、人が通るような道端にぽつんと建つ。

 仁科は社の中にある石像をじっと睨んだ。確かに、中身は綺麗なもので塵一つない。蝋燭が一本だけ置いてあり、これに火を灯すかどうかしばし考えあぐねる。

 やがて、袖に入れていた鳴海のマッチを取り出すと、素早く擦った。小さく揺らめく火を芯に置いてみる。

 火が灯った社の中は、ほの暗く、石像を照らす。すると、石色の目にぬらりと光りが灯った。同時に、社の背後で揃いの朱く細い鳥居がずらりと立ち並んでいく。

「ははぁ……ここが入り口だな」

 朱い鳥居の奥を覗き、仁科はにやりと口の端を横へと伸ばと、躊躇なく鳥居の中へ足を踏み入れた。

 幾重にも並ぶそれは隙間がごく僅か。歩けば歩くほど、更にもっと奥へと増えていく。終点が見えない。それでも先へと進んだ。道は緩やかな坂となっており、足を踏み出す幅が大きくなる。

 しかし、彼が足を止めたのは、鳥居を二十以上は見送った頃だった。

《おやおや、もう諦めるのかい》

《ここまで来られたのは見事だったんだがなぁ》

《所詮は人だ。脆いものよ》

 どこからともなく忍び聴こえてくる言葉。それらは次第にこんこんと溢れていき、喧しくなる。

 仁科は鼻を鳴らすと、傍らにあった鳥居を思い切り蹴飛ばした。スコン、と木が鳴る音とそれ以外のなき声が響く。

《いってーな! 何しやがる!》

《あっ》

《あぁ》

《あーあ》

 一斉にざわめき立ち、それらは溜息となっていく。話す鳥居たちは即座に笑いを引っ込めた。ごくりと喉を鳴らし、仁科の動向を窺っている。

 それに応えるかのように、仁科は蹴飛ばした鳥居を今度は爪で引っ掻いてみた。

《いやぁっ! ちょ、待って! 痛い痛い痛い!》

「それじゃあ化けの皮を剥がせよ。なんなら剥がしてやってもいいんだが……狐の皮は高く売れると言うし」

 静かに冷たく、その中には狡猾さが含まれており、鳥居たちはじりじりと後ずさった。中には震えているものも。

 脅かすつもりが脅かされるとは思いもよらなかったのだろう。しかし、どの鳥居もそのままでコソコソと潜めきあっている。

 仁科は苛立ち紛れに舌打ちした。

「強情な奴らだ」

 それならば、と今度は袖から小さく細い筒を出す。それを両手ですっと引っ張れば、中から現れたのは鉄色の刃。小さくも鋭いそれを鳥居に突き立てようと構えた。鳥居がびくりと飛び退く。

《なっ! この、この罰当たりが! やめろ!》

 しかし、彼は何も言わない。その静けさが鳥居たちの肝を冷やしたらしく、あちこちで悲鳴や非難が広がった。

《こいつぁ危険だ。おっかねぇ》

《おい、右吉。もうやめにしないか》

《だって、それだと中星様が》

《仲間の大事にはさすがの中星様も哀れんでくださる》

《いいから、皆、一斉に逃げるぞ》

「待て」

 小刀をちらつかせる仁科の言葉に、辺りはすぐさま息を殺す。

「その中星とやらを出せ。いいか、僕は気が短い。さっさとしろよ。特に今日は虫の居所が悪いんだ……何をするか分からない」

 そう言うなり、小刀を道の先へと思い切り飛ばす。

 投げられた刃物に鳥居、ではなく金色の動物たちは皆一目散に慌てふためいた。すぐさま木の葉の中へと隠れていく。

「チッ……逃げやがったか」

 投げた刃物を取りに行こうと、仁科は溜息混じりに木の葉を踏む。

 すると、唐突にぽたりと滴が頭に落ちてきた。見上げれば、枝の隙間は灰色で雲が厚い。瞬く間に冷たい滴が襲い掛かってきた。

《ほほほ……威勢のいい人間じゃのう……》

 程なくして滴は水をひっくり返したような土砂降りへと化す。

 顔面を滴る雨を拭いもせず、仁科は突如聴こえた女の声に耳をそばだてた。

 低くしゃがれた老婆のような声。それは何故か腹の底を震わせ、不快を募らせる。

《気の強い奴は好きじゃ。しかし、わしの従僕を虐めた罪は重い。その報いは受けてもらわねばならんぞ、人間》

 声の主は姿を現さない。

 降りしきる雨の中では視界が狭まる。一面、縦糸のような世界へと様変わりした山道で、仁科は身動きせずに立ち尽くしていた。

 この雨に打たれ続けるのは良くない。良くないことは肌で感じた。腕が粟立っていき、次第に寒気が背中をさわる。

 冬の訪れも近いが、この雨には何かしら妖気が含まれている。不眠の体に堪えるものだ。いや、この力は万全だったとしても迂闊に手を出せるものでは――ない。

《ほう。未だ立っていられるとは、見上げたものじゃ。ただの人ではないのかえ》

 前方からその声は聴こえた。言葉が紡がれれば、それに合わせて目の前の縦糸が割れていく。割れたその奥に、白く美しい羽衣がしゃなりと揺れ動いた。

 仁科は重くなる瞼をこじ開けながら、それを睨む。ようやくお出ましだ。その風貌を両眼に捉える。

 対となった金と銀の眼をランランと光らせ、開いた扇を口元に押し当てる女の姿が現れた。

《ほう、ほう。うぬ、もしやか。特異な魂を持つ者……じゃが、何者であろうとも行いには気をつけよ》

 女は扇を優雅に奮った。

 風に紛れて、あの小刀が勢い良く仁科に向かって飛ぶ。それを間一髪で避けると、思わずよろけた。女が目を細めて愉快そうに笑う。

《言葉にもよくよく気をつけることじゃ。儂は、無礼者は好かん。良いか、人間。高貴なる儂――中星が直々に参ったのじゃ……分からんか。頭が高いと言っておる》

 しゃなりしゃなり、ゆるりと歩み寄り、女は仁科を見下ろした。

 その威圧的な視線を前に、また強力に悪質な、どろりとした邪気が全身を縛り付けるように痺れを伴う。びりびりと肌を破くような痛みだ。伴い、眠気が増していく。がくんと膝をつけば、もう顔を上げることも出来ない。背に刺さる豪雨にも敵わない。

《所詮はやはり人間、か。が偉ぶる様はしょうもなく……見るに耐えん》

 侮蔑が頭に伸し掛かる。それを直に受けた仁科は、薄まっていく空気に耐えながら口を開いた。

「貴女に……」

 喉を引っ掻きたくなるほど、声の通りが悪い。仁科は雨の降りしきる中、切れ切れに言葉を発した。

「言われずとも……分かっている。それは、充分に……でも」

 中星は細い目を大きく開かせた。

《でも? 己の所業が分からん、とでも申すか、人間……あぁ、卑しい生き物よ。先に侮辱したのは汝らであろうに》

「……侮辱、なんて。そんなことは、していない。しません」

 中星は怪訝に眉を顰めた。気味が悪い、とでも言いたげに扇を口元に翳す。

《……しおらしくなりおって。なんじゃ、先までの威勢はどこへいった》

 毒気が失せたのか、中星はゆるゆるとしゃがんだ。《ええい、煩わしい》と辺りに落ちる雨を斬り裂く。

 途端、豪雨はぴたりとその場にとどまった。長く伸びた滴が宙に止まったまま、落ちることもない。静けさに包まれた。

《戦でも起こそうかと、その気がひしひしと伝っていたのじゃが》

「僕は……いえ、私は、貴女に、話を持ちかけに、来たのです」

 恭しい態度。それが中星の気を揺らめかせた。

 彼女は不機嫌顕わに《ふん》と鼻を鳴らす。

 邪気が消えた。それだけで、身動きが封じられていた体は機能する。淀んでいた空気が徐々に緩んでいった。

《……儂とて、聞けるだけの気は持ち併せておる。狐の懐が狭いと吹聴されては御免じゃからのう。して、何用じゃ、話せ》

 仁科は頭を下げたままだった。

 そこにが潜んでいようとは、中星でさえ気づけまい。彼は息を整えると、静かに話した。

「話、といいますのは、つまり、商いのことです」

《商い、じゃと? なんじゃ、汝は商人か》

「店を開いております。雑貨や薬なんかを扱っています……これがまぁ盛況なもので」

《ほう……》

「守りや札、魔除けなんかも取り扱っているんです。しかし、こちらがとんと売れず。大変良い品揃えなのですが……そこに、ひょんなことからこのようなものを見付けまして」

 仁科は言葉を切ると、帯に括り付けていた匂袋を中星に見せた。

「これは、貴女がたが作られたのではありませんか」

 きゅっとつり上がった目がこちらを見つめる模様。それは紛れもない狐印。中星は両の眼でじっと見つめると唸った。

《左様じゃ》

 素っ気なく言う。その答えに仁科は穏やかな笑みを作った。

「そうでしょう。ここまで見事な技術をお持ちでいらっしゃるとは。さぞかし、腕も確かなのでしょうね」

《……何が言いたい》

 未だ疑念が晴れない中星の声だが、彼女の纏う威嚇は跡形もなく空間へと溶けていた。それに気づいたのか、木の葉に隠れていた狐たちが顔を出して様子を窺う。

「端的に申せば、貴女と取引がしたいのです」

《取引?》

「はい。私は貴女がたの腕が欲しい。その代わり、こちらの薬や魔除けなどを対価に捧げる。良き風をもたらすことをお約束いたします」

 そうして仁科は上目遣いに中星を見た。「どうでしょう」と言葉を添えて。

 中星はちらりと視線を這わせた。

《……汝は、あの無礼者を助けたいから、故にそうしておるのかえ》

 口をまごつかせてようやく彼女はそれを見出した。

 仁科の思惑には乗りたくない。しかし、薬や魔除けが高価な代物であることは承知している。それ故に迷う。

 力の強いものを好む欲深な狐であることは、ここまでの経緯で推測できること。これに揺らがないわけがない。

「無礼者……あぁ、うちの鳴海でしょうね。あいつも悪気はないんです。ですが、お気を悪くされたようですので、店主の私から深くお詫び申し上げます」

《わ、儂は、可愛い従僕が泣いて乞うたから、だから……懲らしめようと雨を降らせたのじゃ》

「えぇ。中星様の仰る通り、あいつがしたことは咎められても仕方がないことでしょう」

 何をしたかは知らないが。

 しかし、あっさりと認めてしまえばいい。すると益々、彼女の心はぐらついていく。

 困惑した中星の視線は今や宙を彷徨っていた。

《汝の思いが、儂にはよう分からん。何か、企みがあるのではないかえ。その内を晒すが良い》

「いえいえ、滅相もございません。先程から申しておりますように、取引がしたいだけです。貴女がたの作ったものをこちらで人間に売る、その利益を折半する。足りないと申すのならば、こちらから人を遣わすことも可能です。無論、失礼を承知で申しております――如何ですか、中星様」

 しばしの沈黙。じりじりと過ぎゆく時と同じくして、細い寒風が静止した滴を揺らし流れる。

 仁科はただただ待ち続けた。彼女の答えを。

 やがて、扇から吐息が溢れ出た。

《言に偽りはないのじゃな……てっきり、儂は戦をしに来たのかと思うておったのじゃが……》

 脱力の声に、仁科はクスクスと控えめに笑い声を漏らした。

「戦、など挑む気はございません。ただ、ここのところ寝不足で。ご無礼をお許しください。中星様、仲直りをしましょう」

 目を細めて笑う仁科に、中星は呆れて一瞥した。くるりと踵を返し、羽衣を浮かせる。

《化かすつもりが、してやられたわい。もう良い。その思惑に乗ってやる……して汝よ、名はなんという》

 背を向けた中星から問われる。

 仁科はゆっくりと立ち上がった。その後姿を眼鏡越しに見ながら口の端を横へと伸ばす。

「霊媒堂猫乃手、店主、仁科仁と申します」


 ***


 雨の気配がすっかり失せた夕暮れ時。

 目が覚めれば、息苦しさも熱もすっかり失せていた。布団の中からもぞもぞと這い出すと、鳴海は不審に辺りを見回した。

 そろりと表の座敷まで向かうと、仰向けで寝息を立てる仁科がすぐに見える。

「……おーい、仁?」

 恐る恐る声をかけると、彼は細く目を開いた。

「治ったか」

 ぶっきらぼうな声に疲れが見える。どうにも後ろめたくなり、鳴海は繕った笑みを見せた。

「おかげさまで」

「そいつは何より」

 一体、何をしたのか分からない。急に病が治ったことを問いただそうと口を開くと、先に仁科が言った。

「そうだ。お前、狐の連中に詫びを入れてこい。ついでに向こうで働いてくるんだな」

「えっ」

 本当に何があったのか分からない。だが、仁科はそれきり何も言わず、また目を閉じてしまった。ごろんと背を向けてしまう。

「何がなんだか……」

 しかし、思案しようにも頭が上手く働かない。腹も空いている。

 ともかく、元気になったからには無駄にした三日分はきっちりと働かなくてはならない、と反省をしておいた。


 さて、仁科が成したことやら狐との取引諸々を鳴海が知ったのは、その翌日である。

 悪戯好きの右吉と左吉の口から直に聞いて思わず憤ったのだが、「自業自得!」と笑われてしまえば、返す言葉が見つからなかった。



《夕立、了》

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