参・病める人

 蜘蛛は、糸を張って網を作り、小動物を捕食する肉食性の虫である。網に絡まれば最期、粘着質で頑丈な糸からは逃れられない。

「あぁ、こいつは酷いな……」

 仁科は、目の前で蹲ったまま微動だにしない彩﨑を見下ろしていた。

「鳴海。どうだ、状態は」

「……酷いどころじゃあないね。あんたにだって、分かるはずだろう」

 陽が暮れた紫を背に、二人はそれを険しい目つきで見る。

 広い畳に蹲るのは傍から見れば彩﨑ではあるのだが、彼らの目には別のものに視えていた。

「まぁ……ここまでくりゃ、使いもんにならない目でも認めるようだ。相当に強くて濃い邪気が巻きついている」

 仁科が唸りながら腕を組む。鳴海の目にもそう視えていた。邪なる糸に絡まったまま、もがくことすらやめてしまった哀れな塊。

 鳴海は近くへ寄ることすら出来なかった。あの冷たく黒い糸に捕まりそうで、怖い。鬱々と溜まりに溜まった邪気が辺りを覆い、網を張り巡らせている。

「仁、この人は一体、どうしてこうなってしまったんだろう」

「さあな」

 すぐに返ってくる声。問うても大した答えなど返ってくるまい。だが、言わずにはいられなかった。

 もどかしくなる。どうして、ここまで追い込まれなくてはいけなかったのか。目の当たりにして、事の大きさに触れれば、いくら関係が浅かろうとも憐れむほどの情は沸き立つものだ。

「気を病むのは、どのみち、当人次第だ。気の持ちようなんだよ、こればかりは。でも……何時だって弱者が餌食になってしまう」

 仁科は冷たくも、ゆっくりと吐き出すように言った。そして、こちらを振り返る。向けられた瞳には色がない。

「お前にも覚えがあるんじゃないか。人の目や言葉なんてものは呪いの類だ。見るだけで、紡ぐだけで人を縛る力を持っている。そうだろう?」

 瞬間、鳴海の全身に痺れが回った。

 そうだ。その通りだ。それは己がよく知っていることだった。

 言の葉の呪いに一度だけかかったことがある。

 だからこそ、彩﨑の状態が痛いほど伝わってしまうのだろう。鳴海は目を閉じ、息を整えた。

 邪気はどこまでも冷たくなる一方で、肌が粟立っていく。寒気が背筋をさわれば、意識せずに身震いしてしまうほど。

 だが、仁科はもろともせずに一歩ずつ黒い糸の塊に近づいた。

「神主さん」

 呼べども反応はない。近づくにつれて、一声かけ続ける。

「神主さん……いや、違うな。ええっと、名前……さ、彩﨑、さん」

 思い出した彼の名を、改めて呼ぶ。ゆっくりと、慎重に。じわじわと近寄って。心の隙間を探し当てるように。

「彩﨑さん」

 塊は、僅かに動きを見せた。まだ自我が残っているらしいことが窺えれば手の施しようがある。

 仁科は唇を舐めると、囁くように再度声をかけた。

「聞こえてんなら、聞いて欲しい。僕らは――」

 言葉が届いたのだろうか、塊がびくりと震えた。


 ***


 どこからか、声が聞こえてくるが耳の中では陰湿で粘着質な音が邪魔をするだけだった。不快を形にしたような、泥を踏み鳴らすような音が響きあって擦れる。

 そんな中で《彩﨑》という声が忍び寄ってきた。

 誰だ。なんだ。一体、それは、なんなんだ。

 声の、言葉の連なりでさえ意味を見いだせないが、それは尚もしつこく《彩﨑》と言う。

《僕らはあんたを助けようとしているんだ》

 たすける? なにを? たすける、とは、なんだ。たすける……助ける……

 言葉を認識すると同時に、大きく緻密で頑丈な網が一層張り巡らされた。

 しきりにガサガサと何かが這い回る音、多足の何かが蠢く音、それが近くにあり不快感を誘う。思わず耳に手をあてがった。

《このままでいいのか》

 冷たく鋭い言葉が網の中へと掻い潜ってくる。塞いでも、どんなに塞いでもまとわりつく。

 このまま。このままでいいのか、なんて。いいわけない。だが、他にどうしろという。どうしろと。これ以上、何を――

《それとも》

 痛みを掻い潜る声。彼は僅かに顔を上げた。

《それとも、助かりたいか。どちらがいい》

 言葉の意味を噛んで含ませる。咀嚼し、舌の上で転がしてやっと理解する。そして、彼は諦めの息を吐いた。

 無理だろう。無理だ。無駄だ。そんなこと、出来やしない。どうせ出来ない。助かるなんて、出来たのならとっくにしている。出来ないのだから、こうなってしまったんだ。それを、

 ――軽々しく口にするな。

 助ける、だなんて。頼んでもいないのに。何故。どうして。馬鹿馬鹿しい。いい加減だ。気休めはよしてほしい。そんな、救いをちらつかせるなんて、希望を、希望の道を、幻想を見せないで欲しい。言葉ではどうとでも言えるんだ……

 でも。

 このままでいいのか。

 いいわけがない。いいわけがないんだ。

 でも、それじゃあどうする。もし、万が一、一旦は気を持ち直したとしても、もし、また潰れたらどうするんだ。どうするんだろう。

 その時もまた、この痛みに耐えなくてはいけないのか。痛みと悩みに縛られ、絞め付けられてしまったら……今度こそ、あの蜘蛛のように潰れてしまうのではないか。

《どちらがいい。このままでいるか、助かるか》

 同じ問いに、彼は逡巡した。

 全身を縛る痛みに、感覚は麻痺している。ぼんやりと揺らめく意識の中、やがて彼は小さく、細く息を吐き出すように苦し紛れに呻いた。

「――たすけて、ください」

 その声は、届いたのだろうか。


 ***


 塊が呻いた言葉を、仁科は満足げに聞いた。

「……うん、引き受けた」

 背後で様子を窺っていた鳴海の耳にも、彩﨑の願いは届いている。

「仁、どうする」

「そうだな……虫には炎で対処するって岩蕗さんが言ってたような……あぁ、そうだ。こいつで糸を燃やそう」

 そうして仁科は鳴海の袖を指さした。

「マッチ、あるんだろう。貸せ」

 彼の表情からは感情は読み取れなかった。ただ、言われるままに袖に忍ばせていたマッチの箱を取り出す。

 それをひったくると、仁科は自身の袖から札を一枚出した。それに火を点ける。

 札に書かれた解の字を舐めるように、炎は燃え上がる。全部に火が回ったところで、仁科は燃える札を彩﨑に向かって弾き飛ばした。

 轟々と音を立て、それは一瞬で燃え広がる。赤が邪気を食うような、じゃくじゃくと耳障りな音が立ち込める。

 やがて、彼を縛っていた蜘蛛の糸は緩やかに一本ずつ、解かれていった。


 どのくらい、刻が経っただろう。

 鳴海は怪訝に彩﨑を視た。濃い邪気は炎に食われ、すっかりと薄れている。だが、炎が消えたというのに糸は未だに残っている。

「なんだ、綺麗さっぱり消えないじゃないか……」

 ふと呟くと、仁科が横目で睨み、黙ってろと言わんばかりに圧を向けた。

 口をつぐむと、目の前で蹲った彩﨑の背がゆらりと動く。それを見計らって、仁科は彼の前でしゃがんだ。

「彩﨑さん」

 彼はゆっくりと顔を上げた。ようやく意識が正常になったようで、こちらを認識するなり彼は目を見開いて凝視する。

「どう、して……」

 掠れた喉から絞るように、彼は言った。

 見れば、彩﨑の様子は糸に巻かれた時と同じく酷いものだった。全身、顔まで骨が浮き出ているように痩せていて、表情は一切ない。瞼には線が幾重もあり、老け込んで見えてしまう。

 酷く憔悴しており、声を発するのも辛そうだった。それを汲んだのか、仁科が手早く話を進めていく。

「何故助けた、か。まぁ、僕らは越してきたばかりだからね、あまり悪いものとは関わりたくないんだよ。それに、助けを願ったのは、決めたのはあんただろう。だから助けた」

 ぶっきらぼうな言い方だが、彩﨑の表情に動きはない。蒼白のまま、ただじっと聞き入っている。

「でも、痛みはすべて取り除けない。残しておかないといけない。何事も均等にしなくちゃ駄目なんだ。痛みを無くしてしまえば、あんたはまた駄目になる。だから、あとの糸は自分で断ち切るしかない」

 言いながら仁科は、彩﨑の足元にある黒い糸を爪で突いた。それは段々と薄れていき、空間に溶け込んでいく。

「あんたに何があったかなんてのは知らない。こうなったわけも……だから、話をしよう」

 群青を帯びた部屋に、ふわりと浮かんだ柔らかな言葉。

 項垂れる彩﨑から、小さく儚いすすり泣きが静かに聴こえた。


 翌朝。

 神社に集まった村民は、一様に目を大きく見開かせて驚きと恐れの色を浮かべていた。

 あわあわと口元を震わせる村民が見ているもの――それは、鳥居の上に鎮座する大きな大きな蜘蛛だった。

《我ハ神ノ遣ヒ也――》

 大蜘蛛は黒黒とした無数の目玉を這わせると、村民を追い払うように節足を蠢かせた。それだけでも脅威であるというのに、大蜘蛛は嘲るように甲高く節足を軋ませると、地上へ降り立った。

「神の遣い」であると言うが、その異様さに人々は慄き、後退り、逃げ惑う。その混乱により、長老会はすぐさま祭りの中止を取り決めた。

 一方で、姿を一切見せなかった彩﨑を危ぶむ者たちもいた。

 彼らはしきりに社務所を訪ねてきたのだが、小さな蜘蛛がわらわらと足元を這うのでそれに怯えて逃げていってしまう。

 そんな怪現象は夜が更けるまで続いた。

 これらは仁科の謀だったのだが、一人だけは騒動の原因に気がついていた。その人物は翌朝に麓の店まで足を運び、怒鳴り込みにやってきた。

 彩﨑ではない。村長の竹田である。


 ***


 事が過ぎ去って、五日は経過した頃。

 朝陽を浴びる店先で板に文字を認めていた鳴海は、出来の悪さに頭を抱えていた。

「うぅん、駄目だなぁ……物足りない……」

「霊媒堂、ですか……ふむ。確かにこれだけでは怪しいでしょうね」

 背後から声が聴こえ、鳴海は思わず飛び上がった。すぐさま振り返れば、そこには背筋を伸ばして立つ彩﨑の姿が。

「あ、あらら。神主さんじゃあないの。へぇぇ、今日は幾分、調子がいいようで……」

 驚きが勝っていたので、言動がつい挙動不審になってしまう。

 そんな鳴海を見つめ、彩﨑は口元を引きつらせた。それは彼なりの精一杯の笑みだろう。

「少しだけなら。いつまでも閉じこもっていては、と思い立ちまして。竹田さんにも言われましたし……ええと、仁科くんは?」

「中にいるよ。ちょいと呼んでこようかな」

「いや、それならお邪魔しても良いですか。今日は話をしにきたので」

 ぎこちなく、控えめな頼みを鳴海は快く引き受けた。ガラリと戸を開け放ち、彩﨑を招き入れる。

 仁科は畳の上で欠伸をしていた。

「おや、彩﨑さん。なんだ、元気そうだね」

 そう素っ気なく言われ、彩﨑は困ったように眉を下げた。彼の纏う空気は微かに柔らかい。

 頭や顔、足元なんかに糸は未だに残ってはいるが、それもじきに解けていくだろう。鳴海はそっと戸を閉め、看板へと再び向き合った。


「……ええと、幾つかお訊ねしても良いですか」

 緊張の声音で、彩﨑が切り出した。

 ここ数日について、どうにも不可解なことがある。それを明かすために、五日は寝込んでいた体をわざわざ引きずって麓まで出向いたのだ。

 対し、仁科は無愛想にまたも欠伸をしている。

「うん。どうぞ、幾らでも」

 手のひらを差し出し、促される。その横柄な振る舞いも、今はさして気にならない。彩﨑は大きく息を吸うと、ゆっくり問いかけた。

「あの、竹田さんが怒鳴らなくなったんです。今までとは打って変わって、大人しくて、威厳がどこにもなくなりました。何かしたんですか」

 仁科はニヤリと口の端を伸ばした。それを見逃さない。悪戯が見つかった子供のよう。

「うーん……竹田の爺さんだけは、僕らの幻術に惑わされなかったんだよ。あの大蜘蛛の幻術ね。何故、あんなことをしたのかと、真っ先に疑われてしまって……だから、一つ言っておいたんだ」

 仁科は眼鏡の奥にある瞳を伏せた。

「もう怒らないでほしいって。あの人、頭から大声で怒鳴り散らすものだから、それをやめてほしい、とね。怒鳴らないでくれたら、もう勝手なことはしないと約束もした」

「……本当に、それだけですか」

「本当にそれだけ。今まで誰にもそう言われたことがなかったんだろうな……吃驚びっくりした顔をしてて。あれは面白かったよ。彩﨑さんにも見せたいほどに」

 彩﨑は呆気にとられた。口をあんぐりと開け、動きを止めてしまう。

 あの竹田を言葉一つで変えてしまうなんて、とんでもないことだと思った。

「いや、そんなことはないよ。現に、あんたもそうだったろう。言葉によっては幾らでも人を縛ることが出来るんだ。それに、あの爺さん、ああ見えて実は優しい人なんだよ」

 その言葉には素直に頷けない。竹田を語るには無縁の言葉に思えてしまい、またそんな思いを抱く心の狭さに嫌悪が走る。

「……誤解をしていたとでも」

「うん。話してみればいいよ」

 あっさりと返され、彩﨑は苦々しく奥歯を噛んだ。

「話……ですか。分かりました。そのうちに」

 この件は一旦、閉じておこう。どうやらそれ以上の理由はないのだと見受けられる。引き出せそうになければ、諦めも容易だった。

「あとは?」

 今度は仁科が先を促した。その瞳に見透かされているように思え、逸らすべく俯いた。

「ええと……あぁ、そうです。蜘蛛。蜘蛛を潰したから、こうなってしまったのかどうなのか。それがどうにも解せなくて。一緒に考えてもらいたいんです」

 言葉にすることへは抵抗があった。胸の内を聞いてもらうことに慣れがない。恥をも感じていたが、それでも壊れかけた脳を無理に働かせるよりはいいはずだ。それに、彼が話をしようと持ちかけたのだから、何を言っても許されるだろう。

 仁科は「ふむ」と顎に手を当てて思案げに唸った。小首を傾げ、こちらを窺ってくる。

「僕は、蜘蛛を踏んだ後の彩﨑さんしか見ていないから、あまり決めつけでは言いたくない……でもまぁ、蜘蛛のせいにしてもいいんじゃないかな」

 言葉の並びは曖昧だった。だが、きちんと熟考した上の判断ではあった。

「蜘蛛を踏んだから、気を病んだ。蜘蛛を殺めてしまったばかりに、罪悪に苛まれた。幾らでも説明は出来るさ。だって、どうして踏んでしまったのかなんて、覚えていないんだろう? 魔が差した、わけでもないんだろう?」

 答えは出てこなかった。

 幾ら考えても記憶を巡っても、あの時の感情や思い、考えは蘇ってこない。意識がなかった、と言っても間違いない。きちんと明確な理由など見当たらなかった。

「分からなくてもいいんだ。律儀に事細かく説明づけないといけないなんて、それこそ面倒だし、疲れてしまう」

 仁科は唐突に、きゅっと目を瞑ると渋みのある実に当たったような表情を見せた。その仕草が幼さを浮かばせる。

 大人びた印象だったもので、仁科の意外な一面に彩﨑は気が抜けてしまった。力を入れていた肩も一気に緩んでいく。

「仁科くん、色々と有難う。不甲斐なくて申し訳ないです。また何かあったら頼ってもいいかな」

「うーん……あまり頼られてもなぁ……それこそどうしようもない時じゃあないと」

 あまり気乗りしない仁科の声。しかし、彼はすぐに「あぁ、そうだ」と何かを閃かせた。

「申し訳ないと思うんなら、ちょいと手伝って欲しいことが」

 すくっと立ち上がると、慌ただしく框を降りて彩﨑を手招く。外へ出るよう促された。怪訝に見てみると、板を睨んで苦闘する鳴海と目が合う。仁科が溜息混じりに言った。

「店の名前、どうにかならないかな。これがなかなか決まらなくて」

「え……そんな大役を私に任せるのはどうかと……」

 怯む彩﨑に、仁科と鳴海は揃って不貞腐れた顔を向ける。

「案だけでもおくれよ」

「そうだ。それくらい頼むよ」

 二人のしかめっ面に、彩﨑は宥めすかすように唸る。どうしようもない時に頼りたい店……しかし、これを言うと怒るかもしれない。いや、どうだろう。

 彩﨑はゆっくりと、小さく、不安げに呟いた。

「猫の手も借りたい……店、というのは……」

 その声はしっかりと届いたらしい。仁科と鳴海は揃って頷いた。

「よし、『霊媒堂猫乃手』だ。これでいこう」

 仁科が言い、鳴海はすぐさま板に筆を走らせた。


《蜘蛛、了》

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