外伝其ノ二 蜘蛛〜クモ〜
壱・他人の疝気を頭痛に病む
このところ、どうも寝付きが悪く、床についても目を瞑っても眠りの心地がなかった。気がつけば、起き上がってぼうっと窓の外を眺めていることもある。
早く眠ってしまいたい。眠ってしまえば楽なのに。
寝酒でも飲んでおくか、と彼はふらりと立ち上がった。途端、鼻筋から額にかけてピンと張りつめたような痛みを感じる。
眠れないからか、頭痛が治ってくれない。いや、頭痛のせいで眠れないのか。それに、心なしか肩や首の凝りが酷い。
彼は息を吸い込み、それを蓄えることなくすぐに吐き出した。だが、胸から喉にかけて溜まった違和は取り除けない。吐いても吐いても出ていくことはない。つっかえたように出ていかない。
どうしたものか。一体、どうしてしまったのか。
風邪でも引いたのだろうか。いや、熱っぽさもなければ喉も腫れてはいない。何か知らぬ病にでも罹ったのか。彼は眉間に皺を寄せて思案する。
だが、頭痛が邪魔をするので思考は途切れるばかり。隣の居間まで壁を伝って歩かなくてはならないほど、全身が重く気怠いのだ。
戸棚に仕舞ってある古い酒(いつ誰に貰ったのか忘れた)に手を伸ばすなり、そのまま口を付ける。一口だけ喉に流し込むと、思ったより辛口で噎せてしまった。
僅かだが、胃に流しておけばそのうち酔いが回って眠れるだろう。兎にも角にも眠ってしまいたい。そして、そのまま朝が来なければいい。
一定の感覚で脈打つ頭を和らげようと額を押さえつける。彼は酒を乱暴に仕舞うと、すぐに寝室へ向かった。
***
「おぉい、彩﨑。彩﨑!」
社務所の玄関先から轟く老爺の威圧的な声で目を覚ました。
勢い良く起き上がると、胃の中がぐるりとひっくり返るような気持ち悪さに襲われる。
「彩﨑! まだ寝とるのか、さっさと出て来い!」
未だ鳴り止まぬ大声に、彩﨑は固く目を閉じた。それでも、耳までは閉じられない。
具合の悪さをどうにか堪えようと唾を飲み込み、がなり立てる玄関へ急いで向かった。
「……あぁ、竹田さん。済みません、寝坊をしてしまいまして」
引き戸を開け放すと、そこには浅黒い皺を深く刻み込んだ老爺が仁王立ちしていた。じっと睨むように彩﨑を睨むその人物は吹山村の村長、竹田である。
「まったく、たるんどるぞ。これだから、若いのはだらしがなくていかん。いいか、彩﨑。俺はお前の今後を思って言っているんだ」
「えぇ、はい……済みません……」
声を出そうとすれば、途端に胃の中がのたうつ。横腹をつねるように掴み、彼は嗚咽を喉に押し込めた。
「そ、それで。今朝は一体どうしたんです」
竹田がわざわざ神社を訪れることは、そう頻繁なことではない。ただ、何か村に変事が起きた時やどこの誰が病に倒れただとか、祭事がどうとか、あれこれと雑務を言いつけるのが常だ。
吹山村には長老会という、村長を始めとした各家長が村を仕切っている。大体はこの老人たちの決定で話は済むが、それでも解決が出来なければ代々、長老会の世話役を担う彩﨑神社に一任される。基本は雑用であるが。
さて、今回は何の用だろう。横腹を強く握りしめて、彩﨑は具合の悪さを見せまいと笑みを作る。
一方、竹田はふっさりと茂った太眉を不機嫌そうに曲げた。
「先日に話しておいただろう。
彩﨑は視線を逸らし、鈍く痛む脳を巡らせた。確かに、言われていた。すっかり頭から抜けていた。
「あぁ、ははは……そうでした、ね。済みません。もう着いているんですか、その……若い奴っていうのは」
「だからこうしてわざわざ俺が出向いたんだろうが。いい加減しゃっきりしろ。その寝巻きもとっとと着替えてこい!」
ぴしゃりと怒鳴られれば、無理に貼り付けていた笑みもすぐに失せていく。ごくりと喉を鳴らし、怯むように彩﨑は一歩下がった。
「す、済みません。すぐに、支度をします」
竹田は鼻を鳴らすと、彩﨑を一瞥して玄関から背を向けて神社から出ていった。
それを見送る彩﨑は、ふと腹部の痛みに気がついた。横腹をつねる手が無意識に強くなっていたらしい。
顔を歪めながら離し、寝巻きを捲って見ると赤黒い染みのような模様が浮かんでいた。
「……またやってしまった」
どうにも竹田の怒鳴り声が慣れないらしく、大声が耳をつんざくだけで胃が絞られるように痛むのだ。
――気が小さいのは前からだけど……いつまでもこんなじゃ……
彩﨑は玄関を勢いよく閉めると、のろのろと
そんなつもりはなかったのだが、床板を踏み鳴らすように歩き、部屋へ戻ればすぐに着替えにかかった。が、その動きは荒々しい。
動作に合わせて、胸の中につっかえていたものが渦を巻き、暴れる。喉の内をかきむしってしまいたい衝動に奥歯を噛み締めた。
食欲はない。最も、胃の具合が良くないから何も口にしたくはなかった。それに、内心穏やかではなくどうにも苛立ちが募っていく。
竹田の怒鳴り声がまだ脳に残っているのか、頭痛は止まない。
そもそも、どうして自分がなんでもかんでも請け負わなくてはいけないのか。昨年に父が突然亡くなって、世話役がいなくなってしまった。当然、神社の息子である自分がその役目を継ぐしかないのだが、それにしてもだ。
村に越して来たという少年らが、確か竹田の昔馴染みのなんだったか……縁があるらしいが、その世話までしなくてはいけないのか。確か、十八かそこらだった。若いなら勝手になんとかするだろう。若いのだから。中途半端に年を食った自分なんかよりも。
彩﨑は紺の着物に茶の羽織を合わせると、すぐに玄関を出た。この件を放置してしまうとまた竹田に怒鳴られる。
ただでさえ、ここ数月は不眠が続いているのだ。眠気で鈍くなる脳は水を吸った綿のようで、顔を上げるだけでも重く辛い。差し込む陽の明るさでさえ目の奥を突く。
俯いたまま、狭い境内を進んだ。暗い土色をぼんやり眺めながら。
すると、草履の裏で何かが……糸をぶつりと千切ったような、小魚の頭を噛んだような、そんな軽い音が近くで鳴った。
「あーあ、踏んじゃったね」
「踏んじゃったね」
鳥居の向こうから子供の声が言う。俯いていた彼は立ち止まって顔をそろそろと上げた。
よく似た顔の、釣り目が特徴的な子供が二人。ニヤニヤと不快を誘う笑みを向けている。
「いけないねぇ、神主。蜘蛛を殺しちゃいけないって、親父に教わらなかったのかい?」
「何が起きるか知らないよぉ。何が起きるんだろうねぇ」
見覚えのない顔だ。二人は仲睦まじくぴったりとくっついて、愉快そうにはやし立てる。
彩﨑は怪訝に目を細めた。
「ええと……もしかしてあなた方が、麓に越してきたという……?」
問うと彼らは顔を見合わせて吹き出した。
「まさかぁ。そんなわけあるかい、なぁ、左吉」
「そうさ、右吉。この神主は寝ぼけてやがるんだ。そっとしとこうかね」
二人は言い合うと、鳥居から離れて走り去った。それを追うことはなく、彩﨑は呆然と見送るだけ。
そう言えば、彼らは何かを踏んだとからかっていた。さも面白そうに、含むように。
「気味が悪いな……」
彩﨑はそっと足を上げてみた。
瞬間。
足元を黒い小さな点が散らばるように走った。草履の裏から這い出るように、どんどんどんどん溢れていく。
それは無数の脚を持つ
蜘蛛の子を散らして、その言葉通りに、石畳の上で蜘蛛の子を散らしていく。彩﨑は声を上げる間もなくその場から慌てて後ずさった。
「しまった……」
どうして気がつかなかったのだろう。足元を見ていたはずなのに、どうして蜘蛛を踏んだのか。
あの黒い小さな点は蜘蛛の子なのだろうか。だとしたら、相当に大きな親を踏んだのではないか。そう思い、彼は蜘蛛が出現した所を見やった。
「………」
踏んだのは、あの小さな点と同様の種類だった。
一斉に草履から溢れたのでつい驚いてしまったが……寝ぼけているのだろうか。あんな不気味な幻覚を見てしまうなんて。
「でも、いい気はしないな……蜘蛛か、どうしたものだろう……」
胸中をじわりじわりと這うのは罪悪感。それは血管を巡り、次第に動悸へと変わった。
「あぁ、もう、どうして……なんだってこんなことに……」
朝に見る蜘蛛は殺すな。
そう言い聞かされた子供時代を思い出す。
虫一匹にでさえ、気を払わなくてはいけない。そんな脅迫めいた無言の圧が、潰れた蜘蛛から漂う。
***
山に囲まれた吹山村とやらは、通ってきた華やかそうな町とは打って変わって静かだ。生まれ育った田舎となんら変わりない。岩蕗の家も周囲は開けた場所で、山は遠かったものの緑は身近だった。
拠点が変われど、景色に真新しさはない。そんな村を窓から一望して鳴海は「こんなもんか」と苦笑した。
あの奇妙な三日月の妖に遭って一日は経ったか。立ち寄った華やかな町――水土里町で揃えた日用品を古びた空家の一角に並べていた。
「掃除はまぁ、ちょちょいとやるだけでいいだろうね。空家にしては綺麗だし」
しかし、相棒の声は返ってこない。せっかくここまで辿り着いたというのに、家を見ずに一体何をしているのやら。
ひょっこりと外へ出てみると、仁科は家の壁を触っていた。手のひらで調べるように。
「うん。まぁいいだろう……おい、登志、よ……」
背後にいるとは思わなかったのだろう。仁科は肩を上げて「うわ」と声を上げた。
「なんだ、脅かすな」
「煩い。それに登志世と呼ぶな」
「まだ言ってるのか……慣れないんだよ、どうしても」
うんざりと宣う。そのサラリとした猫毛を思い切り叩いてやった。
「いっ……た! 何するんだ。乱暴はやめろ」
文句を言うが、一体どの口が言うのだろう。
フン、とそっぽを向くと、仁科は頭を抑えながら不服そうに唸った。それから何か思い立ったのか「ちょっと来い」とぶっきらぼうに手招く。
なんだろう。
彼は入口で立ち止まった。ガラリと引き戸を開けて自分だけが入る。そして、鳴海の鼻先でぴしゃりと戸を閉めた。
「え、何さ……なんで締め出されるの……」
「おい、登志世」
戸の奥で仁科が言う。
「開けてみろ」
よく分からないが言われた通りに引き戸を開けた。ガラリ、と音を立てて開く。仁科は満足そうに頷いた。
「よし、それじゃあ」
今度はひょっこりと外へ出て行き、戸を閉める。
「開けて」
「はぁ? 一体なんだって言うんだ……」
不可思議な行動には首を捻るしかなく、だが素直に従う鳴海は引き戸に手をかけた。
「ん? あれ?」
力を加えてみるも、戸はびくともしない。両手を使えども、先まですんなり動いたというのに、どこかで引っかかったのだろうか。
仁科を見ると、彼は意地悪そうな笑みを浮かべていた。
「あんた……何かしたね」
「ちょいと小細工を施してみた」
得意げに言うが、何か悪意が込められているように思えてならない。じっとりと睨んでいると、仁科は軽快に口笛を吹いて、片手で軽々と開けた。
「え、あれ? なんで……」
自分がした時は両手でも動かなかったのに。このカラクリはなんなのか。訝っていると、仁科は愉快そうに笑った。
「まじないだよ。僕がここに入っていないとお前はこの家には入れない」
「は、え? えぇ? ちょっと、どういうことさ!」
好き勝手に家に入れないとは聞き捨てならない。理不尽すら覚える。
「いや、これはお前の為を思ってな。いいか、登志……じゃなかった、鳴海。お前は恐らくこれからもうんとおっかない妖に遭うことが多くなる。それを率いてみろ。悪いものの吹出まりになるのは困るんだよ。何せ、僕は視えないんだから」
蓋を開ければ至って真面目な意見だった。
しかし、締め出された鳴海が滑稽だったのか仁科は陰湿な笑いを隠せていない。そのせいで、どうにも納得がいかない。それに、いちいち視えないことを主張しなくてもいい。嫌味か。
鳴海は深く溜息をつき、脱力した。
店も始めていないのに、のっけからこうだとやる気も失せてしまう。
「この人でなし……」
「頭を叩いた罰だな……ん? 誰かこっちに来るな」
その言葉に、鳴海は背後を振り返った。
林の向こうから紺の着物を来た男が風に吹かれるようにやって来るのが見えた。
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