弐・狐の嫁入り
「この辺り、かしら。社ってのは……うーん。悪い気配もないようだし、どうなんだろう」
だが、不安もすぐに消え失せた。生い茂る草を片っ端から摘んでいけばキリがなく、どんどん手が伸びていく。
「あら、どんぐり。でも、この辺にどんぐりの木なんてどこにも……」
木の葉に隠れた艶やかな実を摘み上げ、首を傾げる。
すると、背後で何かが蠢く音がした。途端、眼前が暗がり、何者かの影を感じる。
振り返ればすぐ近くに目があった。無数の目を持つ、それこそどんぐりのような図体の何かが、覆いかぶさるようにして、じっとこちらを睨みつけている。
《そいつぁ、俺のもんだ。置いてけぇ》
その百目は低い音を轟かせた。鳴海はアッと、思わず息を飲む。
《ふははは。驚いて声も出ないか。ならば、良し。どうしようかな。喰ってやろうかな……ふひひひ》
百目は手のひらにまで群がる目玉でこちらをじっと舐めるように見つめてきた。嫌らしく、陰湿に笑いながら。
見てくれは確かに不気味を纏う化物、妖の類。
しかし、どこか違和があるのだ。背後にいることすら気がつけない、大妖だろうか。いや、それにしてはなんだか……幼稚だ。
鳴海は止めていた呼吸を戻し、その妖を睨んだ。
「これ、あんたの?」
どんぐりを目の前に翳してやる。
すると、百目は全部の目をぱちくりと瞬かせた。
《あぁ、そうだ。俺のだ》
「じゃあ、返してやるよ」
《えっ》
途端、百目は驚くようにどもった。益々、鳴海の眉間が険しくなる。
――妖、にしては気配が薄すぎる。
妖気が体に見合っていない、というのか。
百目鬼ほどの大妖のくせにニオイも弱ければ、何かが足らない。目玉は確かに百あるのだろうが。数える気は更々無いが。
一方で、百目はしどろもどろに視線を這わせた。勿論、全ての目玉が同じ方向へ動く。
《え、そ、そうかい? なんだ、それなら……》
威厳も威勢もどこへやら。どんぐりに気を取られる妖も、いるにはいるのだろうが……
鳴海は調べるように、百目の背後へと回ってみた。無数の目がこちらを気にするようにちらちらと見ているが、それに構うことはない。
「あんた、本当に大妖かい? それに、百目鬼ってのは女の姿をしていると聞いているんだが……おかしいねぇ。怪しいねぇ。嘘をついているんじゃあないのかい」
どんぐりをちらつかせ、掠め取ろうとする百目の手をすり抜けながら訊いてみる。百目はずんぐりの体から生えたような腕を忙しなく振った。その慌てぶりに、鳴海の悪知恵がぴーんと働く。
「あぁ、やっぱり嘘つきにはあげらんないなぁ……どうしようかなぁ」
百目は《ううう……》と呻いた。そして観念したのか地に伏せて蹲れば、その姿がポコンと音を立てて変わる。
金色の毛玉のような、ふっさりもさもさとした毛並みの小狐が悔しそうに呻き、段々とそれはなき声に変わった。
「うわぁぁぁん! 低俗な人の子のくせにぃぃ! ちっきしょぉぉ!」
なき声はキャンキャンと甲高い。鳴海は咄嗟に耳を塞いだ。それでも指の隙間からなき声は潜り込んでくる。
「おのれぇぇ……この左吉様の、左吉様の化けの皮を剥がすなんてぇ……ぐすんぐすん」
大袈裟に嘆く小狐に、鳴海は罪悪どころか益々調子づいてしまう。
「嘘をつくから悪いのさ。このあたしの目は誤魔化されないよ。しっかし、まぁ、狐の化け術なんて初めて見たわぁ……でも、まぁ、そんなもんだよなぁ」
呆れて吹き出してやれば、小狐、左吉は更に喚いた。よほど悔しかったらしい。地を叩いてジタバタと転がる。
歯ぎしりしながら立ち上がると左吉は、鳴海に向かって吠えた。
「覚えてろぃ! お前に祟りを、祟りを……とてつもなくおっそろしい祟りをもたらしてやるぅ!」
口だけは一端に妖らしいが、小狐から発せられても何の威厳も無ければ、むしろ愛らしささえ覚える。鳴海は楽観に笑っておいた。
「はいはい。祟りでもなんでもどうぞ。まぁ、出来るんならやってみるがいい」
それが益々、左吉の癇に障ったのだろう。なきながら木の葉を踏み散らすと、どんぐりを掠め取って走り去った。
「――ふぅん、成る程ねぇ……ここには狐がいるのか。しかも化け術までやってのけるなんて。これは仁に知らせておかなくちゃな」
村に越してきて早一年。新たな発見に鳴海は満足だった。
小狐の自信を思い切り踏みにじったとは夢にも思わず。
薬草は手に入った。上機嫌の鳴海はもう社までの散策はやめにして帰ろうと、ようやく藪を抜ける。木の葉を軽快に踏み鳴らし、帰路についていた。
ぽつん。
突如、鼻先に何か冷たいものが落ちてくる。
触ると、それは無色の滴だった。上空を見上げてみれば陽は傾きかけているものの、まだ茜空が枝の隙間から窺える。
だが、滴はぽたぽたと勢いを増して木の葉を濡らした。さながら、細長い槍。視界を縦に伸ばしていく。
「うっわ、夕立か。こりゃ酷い……急いで帰ろう……」
言っているうちに、頭や肩へ、更には項を伝って背を流れ落ち、全身が水にまみれる。
尚、雨は降り注ぎ、勢いは止まらない。鳴海は飛沫を飛ばしながら木の葉道を走った。
十一月の雨は冷たい。肌を叩く滴が体温を奪っていく。まるで、吸い取るように。
「……あれ? おかしいな」
寒さに震え、息が上がる。
雨に打たれるだけで、どうして頭がぼうっとするのだろう。足は段々と重くなる。先を急ごうにも、思うように進めない。縦縞の景色がぐにゃりと曲がっていく。
その時、脳裏にあの子狐の声が過ぎった。
――お前に祟りを、祟りを……とてつもなくおっそろしい祟りをもたらしてやるぅ!
「まさか、そんなこと……」
自嘲気味に笑い、ともかく店まで体を引きずった。
***
「おや、雨が降ってきましたね。彩﨑さん、そこにある傘を使えばいいですよ。ほら、これなんか使い勝手も良いですから」
穏やかな笑みで手作りの傘を勧めてくる仁科に、彩﨑は白けた目を向けていた。
「あの……仁科くん。いつまでそれを続けるんですか」
笑って接客しろ、と言ったのは己であるが、彼の豹変ぶりにどうしても気持ちがついていけない。落ち着かない。不気味だ。
それでも仁科は、こちらの心情とは裏腹に明朗な笑みを浮かべ続ける。
「あはは、今更何を言っているんですか」
「うーん……いや、まぁ、そうなんですけどね……やめませんか、そろそろ」
「なんです、気味が悪いとでも? 彩﨑さんを真似ているというのに、そんな言い草はないでしょう?」
「………」
裏目に出たな、と彩﨑は思った。要らぬことを言った。急に降り出した雨よりも厄介なことに思え、溜息が漏れてくる。
「いけませんよぉ、溜息は不幸のもとですから。まぁ、溜め込むのも良くはないですがね」
「……からかわないでください」
「まあまあ、そう怒らないで」
仁科は面白がるように、くつくつと笑いを押し殺しながら言った。そして、元に戻ったのか思案げな顔つきをする。何やらぼそぼそと呟いていた。
「これは面白いな。よし、次は登志世にでも使ってみるか」
やはり余計なことを言った、と彩﨑は肩を落とした。
雨は特に激しさを増し、地面を穿つように叩く。店の前は既に水たまりに覆われていた。
傘を使えと言われたので、彩﨑は遠慮なく壁に立て掛けていた番傘を手に取る。
その時、戸の奥が僅かに陰った。直後、ドンドンと木枠ががなり立てて震える。
「おや、こんな雨に来客?」
しかし、引き戸は勝手に開くはずだ。訝っていると、座敷にいた仁科が框を降りてきた。
「彩﨑さん、ちょっとそこ下がって」
戸に手を伸ばしかけていた彩﨑は言われた通り、番傘を持ったまま後方へと下がった。三和土はがらんと物が少ないので、とにかく帳簿台まで下がれる。
未だ震えが止まない、寧ろ音が大きくなっていく戸の奥に、誰かがいることは充分に悟れた。ただ、仁科の慎重な動きのせいで、それが人ならざる者なのではという恐れを予感する。
仁科はひっそりと細く戸を開けた。途端、その隙間から長い指が伸び、濡れた手が戸を掴む。
「あぁ、なんだ。お前か」
慎重さが嘘のように軽く言うと仁科はガラリと戸を開け放った。同時にバタン、と三和土に突っ伏して倒れ込んでくるものが。
「え? 鳴海さん?」
恐る恐る近寄って窺えば、それは紛れもなく鳴海だった。着物は雨に濡れて三和土にじわりと水を滴らせている。伸びていく水の模様。あの土砂降りの中を通ってきたのか。
「あーあ、まったく。雨宿りでもしたら良かったのに。お前、風邪でも引いたらどうするんだ」
仁科はしゃがむと、うつ伏せの鳴海の頭を小突いた。しかし、一向に返事はない。
「……おい、登志世。どうした」
倒れたままの鳴海に、さすがの仁科も怪訝に眉を顰める。
「なんか、変なものでも拾ってきたのか」
更に問えば、ようやく呻きらしきものが聴こえてきた。冷たい三和土を掴むように、鳴海は指を立てる。そして、ぐったりとした言葉がとぎれとぎれに聴こえてきた。
「き……き、つ、ね……」
「狐?」
「きつね、の……た、たり、だ……」
それきり、声は途絶えてしまった。
***
「風邪……ですかね」
「だろうね」
空気とは裏腹に、仁科の口調は軽々しい。
帰り損ねた彩﨑はとにかく、仁科と共に鳴海を部屋まで引きずって奥の部屋で寝かせるまでは手伝った。
頭からすっぽりと布団に潜り込んだ鳴海は、身動き一つなく、静かに眠っているらしい。風邪ならば咳の一つでも、熱に浮かされて譫言の一つでもあるだろうに、それがまったくない。不安が押し寄せてくる。
それが伝わったのか、仁科が呆れたように口を開いた。
「こいつ、元々が丈夫じゃないんだよ。でも、まぁ……ここ一年はなかったのか。うーん……薬飲ませりゃ、どうにかなるだろう」
その楽観した様子に、広がった不安が冷めていく。彩﨑はホッと息を吐いた。
「すぐに良くなればいいですね。ここの薬はとても効きやすいから」
「そうだろうね。風邪なら」
何やら含むように言う。それから仁科は顎に手を当てて唸った。
しかし、思案は長く続かず、顔を上げると素っ気なく言葉を投げてきた。
「ま、様子は見ておくよ」
「うん。何かあったら、遠慮なく言って下さい」
それくらいしか言えなかった。
以前より、ぽつぽつと彼らの話は聞いていた。仁科が妖を視ることが出来ないこと、鳴海が厄を受けやすいこと、そのせいで鳴海を好き勝手に店へ入れることが出来ないこと。
神主とは言え、妖を視る力はないもので、また吹山村にもいくつか怪談やら不気味な言い伝えやらはあるもののそういったものに遭遇したことはない。いや、数年前に川沿いの櫻幹が暴れた、という話は聴いたが……
「彩﨑さん。雨、上がったみたいだよ」
仁科の声で、我に返る。
布団の中に潜り込んだ鳴海の状態は、悪そうには見えるがどこまで深刻なのかは定かではない。
仁科が「そこまで送る」と言うので、それに従って部屋を後にした。
***
様子を見ると言ってから、三日は過ぎた日のこと。外は一層に寒く、また冷たい風が吹き荒ぶ昼下がりだった。
社務所の戸を控えめに叩く音がし、慌てて出るとそこには鬱々とした仏頂面があった。どことなく気怠げで、目元には薄っすらとクマが見える。
「どうしたんですか」
珍しく鬱屈した空気に怯みながら彩﨑は訊いた。
すると、仁科は苛立ち紛れに垂れた前髪を掻き上げる。
「どうもこうもない……まる三日眠れていないんだから」
彼は外の風と同じく不機嫌顕わに、また随分と人相が悪く、まるで彩﨑を睨むように見ていた。もしかすると、本当に睨んでいるのかもしれない。
連絡がなかったものだから三日とも訪ねなかったことに、彩﨑は罪悪で胸を曇らせた。
「まる三日……それじゃあ、やはり鳴海さんの具合が良くないんですか」
「それもある。けど、あいつが寝込むと困るのは僕なんだよ。視えないんだから」
仁科の心配は鳴海ではなく、妖への対応らしかった。何時、その隙を突かれるか分からない。鳴海の目があればまだ安心出来るのだが、今はそれが使えない。
「それで、一つ聞きたいことがあるんだ。彩﨑さん」
脈絡なく不躾に仁科は言った。その手には噎せ返るような花の匂袋が握られていた。
「狐の社ってのは、一体どこにある?」
紫の小袋には、目を細めた狐が笑う印が縫い付けられてある。それを見せながら言う彼の声は、眠気による疲労が混ざっていた。
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