冬の章 空傘〜カラカサ〜

壱・寒風に臨む

 ――その代わり、うぬわしに何をくれる?

 木の葉が浮かび上がる。強力な妖気に触れてしまえば敷き詰められた木の葉は軽々と舞い上がっていく。

 物欲しげな中星の掠れ声。それが頭上から覆いかぶさるように降ってきた。

 何を――何と換えたらいい。奪われた力を取り戻すために支払う、その対価は。

 仁科は下げていた頭をゆっくりと持ち上げ、中星の目をじっと見据えた。企みがあるのは承知のこと。以前、彼女を試した自分と同じにおいを放っている。彼女が何を欲しているかは、容易に見当がつく。

「……命を半分。この器の寿命を半分でいかがでしょう」

「ほう、半分とな」

 中星は白々しく驚いた。それが狙いなのだろうに、彼女の口からは本心を引き出すことは不可能だ。

「汝の魂は特異なもの。現世うつしよにも幽世かくりよでさえならざる形なきもの。それが我を持ち、人へと移ってしまったのが汝という存在。異が混ざったその血は、妖なるものを全て食い尽くし、吸収してしまうものじゃ。それも我が手にしたいところじゃが……何が起こるか分からんからのう」

 中星はゆっくりと仁科の目の前まで歩み寄る。口元を袖で隠し、楽しげに笑いながら。

「しかし、その身をあっさり投げ出せるなぞ、よほど追い込まれているようじゃな」

「己を犠牲にしてまで成し遂げなくてはならない、そんな日が来ようとは思いもよらなかった」

 気を抜くように仁科は苦笑を漏らした。その様子を中星はじろじろと眺め回す。それはまるで意を見抜こうとするよう。やがて思い当たったのか中星は対色の目を瞠った。

「さては、あの櫻の娘か。随分と執心しておるそうじゃが、それもまた珍妙なことじゃな」

「まさか。中星様ともあろう方がそのようなことを言いますか。人の為? そんなの一度だって抱いたことがないんです。出来ないんです。そういうものだから」

 中星は目を細めて甲高く笑う。ばさりと一息に袖をたくし上げた。

 白く細長い手が伸びる。瞬間、その手のひらに赤い火が生まれる。それを仁科に向ければ瞬く間に柱と化し、彼の全身を包んだ。ジリジリと肌を焼く音はまるで命を喰うような咀嚼。それは時間をかけてゆっくりと堪能していた。

「……ふむ、これくらいじゃの」

 炎が解かれると同時に中星が舌なめずりをしながら言った。仁科は木の葉に膝をつき、項垂れている。

「なんじゃ、これしきのことで情けないのう」

「これは……あぁ、こんなに重いものでしたっけ。とんでもない借り物をしてしまった」

 額を押さえ、彼は小さく笑った。そこには震えが混ざっており、頬から顎へと冷や汗が伝っている。全身に熱が巡っていた。ぐるぐると縦横無尽に。それが体力を吸い取っていくようで彼は胸の動悸を抑えようと深く息を吸った。

「仁科よ」

 中星が静かに言う。

「汝は己を犠牲にしてまでも力を取り戻すつもりかえ?」

「………」

影狼あやつに奪われたものを戻す、その勝機があるのかえ」

 彼女の問いは呆れと情けが絡み合っていた。それほどに柔らかな哀がある。

 仁科は木に手をついてゆらりと立ち上がった。

「えぇ。まあ、いずれは」

 答える声は素っ気ない。命を引き換えに力を得たのだから、その身体が対応に追いつけないのだろう。やがてしっかりと足を踏み、息を整えて彼はもう一度答えた。

「いずれは取り戻しますよ。すべて。あわよくば奴を葬ることも……」

 そんな彼に中星は眉を寄せて不機嫌顕に溜息を吐いた。

「これはまた……儂はとんだ悪党に加担してしもうたようじゃわい」

 嘆くような言い方に仁科は短く笑い声を上げた。中星に一礼すると木の葉を踏みしめ踵を返す。その後姿を中星は慌てて呼び止めた。

「お待ち」

 仁科は背を向けたままで立ち止まる。

「……人というものは儚い生き物じゃ。それを捨ててまで、汝は生き長らえることを選ぶのじゃろう? 力を取り戻すとは、そういうことじゃ。良いのか? 鳴海や真文が死してもなお生きることを汝は望むのかえ」

 声音は厳しくもやはりどこか嘆くようだった。

 仁科はしばらく黙っていた。その時間は応えを思案するようでもある。だが、いくら待てども応えはない。中星は彼の背を細目で見つめた。

「仁科よ。儂はこれでも汝の死に様は……見とうないのじゃ。無様な死に際は見せてくれるなよ」

 それは僅かに潜んだ願いか。か細い声に仁科は気を抜くように肩を竦めた。そして、ちらりと振り返る。

「善処します」

 明朗な笑みに情はない。


「それが、新たに狐と交わしたものです」

 騒動の夜、店に戻るなり問い詰めれば顛末を語ってくれた。

 鳴海は思わず彼の襟に手を伸ばしかけたがどうにか堪えておいた。息を整えて夜風に当たり、気を落ちつかせれば事を荒立てずにその日は終わった。

 改めて話をすれば彼はやはり包み隠さずさらりと言うのだ。

「……影狼あいつから全てを取り戻す算段はあるのか?」

 中星と同じ問いを投げると仁科は、あの邪気のない笑みを見せてくる。こちらはしかめっ面であるのに随分と能天気なことだ。

「この身が尽きるまでにはどうにかします。今やお前の目を頼らずとも鮮明に彼らが分かりますし、何より便利がいい」

 そう言って仁科は真文が出していた碁石とよく顔を合わせるようになった。店にいる間は碁石の精と戯れる。微細な妖の気配も読めるようになり、以前とは見違えるほど動きが機敏だった。


 ***


 十二月。雪は早めに山を覆い尽くした。空は重い灰色で青空はここしばらく隠れてしまっている。

 そんな今年は、戒めの櫻が朽ちた初めての年。それなのに村はきたる年の瀬に忙しなく、気にかける者はごくわずかだった。

 一方で霊媒堂猫乃手は例年よりも一段と警戒の糸が張り巡らされている。未だ櫻幹の呪いは森真文の左目に生き続けているのだ。

 彼女の目から呪いを取り除くには何かが足らない。仁科と鳴海はこの月に入ってからというものの、互いに思案するように黙り込むことが多くなった。

 そんな二人の様子を訝ることなく、今日も真文は頬を桃色に染めて丘を下る。

 年の瀬には森家から神主の彩﨑へ歳暮を送るのが習慣であり、贈りものである酒瓶を抱えた彼女は慌ただしく遣いに出ていた。

 霜でびっしり覆われた冬草の上を駆け、林を抜けて神社へ向かう。そんな道すがら彼女はふと足を止めた。

「何かしら、あれは……」

 高い木の天辺。白と赤で中心を塗られた蛇の目傘が風に煽られ、枝に引っかかっている。

「傘……」

 真文はわずかに怯んだ。

 あの番傘を持った幻影師が思い起こされる。恐ろしいといえばそうなのだがあの体験が彼女の中では忘れられぬ強い記憶となっていた。それは櫻幹と同等に深く濃く。

「あっ」

 傘はひゅるりと風に捕まり、冬の寒空へと飛び立つ。それを目で追いかけるも寒風に煽られるまま神社へと歩を進めた。


 しかし、神社に彩﨑の姿はなかった。社務所の周りをぐるりと回ったがやはりいない。もちろん神社の境内も敷地内もくまなく探したが姿はなかった。

 せっかく足を運んだというのにこれでは無駄足だ。彩﨑の帰りを待っていようかと途方に暮れる。

 すると空の彼方からふわりと何かがこちらへ舞い降りてきた。

 ふわりふわり、風に逆らって飛ぶそれは一見して白い小鳥だが、よく目を凝らせば違うものだと分かる。

 真文は躊躇なく宙へ手を伸ばした。飛び上がって掴む。

 それは和紙で綺麗に折られた鶴だった。

 早速、中を開けば筆を流したような文字が現れる。

『急ギ、霊媒堂猫乃手ヘ来ラレタシ』

「まあ、仁科先生だわ」

 すぐに思い当たった。真文は手紙を折りたたみ、踵を返すと神社を飛び出した。

 ***


 寒さに震え、かじかんだ指先で戸を開く。途端、こんもりと温風が肌をさわった。

「ああ、真文さん。いらっしゃい。お待ちしていました」

 いの一番に目についたのは三和土たたきに置かれた黒い丸型の鉄。大皿くらいの大きさで、小窓からパチパチと音が爆ぜる。それに手を翳す仁科がにこやかに挨拶した。

「こんにちは、先生。一体どうして私が神社にいるとお気づきに?」

「勘でしょうか。寒空の下に真文さんが待ちぼうけを食らっている気がしまして」

 仁科は悪戯っぽく笑う。無論、違うことは分かるが言及などの野暮はよしておいた。

 中を窺うと座敷には茶を飲む鳴海と彩﨑の姿もあり、悠々とこちらに手を振っている。

 店の中はほかほかと暖かく、真文は水っぽくなっていた鼻をすすった。

「これって、もしや……」

「ストーブですよ、石炭ストーブ。快適でしょう」

 黒い暖房を指す真文に彩﨑が答える。

「日頃、お世話になっている猫乃手さんへお裾分けにね」

「何がお裾分けさ。厄介払いに持ってきただけだろう」

 すぐに口を挟んだのは鳴海だった。こちらはなんだか機嫌が悪い。

 真文はそろりと仁科に耳打ちした。

「鳴海さん、どうされたんですか」

「あぁ、あいつは昔からああなんですよ。新しいものが嫌いなんです」

「ストーブなんて、そう珍しいものじゃないですよ」

 鉄工業が盛んな今日この頃、隣の水土里町みどりちょうでは鉄道を引く工事も決まっているというのに、ストーブを「新しいもの」と呼ぶには妙な気持ちになる。暖をとる手段としては確かに火鉢が主流なのだが。怪訝に思っていると仁科が苦笑を浮かべた。

「放っておきましょう。あれは頑固だからあまり言うと面倒だ」

「何か言ったかい」

 座敷から鳴海の低い声が飛んでくる。仁科は「おっと」と口をつぐむと真文に目配せした。それを見て真文はクスクスと忍び笑う。

 一方、座敷では彩﨑が腰を浮かせた。

「それじゃあ僕はお暇します。いつまでも座敷を占領するのは悪いし。真文ちゃん、僕に用事があったんじゃあないのかい?」

「あっ」

 言われてすぐに真文は歳暮の酒を彩﨑へ渡す。

「どうぞ。祖父、文彦に代わってご挨拶申し上げます」

「はい、有難うございます。文彦さんに宜しくね」

 確かに受け取った彼は穏やかに笑うと「それじゃ」と二人にも声をかける。

 がらりと店の戸を開ければ寒風が店の中を通った。

「おや?」

 彩﨑の素っ頓狂な声。見送ろうと後に立つ真文も外を窺えば「あら?」と声を上げる。

「どうしました?」

 仁科は未だストーブの前から離れず、顔だけをこちらに向けた。鳴海も座敷の窓から顔を覗かせる。

 店の戸には一本の蛇の目傘が開いたまま転がっていた。白と赤に塗られた傘は、あちらこちらが綻び、穴も空いている。

「この傘……私、出掛けの際に見ましたよ」

 おずおずと言ったのは真文だった。

 高い木に引っかかっていたあの古傘である。風に吹かれてここまで辿り着いたのだろうか。拾いあげようと手を伸ばしかけると、それを遮る手が脇から飛び出した。

「ちょっと、それに触れないでください」

 言ったのは眉を寄せて渋面をつくる仁科だった。

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