外伝其ノ一 欠月~ミカヅキ~

壱・初心忘るべからず

 新月の宵。

 群青の空に鋭い切り込みが入ったように見えるのは月だ。細く華奢なそれが、雲間から姿を覗かせて夜道を照らし出す。

 鮮やかに輝度の高い、それでも繊細な光。見上げた男は目を細めた。

「今宵の月はやけに明るい……」

 道を導くには充分すぎる明かり。感謝するとともに、僅かな怯えをその身に感じていた。

 月というのは後を追ってくるものだ。すっかり帰りが遅くなった彼は、足早に進んだ。


 しばらく歩けども、一向に家には着かない。

 やはり、隣町まで繰り出したのは間違いだったのだ。わざわざ足を運ぶほどでもなかったのに、と独り言ちる。

 月明かりを頼りに、歩を進める。歩く、歩く。ひたすらに。気づかぬうちに足は速くなっている。

 何故だろう。気が逸るのは、言いようのない恐怖だった。先程より、なんだか背後から光を当てられているように思えるのだ。

 前方に伸びた細長い、自身の影がそう物語っており、男はちらりと背後を見やった。

 やはり、光を当てられている。月明かりにしては強すぎるような。眩しさに両目を瞬かせ、訝しく光の先を見ようと目を凝らす。

「……っ!」

 すぐに瞠った。

 空に浮かぶ細いが、

 それが徐々に膨らみを帯びて……いや、違う。月だと思っていたものは、そもそもが月などではなかった。

 それは、目の前で姿を変えていく。

 まるで三日月のようだが、獰猛な獣の目にも見える。あるいは、にやりと笑う口のようでもあった。


 ***


 旅の道中、何かと厄介ごとは付き物ではある。

 特に、夜道。街灯などないただの畦道では提灯の灯りでさえ足元がおぼつかないというのに。

 一体どうして、日も暮れた刻に歩かなければならぬのだろう。草履の鼻緒が千切れてしまいそうだ。

 気が滅入る一方で、幾度目かの溜息を溢した榛原はいばら鳴海なるみは、肩にくくっていた荷物を地面に落とした。

「あらら? どうした、登志世としよ。まだ、村へは着かないというのに」

 前を歩く、しなやかな猫っ毛がくるりと振り返るのは、怪訝そうな目を眼鏡の奥に隠した仁科仁。

 言葉や声には心配そうな響きを乗せているが、表情までは気が回らなかったのだろう。軽薄な笑みを浮かべている。

「煩いよ。もうくたくたなの、あたしは。はぁー、嫌だ。歩きたくない。籠が欲しい」

「おおっと、とんだ我儘を言いなさる。ったく、目を離したらすぐこれだ。いい加減にその甘っちょろい考えは捨てた方が身の為だぞ。でなきゃ、この先やってけない」

 ――そんなこと、とうの昔に分かってんだよ。

 しかし、今はもう言い返す気力がない。

 散々、歩き回っても一向にたどり着かないのだから、そろそろ根を上げてもいいはずだ。

 鳴海は顔を顰めて蹲った。

「おい、登志世。ったく、しようのないヤツだ……お前、いい加減にしろよ」

「いい加減にしてほしいのはこっちの方さね。もういいよ、置いていきなよ。あたしなんか、妖に食われっちまえばいいんだ」

 怒っているのかしおらしいのか分からない、そんな相棒に呆れるように仁科は舌打ちした。

 しかし、鳴海自身もそうだった。疲れのせいで情緒が安定しない。それに、周囲を飛び交う虫が異形に見えて仕方ないから、その度にぎょっと目を見張ってしまう。

 蹲った鳴海を見下ろすように、仁科が「おい」と声をかけた。

「おぶってやるなんて、出来っこないからな。でもまぁ、仕方ない……今日はもうこの辺で休むとしようか」

「それがいいね。宿なんて贅沢言わないから、せめてお布団で寝たいところ」

「……生憎、地面しかないんだけれど。そこは我慢しとくれよ」

「なんだよ。この人でなし」

 鳴海の戯言にほとほと愛想が尽きたのか、仁科は次に深い溜息を吐き出した。

 しかし、さすがに道端で野宿というのは危険極まりない。

 岩蕗にも散々言われてきたが、夜の世界は妖が棲まう。

 仁科の目が奪われてから、互いにその影に怯えていたのは割と最近までであり、今はただ警戒を張り巡らせているだけ。

 そんな中で、鳴海ときたらただ疲れにかまけて身動きすら拒んでいる。

 どうしたものか。これには互いに頭を悩ます。

「幸い、今夜は月が明るい。妖は明かりが苦手だから、まぁ少しくらい助けにはなるかな。おい、登志世。勝手に寝るな。いくらなんでも危機感がなさすぎ……る」

 瞬間、その小言は遮られた。

 道の向こう側から、恐怖に駆られた男の悲鳴が響いてきたからだ。これには鳴海も驚いて肩を震わせる。

「ね、寝てないからな!」

「いや、もうそれはどうでもいい。この悲鳴は何?」

「あぁー……うぅん? 妖、ではない、か」

「ふうん」

 仁科はすぐに警戒を解いた。しかし、悲鳴は一向に止まない。寧ろ、どんどんこちらへ近づいてくる。

 それは、取り乱した男のものだった。引きつけでも起こしたのではないかと危ぶまれるほどに状態の悪い悲鳴。

 仁科はじっと、耳を澄ましていた。鳴海もあちらこちらへ視線を這わす。

 すると、間もなくしてその悲鳴の主が道の奥から姿を表した。着物がはだけ、髪もぼさぼさ。顔を醜く歪ませてこちらへ駆ける。二人の姿を認めるなり、彼は息を吐き散らしながら叫んだ。

「助けてくれ!」

 そう、はっきりと言った。懇願するようでもあった。

「ええと……一体、何があったんだ、おじちゃん」

 問うのは怪訝そうに、いや不審そうに眉を釣り上げる仁科。無愛想な面を見せるが、男はすっかり怯えきっていて大した話は聞けそうにない。

 仁科は背後に隠れた鳴海へと目を向けた。

「おい、登志世。お前、何か視えるか」

 不躾に言う。その態度が気に食わない鳴海は顔を顰めた。

「あのさぁ、そう登志世、登志世って言わんでくれるかね。こないだ名を変えたってちゃあんと言っておいたじゃないの。鳴海だよ。よーっく覚えときな」

「はいはい、で、ナルミ。どうなんだ」

 耳の穴を掻きながら訊く仁科。

 鳴海は嫌そうにも、仁科の背から顔を覗かせてじっと男を見やった。

 しかし、

「うーん……いんや、なんもついとらんよ」

「ふうむ。そうかぁ……おい、おじちゃん。なんか、獣かに追われでもしたんじゃないのか」

 仁科は溜息を吹きかけるように男に言う。すると、怯えきった男は口から泡を吹かせながら怒鳴った。

「そんなわけあるか! あれが、あれが獣だって! そんなことはない!」

「そんじゃ、なんだって言うんだ。ちゃあんと理由を話せ」

 ほら、と手のひらで促す仁科。

 そんな少年の態度に、男は僅かに冷静さを取り戻したようで口元を拭った。目は血走ったままだが。

「……だ」

「月ぃ?」

 仁科と鳴海は揃って素っ頓狂な声を上げた。

 間を空けて言うものだから何か禍々しく恐ろしいものかと構えていたのに。これには鳴海でさえ眉を顰め、呆れを見せた。

「月って、あんた、月は追うものじゃないか。何をとんちんかんなこと言って……」

「いや! 違う! 違うんだよ……三日月みてぇなものだったが、それがふわーっと舞い降りてきて、それで」

 男は両の手を重ね合わせた。それをパカッと開く。まるで、大きな口のように。

「こうやって開かせたんだよ。月が、口を開けたように……笑って……」

 しかし、言いながらも彼は段々と口調に力がなくなっていった。自分でも何を言っているのか分からなくなったのか。急にしどろもどろと落ち着かなくなる。

 二人は顔を見合わせた。

 男の言っていることは、どうにも奇妙。不可思議なことであり、常人ならば「馬鹿言うな」と笑い飛ばすのだろうが。

 しかし、妖なる存在を知る仁科と鳴海にとっては捨て置けない話。二人は真剣に唸った。

「月が、笑うって、どんな状況だ」

「さぁ……あたしにゃ、さっぱりさね」

 見当はつかないが、不気味な話ではあるし馬鹿には出来ない。

「――おい、おじちゃん」

 今やへたりと座り込んでしまった男と同じ視線まで屈む仁科。ニヤリと小賢しく、口元を緩めて言った。

「その月はどこに出たんだ。僕らにもちょっと話してくれないか」


 ***


 曰く、男は隣町へ用事で出かけていたが、すっかり陽が暮れてしまっていて夜道を歩いていたという。

 ただ歩いていただけだった。しかし、このザラリとした白砂の道はいわくつきで、なんでも夜は妖がぬらりと現れるという。

「おっと、そんな気配あったか、登志世」

「だぁかぁら、登志世と呼ぶなって……いんや、でも、そんな禍々しい気やら妖やらは見なかったかな。虫が多いだけで」

 三人は道の真ん中で座り込み、輪になっていた。

 件の三日月は空に浮かび、雲を散らして光を放っている。その光に当たらないよう、男は息を潜めていたがその理由が未だに解せない。

「で、その妖とかいわくつきってのはなんなんだ? 怪談ってやつ?」

「そうだな……この辺では昔から言い伝えられてるんだが。なんだ、お前さんら、他所の者だったのか」

 落ち着きを取り戻したらしく、男は目を丸くさせて二人の少年を交互に見やった。鳴海は「今更かい」と苦笑を漏らすが、一方で仁科は険しく眉を寄せていた。

「いいから、その言い伝えってのを話してよ」

「せっかちなガキだなぁ……そう急くな。思い出すから」

 男の呆れた声に仁科は不機嫌に口を開きかけるが、それを鳴海が止めに入った。まったく、こう喧嘩っ早い性格はなかなか直ってくれない。

 ――こんなで店が出来るのかねぇ……。

 鳴海は欠伸を漏らしながら仁科をじっとりと睨んだ。

「あぁ、そうだ。そうそう。思い出した」

「うん、早く。ささっと、ぱぱっと言って」

 唸っていた男を素早く促す仁科。確かに仁科もせっかちだが、男も安穏としすぎやしないだろうか。

「昔、ここいらで若い娘が一人、死んでいたんだ」

 男の声音は低く、どこか怯えが混ざっている。つられて鳴海もごくりと喉を鳴らした。

「こう月明かりの眩しい夜道を歩いていたら、後ろから大口の獣か妖かに襲われて……首を掻っ切られて死んでいたらしい」

「ふうん。それで」

 恐ろしい話をも仁科は無表情で聞く。足の裏を掻きながら、というのがなんとも無愛想で緊張感がない。

「……それから、こうした夜道には女の悪霊が出るとか、妖に遭うとか、とにかく怪奇が起こるようになって。この辺の者は、夜になれば滅多に外へは出ないんだ」

「まぁ、夜はなかなか外への用事がないからな。出ることも特にないだろう」

 すかさず返すのはやはり仁科だ。今度は耳の奥に指を突っ込んで垢を引っ張り出している。

 さすがに男もこの態度にはカチンときたらしい。顔を顰めている。

 そんな様子を微塵も感じ取らない仁科は、垢を吹き飛ばすと静かに言った。

「おじちゃんは月に追われたって言ったな」

「あ、あぁ。そうだ。もしかすると、女を殺した妖かもしれん」

「妖かはともかく」

 仁科は膝を立てた。そして背伸びをするように立ち上がると、鳴海の頭を小突く。

「その月が出たって場所をちょっと見てくるからさ、おじちゃんはさっさと家に帰んな」

「え?」

 男が呆気に取られる。

「え……」

 鳴海が引きつった顔を上げる。

 仁科は男が辿ってきた道の向こう側を、じっと静かに見つめていた。

 細められた瞳は、ただのガラス玉のよう。何もうつしてはいない。


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