弐・こころ表す空模様

 ――あなたは何処いずこへ……

 降りしきる雨。吹き荒ぶ風。それでも、どんなに強い雨嵐にも耐え忍んだ。

 どんなに綻んでも欠かさず手入れをしてくれた。穴が空けば塞いでくれた。

 それなのに――あなたは、あなたは何処へ?


 ***


「先生? 仁科先生?」

 呼ばれて仁科はハッと我に返るように肩を上げた。触れた傘から手を引く。

「どうされたんですか?」

 何か良からぬことでも起きたのではないか。真文は不審と不安を顔に浮かべ、彼の顔を覗きこむ。仁科は慌てたように視線を逸らすと、今度はきちんと傘を拾った。

「ええと……ああ、心配は無用ですよ。この傘は悪いものではない。ただ……」

 彼はわずかに言い淀んだ。ゆっくりと真文に、彩﨑に、鳴海に目を移す。

「ただ、この傘にはちょっとがあるようです」

 その顔は言葉にするには難しい。ともかく真文が感じ取れたものは哀と憂。

 ――あぁ、いつものあの微笑みだわ。


 彩﨑が帰った後、仁科はストーブをかまちに近づけてそこに座り込んだ。よほどストーブが気に入ったのか寒いだけかともかく暖を独り占めする。

 真文はストーブも気になるが古傘に心が傾いていた。

 それはきちんと折りたたまれ、仁科の膝に乗っている。彼はしきりに傘を擦るのだ。まるで慰めるように。

「……で? それは一体なんなんだ」

 鳴海も気になるようで、じっと傘を見ながら問いかけた。

「さてね。ともかくえらい別嬪べっぴんさんだけれども」

「ただの傘じゃあないのは分かった」

 仁科のとぼけた返しに鳴海は溜息を吐く。

 二人の会話がよく分からない真文は眉をひそめて首を傾げた。

「別嬪さん……でも、お世辞にも綺麗とは……」

「おや、真文さん、失礼ですよ。彼女は今とても傷つきやすいんですから、優しい言葉をかけて下さい」

 何故かピシャリと言われた。真文は思わず「済みません」と頭を下げる。しかし一体なんなのか。

 すると鳴海が煙草盆を引き寄せながら言った。

「ああ、分かった。その傘、付喪神つくもがみだね」

「その通り。傘の付喪神らしい」

 仁科は満足そうに笑った。まだ話についていけない真文は鳴海と仁科を交互に見ていた。

「付喪神とは長らく使われてきた道具が命を持ったもの。あるいは神が宿ったもの。真文さんは爛柯らんかの精に会っていますよね」

 すぐに思い当たった。夏に出会った碁石の精霊、知玄ちげん知白ちはくを。すると奥の部屋からそろっと顔を覗かせる目が四つ。視線に気づいた真文はそれと目が合うなり顔を綻ばせた。

 仁科も気がついたようで、にこりと笑顔を見せる。

「ああ、そこにいたのか」

 そう柔らかく言うと覗く目に手招きした。パタパタと白と黒の童が畳を駆けてくる。彼らは仁科の持つ傘をそろそろと突き始めた。

「彼らも付喪神のようなもの。私がられなくなったので仕舞っていたんですが……悪いことをしましたね」

 仁科はバツの悪い顔をさせ、知玄と知白の頭を撫でた。そのほんわかとした和やかな空気に真文はただただ感心してしまう。

「なんだかみたいですね、先生」

「ぶふっ」

 途端、煙管を吸っていた鳴海が傍らで吹き出す。

「お、お父さん……あはははっ、お父さんって……」

 鳴海は腹を抱えて笑った。その笑いようが面白く、真文までもつられて笑う。仁科は困ったように鼻を掻くだけ。

「もう、真文ったらやめとくれよ……この画を見る度に思い出しちまう……ふふふっ」

「やだ、そんなつもりは……ふっ、うふふふ」

「そろそろ落ち着いてくれませんか、二人とも」

 話の腰を折られて面白くないのか、仁科は不服そうに咳払いをした。それにより二人の笑いは収まったが顔はまだにやけている。

「この傘が何故、うちに転がってきたかはまだ分かりませんが……ただ、どうも持ち主に捨てられてしまったようなんです」

 すぐさま鳴海は「ああ」と納得の意を示す。

「そんなことだろうとは想像がつくね」

 既に笑みは引っ込んでいる。一方の真文は時が止まったように固まっていた。

「捨てられたんですか」

「えぇ、そのようで」

 やっとのことで出した言葉を仁科はあっさりとかわすように頷いてしまう。そして小首を傾げ、傘の様子を調べるように指の腹で撫でる。

「ずっと泣いているんです。これではまともに話が出来ない」

 素っ気なくも困惑するように仁科は言った。その傍らで真文は「捨てられた」と小さく復唱する。脳内でも反芻する。

 捨てられた。捨てられてしまった。それはなんと悲しい、辛いことだろう。

「泣いてるったってね……持ち主がいないんなら慰めようもないだろう」

「そう。どうしようもない。だけど彼女は持ち主に『会いたい』と」

「そんなの探しようがないよ。ゆっくり受け入れていくしかないさ。そう言っておやりよ」

「そうですね……ちょっと貴方たち、付喪神同士でなんとか話してきてくれません?」

《嫌じゃ》

《嫌じゃ。仁科がやれ》

 すかさず断られてしまう。これに鳴海はため息をついた。

「あぁらまぁ、これは困ったねぇ……真文? どうかしたのかい」

 いきなり声をかけられ、真文は緩んでいた背をしゃんと伸ばした。目の前で鳴海が心配そうに顔を覗きこんでいる。

「あ、いえ! なんでもないんです……なんでも……」

「本当に? 顔色が悪いようだけど」

「ええ、本当に」

 半ば意地になって言い張った。それに鳴海は目をぱちくり瞬かせる。

「ふむ……どうやらこの傘、そっとしておいて欲しいようです」

 こちらの様子に気づかなかったのか仁科の声が割り込んだ。それから「よいしょ」と立ち上がり、大事そうに入口の側に傘を立てかける。

「えぇ? うちに置いとくのかよ」

 すかさず鳴海も立ち上がる。仁科はあっけらかんとした様子で振り返る。

「大丈夫ですって。それに、この寒空へ放り出すのは心が痛みますし」

「うわぁー、お前に一番似合わない言葉だわぁ」

「ひどい……」

 しばらく二人は傘を置くことについて言い合っていた。それをじっと見守りに徹する真文。そんな彼女の膝に爛柯の精がコロコロと転がってきた。

《あの傘は》

《あの傘はな》

 交互にそれは口を開く。

《寂しい》

《悲しい》

 拙くも真剣に白と黒の付喪神は訴えた。それを聞きながら真文はこくりこくりと頷く。

「悲しいでしょうね、捨てられてしまうのは。捨てられた側が一番辛いもの」

 唇を噛みながら小さく言う。無意識に固く握っていた拳を白が上から重なるように両手で握った。

如何いかにも》

《如何にも。傘はとても幸福だった》

《幸福。優しい気持ち》

《幸せを知る、温かさを持つ》

《温かく、心地よい、それを知る》

 だから――

《だから、寂しい》

 二人は声を揃えた。

 ――だから、寂しい。

 真文は思わず胸を抑えた。何故だか突然に小さな痛みが身体の内に現れる。逆剥さかむけに気がついたような感覚。気になってもどかしくなる。

 真文はそのじっとりとした気持ちの悪さを隠すように息を吸った。


 ***


 ――あなたは何処へ……

 降りしきる雨。吹き荒ぶ風。それでも、どんなに強い雨嵐にも耐え忍んだ。どんなに綻んでも欠かさず手入れをしてくれた。穴が空けば塞いでくれた。

 それなのに――あなたは、あなたは何処へ行ってしまったの? 私が嫌いになってしまったの? 古くなってしまったから。ぼろになってしまったから。

 それでもあなたは大事にしてくれたわ。

 だけれど、もう、とうとう要らなくなったのね。

 確かにあなたの手は前よりもシワだらけで不器用になってしまった。動かなくなった。紙を張り替えるのも時間がかかってしまうもの。手入れが大変だものね。

 分かっているの。私があなたの邪魔になるのは忍びないもの。

 でも。

 でもね、あなたの手のぬくもりが私は大好きだった。好きで好きで何時いつでも求めてしまうくらい好きで仕方がないの。

 あなたとの旅が楽しくて素敵だった。雨が降らない日でも雪のない日でも、お天道様がある日でもあなたは私を外へ連れ出してくれたわね。

『今日はどこへ行くのかしら』『風が気持ちいいわね』『あら、綺麗なお花だわ』『玄関に飾ったら華やかでしょうね』

 幾度となく覚えたこの感情を、あなたには決して伝わることはなかったけれど、あなたにもらったこの記憶だけは……記憶だけは私のものにしても良いでしょうか。

 思い出に暮れて、泣くだけでも許してもらえないかしら。

 もう会えなくとも、ぬくもりに触れられなくてもいい。それでもどうか……どうか想うことだけは許してもらえないかしら。

 慕い続ける私でいても良いでしょうか。

 あなたを、いつまでも――


 誰もいない間にこっそりと真文は傘を広げてみた。

 彼女に触れれば募った思いが全身を駆け巡る。優しい悲しみを真文は黙って受け止めた。


 ***


 傘が店を訪れて数日が経った。

 ヨビコ山が雪景色へと姿を変えると村もひっそりと静かになる。

 ゆるりと冷たい時が進む中、鳴海が帳簿台に座っていると店の戸を叩く人影があった。

御免ごめんください」

 随分とくたびれた男の声だ。すぐさま「開いてますよー」と声を上げる。しかし、人影は一向に動かない。

「なんだろう……」

 仕方なく台から出てバタバタと三和土に降りる。戸をガラリと引けばなんてことはない、すんなりと開くではないか。

 その眼前に深い茶の山高帽、スーツにマントという出で立ちの痩せた老人が立っていた。

 この村では珍しい洋服姿である。さては旅行者か。隣町の水土里町からたまに流れてくるものがいるが、彼もそうなのだろう。

「あの……こちらは雑貨屋だと聞いたんだが」

 老人は鳴海を見上げ、それから店の中を調べるように見た。

「はい、雑貨屋ですが……まあ、中へどうぞ。お寒いでしょう」

「失礼」

 言えば老人は躊躇なく足を踏み入れた。ストーブの温かさに「ほう」と息を吐く。

 外は凍える程に冷たく、鳴海は急いで戸を閉めた。そして奥の部屋で掃除をしている真文に声をかける。

「真文ー、お茶の用意を頼めるかい?」

「はーい、ただいまー」

 すぐさま快い声が返ってくる。その声を聞きつけたのか、どこからともなく仁科が座敷に姿を現した。急な客に驚いたように目を瞠る。

「おや、いらっしゃいませ。霊媒堂猫乃手へようこそ」

「はあ、どうも。ええと……もてなしは嬉しいのだが、私はただこちらに傘を買いに来ただけでね。安東あんどうといいます。ちょっと今から九州まで行かなくてはならんので」

「今から九州ですか。それはまたこの寒い中、大変でしょうに。まま、そちらへお掛け下さい」

 仁科は同情的な声で応じ、かまちに座るよう促した。

「用事だからね。仕方がないんだ。それで向こうの水土里町でこいつを買ったんだが……どうも手に馴染まなくてね」

 安東と名乗る老人は手に持っていた黒い傘を見せて苦笑した。それを見て仁科は目を輝かせる。

「こうもり傘じゃないですか」

「こうもり?」

 聞き馴染みがないのか鳴海が思わず訊く。すると仁科が呆れたように息を吐いた。

「聞いたことくらいあるはずですよ。いわゆる西洋傘です」

 あぁ、そう言えば。思い出したものの興味がまったく沸かないので、鳴海は「へぇ」と軽い反応を見せる。

 それに構わず仁科は安東の傘を珍しげに眺め回した。

「そうか、水土里町にも売ってあるんですねぇ……あの、ちょっと見せてもらっても?」

「おい、仁。客の前で……」

 はしゃぐ仁科を鳴海が窘める。

 その様子を安東は愉快そうに笑った。

「いや構わんよ。なんならもらってくれないかね」

「えっ、いやぁ、そんなつもりは……」

 さすがの仁科も腰が引けるらしく、すぐさま傘から離れた。

 だが、安東は首を横に振り、あとを続ける。

「なんだか使いにくいんだ。やはり昔から慣れていた蛇の目傘が合うらしい……手放してしまったのが実に惜しいよ」

 それは名残惜しそうな声音だった。

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