弐・蜘蛛の網

「あぁ、済みません。こんにちは。村長の竹田さんから話は聞いてまして……えぇと、遅れてしまい申し訳ないです」

 小走りに駆けてきたのは、困ったように眉を下げた男。

 細い目は頼りなげに垂れていて、目元には薄らとクマが見える。頭のてっぺんが僅かにはねており、どうも慌てて駆け付けたらしい様子が窺えた。

 彼はしきりに詫びを入れ、頭を下げる。自分らよりも遥かに大人であるのに、気弱で小心そうな印象を受けた。

「はぁ……えぇと?」

 どこの誰か分からないうちは警戒が働いてしまう。仁科の怪訝な視線に、彼は「あぁ」と挙動不審に目を泳がせて俯いた。

「申し遅れました。私、彩﨑といいます。えぇと、あの、林の奥にある神社で宮司をしておりまして」

「へぇ……これはまたどうも。そんで、わざわざ何の用で」

 無愛想な仁科に、傍らの鳴海は苦々しい顔をした。

 ――あぁ、やっぱり。

 人への応対がまるでなってない。これはきちんと言って聞かせたほうがいいだろう。

 彩﨑も眉を顰めてはいるが、咎めることはしなかった。向こうも向こうで素っ気なく、口調は丁寧でも、どこか冷たさが漂う。

「村長の竹田さんから聞いてませんか、あなた方の世話を任されているんですが……」

「ああ……でも、特に世話になることなんかないよ。勝手にやれる」

「そう、ですか。でしょうね。うん、分かりました」

 段々と声が低くなっていく彩﨑。彼はもう仁科とは目を合わせようとはしなかった。落ち着きがない。俯いているのであまり判らないが、顔色が優れないように思う。

「では、何かありましたら私にお声がけを。ここの人たちは、他人にちょっとばかし冷たくてね……長老会にも目をつけられないよう、お気をつけください」

 彩﨑はそそくさと言い、後ずさっていく。そんな彼の周囲に、何やらがぼんやりと浮かび、鳴海は目を瞬かせた。

 顔色が悪くて表情が見えないと思っていたら――そのせいか。

「……ええと、あぁ、そうだ」

 戻りかけた足を止めた彩﨑。何か思い出したように振り返る。険しい目つきで。

「店をする、と聞いたんですが。そのぅ……どういった店なんでしょうか」

 問いに、仁科と鳴海は顔をちらりと見合わせた。鳴海は彩﨑の周囲に漂う霧のせいであまり話したくはない。視線だけで念を送ると、仁科が溜息を吐いた。

「まぁ、言わば霊媒の店、かな。雑貨やらを置くつもりだけど、きちんとは決めてないよ。店の名もまだだから」

「……霊媒、ですか。へぇぇ」

 訊いたにも関わらず、反応は薄い。それから彩﨑は、気まずそうにもごもごと言った。

「あの、何も事を起こさないようにしてくださいね。大人しく、して欲しいんです。宜しく頼みます」

 彼は返事も待たずに、今度はもう足を止めることなく林へと引っ込んだ。

「……仁。あんた、もう少し謙虚になってくれないかい」

 彩﨑が消えたと同時に、鳴海はようやく口を開いた。その非難に仁科は口を曲げる。

「何言ってるんだ。敵意がある相手には相応の態度で向かうしかないだろう。あの人、初めからああだったよ」

「うーん……」

 確かに、向こうの印象も悪かった。

 一度も笑うことなく、迷惑そうな声音、暗い表情を向けられれば、どうしても気分が悪い。それに……

「それに、あの人はなんだか臭い。におうんだよ、どうも」

 仁科は腕を組んで林を睨んでいた。

「におう?」

「そう。なんだろう……あまりいいものじゃあない。暗くてじめっとした、陰湿なやつだ。お前、何か視えなかったのか」

 視えずとも何らかの異変は感じていたのだろう。鳴海はゆっくりと思い返しながら言った。

「あぁ……見間違いかと思ったんだけれど……あの人の周りに黒い霧が視えたんだ」

 固く強張ったように言う。すると、仁科は顎に手を当てて思案げに唸った。

「ふうん……黒い、霧。良いものじゃあないだろうな……まぁ、用心しておこう」


 ***


 二人の名を聞いていなかったと、気がついたのは神社に戻ってきてからだった。

「あぁ、でも、今すぐ困るわけでもないか」

 あんな無愛想な子供二人を相手にしている余裕はない。釘は差しておいたが、どうだろう。生意気そうな顔つきの一方が、何か竹田の癇に障ることをしたら……こちらに皺寄せが来そうで気が滅入る。

 そんな竹田や長老会を思い出すと、それまで気にかけていなかった頭の奥の痛みが急激に蘇ってきた。

 一旦、認識してしまえばそれはどんどん膨らんでいき、目を開けていられなくなる。後ろから見えない何かが伸し掛かってくるようで、肩も落ちていく。

 彼は社務所の玄関までよろけるようにして戻ると、そのまま壁伝いに部屋へ上がった。


 ***


 麓へ越してきた少年らは、しばらくは大人しく、集落には近寄りもしなかった。それは彩﨑にとっては好都合だったが、こちらもまったく気にかけておらず、他で手一杯だった。

 もうすぐに豊作祭りが行われる。

 例年通りならば、神社での儀式を粛々と執り行う手筈だが、昨年までは父が全ての段取りをしていたので、手伝いはしていたものの自信が持てなかった。

 何度も何度も四六時中、脳内で儀の段取りを巡らせているが、突然に一つ抜けがあったり、気もそぞろになるなど状態が悪い。

 竹田の家で、祭りの話し合いをする際も始終、胃を締め付けるような痛みに襲われていた。まるで、糸でぐるぐると縛られるようで不快を極める。竹田は他人の手前、怒鳴りはしなかったが訝しく睨んでいた。

 昼からの会議だったが、他の者が好き勝手にああだこうだと言い、それを諌めることも出来ず、だらだらと時が過ぎていくばかり。明日に控えた祭りの催しを誰が主とするかが決まらなかった。

「彩﨑のせがれは、なんだか頼りない」

 いつまでも黙ったままの彩﨑への非難がぽつりと浮かぶ。一つ上がれば、それは次第に数を増す。

「あぁ、そうだ。死んだ父親はそれはそれは立派だったというのに」

「こいつときたら、てんでなってない」

「いいのかい、竹田さん。こいつに任せていると碌なことがないんじゃないかい」

「しかし、わしらだけで全部をするわけにゃいかんだろう。これもいい学びじゃ。なぁ、彩﨑。もういっそ言われた通りにしていれば良い」

「親父に比べりゃ、ひよっこだな。いや、これだといつまで経っても駄目か。だらしがない。これだから、若い者は」

「彩﨑、お前の為を思って言っているんだぞ」

 顔を上げることなど出来やしなかった。その苦言が老人たちから吐き出される毎に、全身が糸で巻かれるような。その絞めつけが増した時、彼は息を止めた。

「――あのー、ごめんください」

 老人たちのざわめきに、突如、若い声が息吹のごとくその場を駆け込んだ。彩﨑を縛る糸も急速に緩んでいく。

「ごめんくださーい」

 再度かかる声に、老人たちはもう話を止めた。眉を顰め、首を傾げたりと不信げだ。

「おい、彩﨑」

 竹田が唸る。彼はすぐさま立ち上がると逃げるように部屋を出た。

 暗い玄関の向こう側を怪訝に見る。二つの影が障子の奥に見えた。

 開けると、光が眩しい。夕陽に目が眩み、彩﨑はすぐに手のひらで目元を翳した。

「ええと、どなたでしょうか」

 玄関先に立つ二人の少年には……はて、覚えがない。いや、どこかで見たような。

「おっと、それはないだろう神主さん。この間のこと、もう忘れたのか」

 呆れた口調で言うのは、前に立つ少年。

 あぁ、そうだった。彼は、麓に越してきた一人だ。

「済みません……影のせいで見えづらくて。どうしたんですか、こんなところまで」

 一体、彼らが村長の家に何の用だろう。

 問うと、少年はじっと調べるように身を乗り出してきた。

「いや、越してきた挨拶回りにと出向いた次第で。それに、この間は紹介がまだだったなあと思い出したんだ」

「はあ……しかし、今は取り込んでいて……申し訳ないけれど」

 喋るのでさえ億劫なのだから、ここは早めに切り上げたかった。彩﨑は皺を寄せていた眉間を揉むように摘んだ。その辺りがやけに痛い。

「ふうん……じゃあ、仕方ない。出直そう。ああ、神主さん。僕は仁科仁、そしてこっちが榛原鳴海。何かあったら麓まで来てよ」

 そう軽々しく、馴れ馴れしく、仁科という少年は言った。こちらの具合など気にもとめない様子で。

 そうして彼らは返事も待たずに踵を返す。彩﨑は反射的に会釈をして、そろりと戸を閉めかけた。

「あ、待った。神主さん」

 仁科の声に彩﨑は手を止める。

「何か……?」

 掠れた声で問うと、仁科は思い出したようにこちらへと戻ってきた。そして、戸の隙間から目を覗かせる。

「あのさ、この頃、何かを殺めたことはない?」

「えっ?」

 思わず顔を上げた。ようやく、きちんと仁科の顔を見た気がする。彼は、探るような上目遣いで眼鏡を光らせた。

「例えば……虫、とか」

 それまで痛みが続いていた眉間が、急に熱が冷めるように引く。

 咄嗟に思いついたのは、あの――

「虫を殺めると、しばらくはそいつにニオイが染み付くんだよ」

 声が出せない。渇いた喉に引っかかったまま。すると、仁科は口の端をつり上げて笑った。

「覚えがないんなら、いいんだ。気にしないで」

 彼は、それじゃあ、と包帯を巻いた腕を見せて手を振った。もう、こちらを見もせずに鳴海と共に竹田の家から去っていく。

「おい、彩﨑! 彩﨑」

 部屋の置くから竹田の声が轟くまで、彩﨑は呆然としていた。


 ***


 開いた畦道を早足で行く仁科の後を鳴海は小走りに追いかけた。

「おい、仁」

「何か視えたか」

 彼は不躾に訊いてくる。声音が低いせいで、ますます不穏が胸に広がった。

「あぁ……あれは不味いよ」

「そうかぁ……あの人、一体何を抱え込んだんだか」

 嘆息する仁科。その中にはどこか焦燥のような、ひりりとした空気を醸し出している。

 鳴海は今しがた己の目で視たものを、おずおずと口にした。

「あの神主にあった濃い霧が、さっきはなんだか……そう、糸のようにぐるぐると身体に巻きついていたよ」

「糸……糸……」

 仁科はブツブツと呟くと、顎に手を当てて唸る。

「あぁ、もしかして蜘蛛、か?」

 蜘蛛。糸を張って網を作る虫の類。

 だが、定かではないので鳴海はやはり黙りこくっていた。一方で、仁科はえらく確信する。

「蜘蛛、ね……また厄介なものを」

 そう言いながら、仁科はふと、こちらを見やった。目を丸くする。

「ところでお前、なんでそんなに派手な格好をしてるんだ」

「今更かい……」

 鮮やかな着物をまとった鳴海は、げんなりと肩を落とした。別に、気がつかなくたって良かったのだが。

「やっぱりこっちの方が落ち着くんだ、あたしは」

「へぇ……」

「それに、地味な色は性に合わなくて。ほら、色のある方がよく似合うから」

 仁科はもう取り合うことなく、呆れの半眼で眺めていた。


 ***


 祭りはもう明日に差し迫っている。

 話はまとまらなかったが、ある程度は竹田の指揮で当日の流れは取り決められた。それでも、彩﨑の心情は穏やかではなく、気を病む一方だった。

 備品の確認をしなくてはいけない。だが、いつの間にか手が止まる。最も、祭りのことを考えるだけで全身が硬直したように、まるで何か……見えない網にかかったように、動きが封じられてしまう。

 キーンと走るような鋭い痛みに、思わず息を飲んだ。呻きすら、喉を通らない。何か……そう、網のような糸のようなものが張り付いている感覚。

 ――虫を殺めると、しばらくはそいつにニオイが染み付くんだよ。

 仁科の声がふと過ぎった。

 しかし、それは段々と途切れていき、ガサガサとした雑音に変わっていく。まるで、思考を何かが阻むよう。

 脳は今や、絞めつけられすぎて、いつでも破裂しそうだ。

 痛い。

 その言葉だけではもう足りない。

 断続的に鳴る痛みの波に、彩﨑はくずおれた。

 どうしてこうなってしまったんだろう。いつからこんなになったのだろう。父が死んで、慌ただしくなって、全てが覆いかぶさってきた。全部を引き受けて愛想よくしていた。いや、そうだったろうか。

 気が小さい故になんでもかんでも押し付けられるのは子供の時分からだ。それでもここまで思い悩むことはなかった。

「彩﨑の倅は、なんだか頼りない」

 ――そんな風に言わないでくれ。

「死んだ父親はそれはそれは立派だったというのに」

 ――それはそうだろう。だって、父は立派な……

「これだといつまで経っても駄目か」

 ――そう、かもしれない。でも、

「だらしがない。これだから、若い者は」

 ――………。

 情けないのは分かっている。言うとおりにしてきたはずだ。自己を押し殺してきた。それでも足りないというのか。いいや、そうだ。その通りなんだ。

 これは己のためではない。村のため。そう、村のためだ。父もそうしてきたのだから、自分も全うしなくてはいけない。それなのに、どうして上手く出来ないのか。

 痛い。

 目が開かない。糸を張られたように。しっかりと蓋をされているように。このまま、開かなくてもいいか……いや、駄目だ。

 ぼんやりとふやけた思考の向こうから、竹田の怒鳴り声が捻れて這い寄ってくる。鼓膜に張り付いたように取れない。ぐるぐると巻きついて、鬱陶しく絡んでくる。ガサガサと何かが蠢く。轟々と煩い。

 痛い。

 頭か、胸か、内蔵か。どれも違うようで同じに思える。たるんでいるのだ。だらしがない。そうだ。病ではないのに、ただただ体が怠けているだけだ。眠気もそうだ。

 そうだ。それだから、頼りないから、怒鳴られても仕方がない。つまらない奴なのだ。自分は。いくらやっても、やっても、やっても失敗する。出来ない。何も出来ない。どうせ、できない。ままならない。

 あぁ、でも。また怒鳴られるのは、嫌だ。あれを食らうと胃が削られるように痛む。

 痛い。

 痛い。重たい。苦しい。痛い。痛い。いたい。

 もどかしくて堪らない。もう、いっそのこと……取り除いてしまおうか。全てを。脳が痛むなら、それを引っ張り出してみようか。内蔵ならば、それを。目が開かないなら、瞼を切り取ってもいい。

 そうして、しまおうか。

 指先を動かせば、骨が軋むように震えた。爪を立てて引っ掻いてみれば、その痛みまで届くだろうか。

 皮膚を破る音は、耳には届いていない。どうなのだろう。感覚が、もう、どこにも――

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