参・宵月に映す面影

 ――昔、ここいらで若い娘が一人、死んでいたんだ。

 こう月明かりの眩しい夜道を歩いていたら、後ろから大口の獣か妖かに襲われて……首を掻っ切られて死んでいたらしい。

 それから、こうした夜道には女の悪霊が出るとか、妖に遭うとか、とにかく怪奇が起こるようになって。この辺の者は、夜になれば滅多に外へは出ないんだ。

 もしかすると、女を殺した妖かもしれん……


 ***


 傷口をしっかり包帯で縛り直した仁科は、思案げに深く唸っていた。

 辺りは濃い群青のまま。本物の月は道を照らすには頼りなく弱々しい。藪へ入ってしまえば、あの眩い怪異ですら恋しくなってしまう。

 鳴海は提灯の灯りを絶やさぬよう気をつけて、仁科の背を追った。

「おい、登志世。お前が探さないと分からないじゃないか。なんでそう後ろをひっつく」

 ふいに声をかけられ、思わず肩が上がってしまう。

「いや、だって……ほら、ねぇ、なんでだろうね。つい、癖で」

「はぁ……」

 最早、溜息で返される始末だ。

 まったく、どうしてこうも威張っているのだろう、この男は。付き合いは長くなるが、この不遜な姿勢が年々酷くなっている気がした。

 もし、無事に吹山村やらへと辿り着き、店を構えたにしても仁科がこうでは先が思いやられる。大体、店をやろうなんて、どうして思い立ったのかも分からない。わけを聞いてもはぐらかされるので、追求はとうに諦めていたが……言いたいことを押し込めるも、もやもやはどんどん膨らむばかりだった。

「おい、コラ、登志世。聞いてるのか」

 唐突に仁科が額を弾いてきた。頭の奥までを突き刺すような痛みに、思わずその場で蹲る。

「おおおお……お前、何しやがる……」

「聞いてないからだろう」

「……聞いてるよ。声かけりゃ済むことじゃないか……痛いなぁ、もう」

 頭を押さえて呻くも、仁科はどこ吹く風。一瞥して前へ向き直る。

「僕の目が正しければ」

「待て待て。こちとら額がまだ痛むんだ。お前のせいで」

「僕の目が正しければ、そこら中に血が落ちてるんだが、お前にも視えているのか」

 強引に話を進める仁科は、鳴海の様子など気にかけてもいなかった。

 渋々、額の痛みを和らげようと揉みながら鳴海は顔を上げる。灯りを向けて、見回すと確かに赤黒い染みのようなものが草木に付着していた。それは点となって歩先の向こう側にも続いている。

「……あぁ、うん。あんたの目は正しいよ」

「そうか。じゃあ、この先に隠れていそうだな、ヤツは」

 仁科は地面についた赤黒い染みを触った。

「それ、妖のやつかな」

 こわごわ訊いてみる。すると、仁科は鼻で笑った。

「まさか。こいつは僕の血だ。毒にやられてのたうち回っていた跡だ。よし、ヤツが死ぬ前にさっさと片を付けるぞ」

 この期に及んで更にとどめを刺そうと言うらしい。鳴海は呆れて肩を落とした。


 血の導は段々と薄くなっていく。

 仁科を先頭に、その後ろを鳴海が歩くというのは変わらずだが、一方が黙り込んでしまえば話しかけることもなく、至って静かなものだった。

 鳴海は辺り一帯に耳をそばだてていた。藪を掻き分ける音しか今はないが、何か異音を拾うことがあるやもしれない。そう信じていると、またもや唐突に仁科が立ち止まった。

「おっと、今度は鼻をぶつけるとこだった……仁、急に立ち止まるんじゃないよ」

 小言を言うと、彼はくるりと振り返った。眼鏡の奥にある冷たい目は、いつになく覇気がない。かと言って、穏やかでもない。無感情、といった方が正しいか。複雑な顔色をしている。

 そうして黙ったままの彼は、訝る鳴海を前に突き出した。

 視界に広がるのは、やはり濃い群青。

 しかし、それは波打っており、墨を流し込んだようで、それは小さな溜池だった。中心には、細く脆い三日月が反射して揺らめいている。さらさらと風に煽られ、水面が逆立つとその度に、とぷりと波が音を立てる。あらゆる音がその溜池の中でせめぎ合っていた。

「……行き止まりだ」

 仁科は歯がゆそうに吐き捨てた。

「戻ろう」

「いや、ちょっと……」

 鳴海は仁科の袖を掴んだ。口元に人差し指を当て、それを彼に見せると、感づいたのか素直に従ってくれる。

 溜池の波打つ音に紛れる何かの音が、鳴海の鼓膜には届いていた。

 とぷり、とぷり、ゆったりとざわつく音に合わせて、別の何かが混ざっている。それは衣擦れのようでもあったし洟をすするようでもある。嗚咽のようでもある。

 音はどこから聴こえるのか。姿もどこかにあるはずだ……と、それを探すために思わず歩を先へと進めた。

 水際でしゃがむ。その後ろで息を潜めるように立っていた仁科も池を覗き込んだ。

「――何か、視えるか」

 仁科もゆっくりと背後から池を覗く。彼の目には何もうつしていないのだろう。その虚ろな目から逃げると、鳴海は水面を突いた。

「あぁ……ここにいる。女の人がね、泣いてるんだ」

 それは、水面に隠れて肩を震わせて嘆く同年の娘に見えた。あの凶暴な月とはかけ離れた脆く儚げな姿。何がそんなに悲しいのか、さめざめと涙を流す姿には目を伏せてしまう。

 そんな鳴海とは裏腹に、仁科は眉を顰めていた。おもむろに縛っていた包帯を解くと、傷が顕わになった腕を水面に近づけた。

「待ちなよ、お前、何をする気さ」

 思わず止めると、彼は煩そうに顔を歪めた。

「お前こそ何してる。そこに妖が居るんだろう。だったら……」

「泣いてるんだよ、この人。それなのに」

「情なんかかけるな」

 その声は厳しく、どこにも感情が見当たらない。仁科の冷たい目にあてられて、鳴海は返す言葉が見つからない。

 しかし、彼の腕は掴んだままで離しはしなかった。

「……分かった。もう好きにしろよ」

 仁科はその場にどっかりと座り込むと、頬杖をついて不機嫌顕わに背を向けた。

 それを横目で見やってから、鳴海は一息吐いた。水面に声をかけてみる。

「もし、聴こえる? あんた、一体どうして泣いているの」

 訊くと、彼女は手のひらで覆っていた顔をちらりと上げた。青白くふやけた大きな目が現れる。

 鳴海は僅かに怯んだが、息を整えてもう一度水面を覗く。

 すると、女は水面に顔を押し付けてこちらを睨んでいた。ぎろりと目玉を這わせこちらをじっと睨むと手を伸ばした。だが、水面より上には出てこられず、まるで硝子越しに見ているよう。

 そんな中、鳴海は彼女の喉元にある傷に気がついた。その形は、

「もしかして、あの話……襲われた娘ってのはあんたなのかい」

 月に行き逢った男が言っていた話を思い出す。

 彼女はその時に死んだ者。そして、怪異となった妖。仁科の見立ても間違いではなかったらしい。

《つ、き……》

 水面が震える。

《ツ……っ、が、デ……ィぃ、ィ――》

 彼女の口の動きに合わせ、水面は泡立っていく。鳴海はもう少し耳を傾けようと顔を覗かせた。

《月、ヨに……っ、――え、な、……か……》

「月夜にしか会えない?」

 聴こえた通りに口走る。すると、傍らで静観していた仁科も小さく呟く。

「月夜に、しか……」

 水面から目を離し、振り向く。彼は頬杖をついたまま、目線だけこちらに向けている。

 その姿が、どうしてだろう、彼の顔がぐるりと傾いて逆さまになっていく。

 次に、鳴海が感じたのは肌にまとわりつく、暗い冷たさだった。

「登志世!」

 上から仁科が声を上げるも、気がつけば池の中。

 溜池は予想外に深く、足がつかない。水泡を蹴ると、暗い水底で女が悲しげに見上げていた。引き寄せるように、細い腕を揺らめかせている。

《やっと、あの人に会えたと思ったのに……》

 女の口から溢れる水泡が音を運ぶ。それが耳に届いたかと思えば、腕が上に引っ張られた。

「登志世、上がってこい!」

 上から聴こえる仁科の声。それに応じるように、鳴海はまた水を蹴った。女の顔が底へ沈んでいく。そして、段々と見えなくなって……


 水面からようやく顔を出した鳴海は、飲んだ水を吐き出しながら陸へ上がった。仁科に引き上げてもらい、地の暖かさに触れる。

「……だから、言ったろう」

 息もつけない時に仁科は冷たく言い放った。

 そんな厳しい目を向けられると、詫びも感謝もどちらの言葉も上手く思い浮かばない。かと言って、怒る気にも到底なれず、ともかく放心したままだった。ただただ情けなく噎せるだけ。

「次はないからな」

 怒る気になれないのはどうやら向こうもだったらしく、彼はまたその場で座り込んだ。

「……あ、あのさ、仁」

 いつまでも黙っておくわけにはいかない。己の目で見、耳で聴いたそれを伝えなくてはいけない。

 水の冷たさに震えながら、仁科と向かい合う。

「あのひと、言ってたよ……《やっと、あの人に会えたと思ったのに》って」

「それがどうした。それだけだろう。他に何を話したっていうんだ。女を殺したヤツの名でも吐いたか? そうじゃないんだろう?」

 仁科は苛辣にまくし立てる。確かに女はそれだけしか言っていないのだから、反論の余地はない。しかし、何か引っかかる。

 ――殺したヤツの名?

「いいか、登志世。お前が視た女は、誰かに殺されたんだ。そして妖になった。お前が聴いたという言葉から、月夜にしか会えない誰かを待っていて殺されたと大凡の考えはつく。だが、そいつの名が分からない以上は……」

 ふいに、彼の口が止まった。そして、頭を掻きながら思案に暮れる。なんだろう。彼の異様さに鳴海は怪訝に黙っておく。

「――傷は?」

 今度は唐突に訊いてくる。鳴海は眉を顰めて、首を傾げた。

「傷だよ、傷。その女は首を掻っ切られていたと言っていたろう。どこにあった」

「あぁ……この辺り、かな」

 急かされ、すぐに鳴海は自分の喉を指した。それを見るなり、仁科は立ち上がる。そして、溜池の暗い水底を見据えるように、じっと見ていた。だが、すぐに頭を振ると、鼻に引っ掛けていた眼鏡を外して握りしめた。

「――あぁ、もう。焦れったいな。視えないってのは」

 ぽつり、と吐き出されたその声に、応えることなど出来やしない。

 仁科は静かにしゃがみ込むと、左腕に巻いた包帯を解いた。そして、まだ癒えぬ傷から掬い取った血を水面に垂らす。

 未だに嘆き悲しむ嗚咽が波に紛れていたが、じきに途絶えてしまった。


 ***


 藪を抜けると、空は群青から紫へと姿を変えていた。

「うわぁ……もう夜が明けるのか……どうりで体が重たいわけだよ」

 鳴海はげんなりしながら道端に這い出て空を仰いだ。その前を仁科が仏頂面で行き、目的の方向を眺める。

「さて、登志世」

「鳴海だって言ってるだろう。何度言や覚えるんだよ、あんたは」

 すかさず遮ると、仁科は面食らったようにこちらを振り向いた。そして渋々といった様子で元に直る。

「……鳴海、休んでいる暇はないぞ」

 そう言うなり、彼は先へ進んで行ってしまう。それを追いかけながら鳴海は、水に濡れた寒気のせいでくしゃみを一つ、夜明けの空に大きく放った。


 空が白んできた頃、ようやく小さな集落が見えてきた。点々とあちこちに建った家々。早起きの村民は田畑で仕事を始めていた。

 その中を探るように視線を這わせていた仁科は、広がる畑の一角で土を耕す男の前で立ち止まった。

「ありゃ、なんだお前さんらか。いや、昨夜は助かったよ。すまんかったな」

 月に追われていた男。いくらか歳を食ってはいるものの、整った面長の顔に泥は似合わないように見えた。

 昨夜を思い返せば、彼は幾らか上等な着物をまとっていたはずだ。てっきり商人だろうと踏んでいたのだがまさか農家だったとは。

 鳴海は怪訝にも会釈だけしておいた。一方、仁科は口をつぐんだまま一歩、男の前に出る。

「あの月の正体、分かったのかい?」

 異様に黙りこくった少年を、何の疑いもせずに男は明朗に訊く。すると、ようやく仁科は口を開いた。

「……あぁ。あんたが昔に殺した女なら、先刻に会ってきたばかりだ」

 瞬間、男の顔から表情が消えた。それを仁科も鳴海も見逃さない。そんな少年二人の視線に男は挙動不審な動きを見せる。

「な、何をデタラメ……」

「やっと会えたのに、ってあの女は言っていたけれど。あんたじゃないのか? だったら、どうして女の首が掻っ切られていると言ったんだろう……後ろから襲われたのなら首じゃなくて背か項じゃないか」

 言い訳の隙は与えない。厳しく、蔑んだ口調で責め立てられれば、男の目はぐるぐると泳ぐ。ここまでくると、それが真実なのだと白状しているものだ。

 鳴海は目を伏せた。すっかり血の気が失せてしまった男も、仁科も黙り込む。

 そんな重苦しい中、遠くで「父さーん」と幼気な子供が駆け寄ってくるのが見えた。咄嗟に鳴海は仁科の袖を引っ張る。

「あと、一つだけ」

 鳴海の手を払い除け、仁科は子供をちらと見やりながら男に囁きかける。

「次、あの三日月に見つかれば……二度と帰っては来られなくなる。せいぜい気をつけろ」

 仁科は口角を上げ、ニヤリと笑って見せた。不気味さに、男はふらりとよろめく。

 それを一瞥し、もう振り返ることなく二人は道の先を進んだ。


「ああいうやり方は、なんだか嫌だ」

 遠ざかった後に、鳴海が呟きをぽつりと仁科の背に投げる。

「あいつがどうしようもない悪党だってのは分かるよ。逢引きの相手かなんだか知らないけれど、要はあの女を殺さなくちゃいけなかったわけだし。でも……」

 嘘も方便とはよく言ったものだ。あれで懲らしめた、と言えばそうなるのだろうが。

 あの月に焦がれた哀れな女は、どうなのだろう。悲しみに暮れて、溺れて、それでも待ち続けたあの女は。

 ――あぁ、これだから駄目なのか。

 仁科にだけでなく、実は岩蕗にも言われていた言葉が脳裏に蘇る。

『情をかけるな』

 それが今、段々と身に沁みてきたように思え、鳴海はもう口を閉ざした。

「なぁ、登志世」

 仁科が空を見上げながら言う。

「月は月でも、甘い言葉で拐かして、誘いこんで、裏切ってしまう。どんな月だと思う?」

「何を急に」

 唐突な問い。その真意が見えず、困惑のせいか頭の回転は鈍っていく。仁科は眉を上げた。

「ただのなぞなぞだ。まったく、これしきのことも分からないのか、お前は」

「はぁ? なんなんだよ、訳が分からん」

 横柄な言動には素直に腹が立つ。鳴海は小石を蹴って、その憂さを晴らしてやった。その石が仁科の踵に見事命中する。しかし、彼は怒りはしなかった。

 薄紫が広がる空を見上げて、欠伸を浮かべている。つまらなさそうに。

「答え、分かったか」

「考えてないんだから分かるもんか」

 不貞腐れてみると、仁科はようやく愉快そうに笑った。そして、上空を指し示す。

「月は月でも、甘い言葉で拐かして、裏切る……そいつは嘘つきって言うんだよ」

「………」

 言われてみれば。しかし、これにはどうも上手く笑えない。

「くだらん洒落だね」

 白む空に、あの脆い三日月が形を残せるはずもなく、夜明けの光に飲み込まれていく。どんなに探しても、あの月はどこにも見当たらなかった。



《欠月、了》

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