弐・仁科仁、才子才に倒れる
笑う三日月の正体とは。
とにかく月が出てきたという場所へと一旦、道を戻ると仁科は言い張った。
「やぁだぁよ……もう一歩も動くもんか」
「あぁ、そう。だったらそこで野垂れ死んでおけばいい」
仁科はとかく冷たい。さっさと前を歩いて行ってしまう。
だが、こうも苛々とした言動は、感情に伝播する。鳴海も眉を顰めて、その背を睨んだ。
「……あたしがいなきゃ、お前、なんにも視えないくせして。偉そうに」
そっと呟く。
「あぁ? 今なんて言った、登志世」
とんだ地獄耳だった。
慌てて繕うように、鳴海は両手を振る。仁科はじっとこちらを睨みつけ、戻ってきた。
「まぁいい。今は喧嘩してる場合じゃないしな……いいから、大人しく言うこと聞け」
そうして、彼は鳴海の首根っこを引っつかんだ。そのままズルズルと引きずる。
あまりの横暴さに、鳴海は情けない声を上げた。
「わーったよ。もう! ちゃんと歩くから!」
「始めっからそうすりゃいいんだよ、馬鹿が」
「煩いよ、この人でなし!」
口喧嘩は絶えない。そのせいか妖や小妖怪は怯えて身を潜めていたようだ。月も雲に隠れてしまった。夜の畦道は灯りなしでは確かに頼りない。
鳴海は口を動かすのも面倒になり、黙り込むと袖の中に忍ばせていたマッチの箱を出した。
「おや。新しいものが大嫌いなお前さんが、よくもそんなものを持っていたなぁ」
どうやら、相手を苛立たせるのが仕事らしい。この男は。
鳴海はその手には乗るまいと仁科を無視して提灯に明かりを灯した。
今から藪の多い場所へ入る。妖が潜んでいるやもしれぬところへわざわざ入り込むのだから、月だけに頼るわけにはいかない。
マッチは、岩蕗邸から失敬したものだ。
確かに、新しいものは好かないのだが、火打石だの炭だのを持ち歩くのは邪魔くさい。それに、陽が落ちてもまだ目的に辿り着かないのだから、この判断は間違っていなかっただろう。
「――よぉ、登志世よ」
静かな鳴海に、仁科が軽薄に声をかける。うんざりと鳴海は口を開いた。
「……返事しないからな」
「いや、あのな、さっきのおじちゃんが言ってた『月』なんだが」
「はぁ」
紙に垂らした墨のような、ぼやけた雲を見上げながら二人は道を戻る。ただただ戻る。せっかく歩いたのに、逆戻りとはなんともやるせない。親指と人差し指にくい込んだ鼻緒をちぎってしまいたくなる。
そうして顔を顰めていると、仁科が真面目な声で言った。
「僕は月そのものが妖、とは思えないんだ。狸か狐か、その辺りなんじゃないかと踏んでるんだが。お前はどう思う?」
「はぁ?」
思わず声を上げてしまった。それに驚いた仁科が目を丸くさせる。
「いや、だってあんた、そんなこと一度だってあたしに聞こうなんてなかったじゃないか」
仁科と言えば、他人の話など興味もないから、いつも一人で突っ走る。己の力を過信し、他を撥ね退け、師である岩蕗でさえも捩じ伏せるべく、大喧嘩の末の大見得切って見知らぬ土地へ飛び出したのだから。そんな男が、一体全体どういう風の吹き回しか。
怪訝に見ていると、仁科は不機嫌に鼻を鳴らした。
「……認めたくないけどな、今の僕じゃなんにも視えないからしょうがないだろう。察しろよ、それくらい」
まったく、頭が悪いなぁ、とまたもや一言余計に仁科は横でぶつくさ言う。
――ただの高慢ちきだと思っていたけれど、一応はその気概があるわけね。
不貞腐れた子供の相手をするようで、思わず鳴海は吹き出しかけたが堪えて咳払いした。
「そうだねぇ……山犬とか狼じゃないか? 狸や狐じゃ、人を殺めようなんざ出来っこないよ」
「狼……」
たちまち、仁科の眉間が険しくなる。その静かにも嫌悪の混じった声に、鳴海は口をつぐんだ。
狼はまだ禁句だったか。つい口を滑らせたことに後悔しながら、鳴海は苦笑を浮かべた。
「まぁ、なんにせよ、獣ならあんたの目にも映るだろう。それならやり合うのも造作無いってことよ」
「そうだな」
すっ、と負の気を消し去り、仁科は欠伸を漏らした。
「あーあ。しかし、一向に出てこないなぁ、月」
何やら焦がれるような言い方だ。待ち侘びるような仁科の物言いに、鳴海は溜息を吐いた。
だが、しかしその通りだ。
せっかく歩いた道を戻っているのだから、隣町に着く前にはその正体を現してくれないと、履き古した草履が無駄になる。替えがないのだから尚更だ。
幾度目かの溜息が落ちていく。そろそろ引き返してもいいのではないか。
あの男が行き逢ったにしろ、こちらが出向いたとて遭えるかどうかも分からない――
「ん?」
それはほぼ同時だった。二人は立ち止まり、空を睨む。
緩やかに流れる雲。そこから光が漏れ出てきた。やがて、雲に隠れた月が顔を覗かせると、白い畦道が闇から浮かび上がった。
「また一等明るいなあ、三日月のくせに。そして、上弦だ。まるで……」
口のようだ、と。仁科が言うまでもなく、鳴海もそう思った。
そう視えた。上弦の月が揺らめいて二重になるまでは。鳴海は目を瞬かせた。
「仁。あんた、あれが月に視えるかい?」
宙に目が釘付けのまま、鳴海が問う。察しがいい仁科は、すぐさま目の色を変えた。
「……何が視える」
「分からない。月、なんだろうけれど……違う、と思う」
どうにも説くのが難しい。だが、月ではないとだけ断言できる。
金の光を放つそれは端が横へと伸びた。ゆらゆらと小舟のように空を漂い、やがて輝度を増していく。
鳴海だけでなく、それは仁科の目をも眩ませたようで、二人は同時に腕を翳した。両瞼を薄く開いたままで、光の行方を追う。
それはするすると降りてくると、小刻みに震えた。まるで唇を震わせ笑うかのように。
「ひっ……」
それを直視してしまえば、短い悲鳴が漏れてしまう。鳴海は足が竦み、棒立ちになった。その腕を思い切り仁科が引っ張る。
「何を怯えてるんだ、しっかりしろ登志世。下がれ」
言われるままに鳴海は仁科の背に隠れた。それでも月の輝きからは逃れられない。
「登志世。僕の目が正しければ、今、目の前に大きな口がある。そいつは今、こっちを睨んでいる。違うか?」
――睨んでいる?
「あ、あぁ……でも、仁、どうするっていうんだよ」
仁科の静けさが異様にも思えるが、今はそんなことに気を割く暇はなかった。異形を目の前に、思考は鈍くなってしまう。すると、仁科は鼻で笑い飛ばした。
「馬鹿か、お前。何を寝ぼけたこと言ってる。倒すに決まってるだろう」
そう言って、彼は淡い黄金色を目も細めずに真っ向から睨んだ。
一方、月を模したそれは戦慄きながらゆるりと不規則に飛ぶ。あちらこちらと、光の残像に目が追いつけない。
だが、それは確かにこちらへと覆いかぶさるように光を放った。あまりの眩しさに目も開けていられない。
鳴海が瞑ったと同時に、仁科もまた包帯を巻いた腕で顔を覆った。
「……っ、くっ」
耳の中を微かに、呻きが通った。それが仁科のものだとすぐに気がついた鳴海は薄く目を開けた。
その時。
《――アアアアアアアッ……》
地を震わす甲高い叫びが二人の耳をつんざいた。同時に光が弱まっていく。
叫びは唐突に鳴り、唐突に止んだ。しん、と鎮まれば、まだ余韻の残る鼓膜に、今度は地に滴る何かの音が届いてくる。
鳴海はようやく金縛りが解けたように息を吐いた。
「仁……」
彼は左腕を抑えながら、ニヤリと笑ってみせた。
「ったく、あの月、獣の類じゃあないらしい」
読みを外したことに、負け惜しみをこぼす仁科。怪我の具合がよくないらしく、その包帯は黒々と染まっていた。
「あの月、今はどこかに隠れたようだよ……でも、必ずまた来る」
「あぁ……しかし、仁。あれは結局なんだったんだろう。月の妖、とか?」
腕の様子を見やりながら鳴海が言う。それを見せまいと腕を隠す仁科は眉を寄せて唸った。
「まさか。僕だって月の妖なんて聞いたことない。あれの正体が分かりゃ、対策は出来るんだけれど」
「どうして妖だって断言できるのさ」
訊くと、仁科は溜息を吐いた。
「お前、あの光で頭までやられたか」
辛辣な言葉に鳴海は「はぁ?」と声を上げた。しかし、すぐに口を閉じる。仁科が血の滴る腕を目の前に向けてきたからだ。
「こいつを噛んだ途端、僕の血にあてられて光が弱まった。そして、すぐに離れた。これは獣じゃない。妖だけがこういった反応をする。それはお前もよく分かっているはず、だろう?」
「……」
そうだった。仁科の血は何故か、妖にとっては毒。
よく知っていたはずなのに、すぐに思い至らなかったことに悔しくなる。あの月に動揺していたから、思考が鈍っていたのだが……それにしてもだ。
鳴海はバツの悪い顔をさせて俯いた。何も言わなくなった相棒に、仁科は鼻を鳴らすだけ。腕を抑えながら道の向こうを睨んだ。
月の正体は未だ分からず。
妖の類であることは判ったが、あれこそが本来の姿形であるのか。はたまた別の姿があるのか。
そもそも、あれは三日月などではなく、口ではないのか。ただの口。光を放つ口。腕に噛みつき、いくらやわな皮とは言え、血を吹かせるほどに強い、まるで獰猛な獣のような口……
「あれ?」
声を上げたのは鳴海だった。
「なんだよ、登志世」
「登志世じゃないって言ってるだろ。おい、仁。あたしは馬鹿だからさ、もひとつ分からないことがあるんだけれど」
鳴海は口角を引きつらせるような苦笑を見せてやった。対し、仁科は怪訝そうに「何が」と返す。
「どうして、あの月……いや、口は目玉がないのに的確に狙えるんだろうってね」
「それは、あれが……」
言いかけて、彼の声は闇に溶けた。目を開かせる。
「成る程。あれになった大元が、正体ということか」
「あぁ。妖だろうと、めくらで鼻もなけりゃ、追うことも狙いをつけることも出来んだろう。いや、あたしがまだ遭っていないだけかもしれないけれど、どうにもその辺りが分からなくてね」
鳴海の言葉に、仁科は顎に手を当てて考え込む。やがて、その口元が横に伸びていった。
「たまには役に立つな、お前も」
「そいつは余計だよ」
しかし、聞いちゃいない仁科は嬉しそうに頷いている。
「なぁ、登志世……すっかり忘れていたが、あのおじちゃんが言っていた話、覚えてるか」
何を思い当たったか、彼は突然に言い始める。鳴海は「うーん」と腕を組んで思い出した。
「この辺で起きる怪異とやらか。確か、月明かりの晩に女の人が獣か妖に殺されたってやつ……」
「そう。僕はあのおじちゃんと同じく、女を襲った妖と見てた。でも、女が死んでから怪異が起こり始めたと言っていた。と、なればだ」
仁科は言葉を切った。
鳴海は続きを待つように固唾を飲む。
――そうだ。女が死んでから始まった怪異……つまり、
「その死んだ女が怪異になった、と見ても間違いじゃあないのかもしれない」
突拍子もない、ただの想像だ。しかし、頭の隅に置いていてもなんら害はなかろう。
「思えば、あの叫びも女みたく、金切り声に聞こえた」
「言われてみれば……まあ」
頷ける。だが、真であるかは判らない。鳴海は曖昧に笑い、首を捻った。そんな相棒を頼りなげに仁科が見る。
「さて、登志世」
「鳴海」
「……ナルミ。僕はあの妖を探しに行こうと思うんだけれど」
何を言い出すかと思えば。しかし、ここまでくると怪異の真相を知りたい。
ふと、見上げると雲の横で切り込みのような黄金があった。その柔らかな色は、消えてしまいそうに脆い。
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