拾・秋の夜長のわらべ唄

 岩蕗らが吹山村へたどり着いたのは、仁科が影狼の傘に取り込まれた直後であった。

 林を抜けると、白い羽衣を漂わせた細い女が目の前に現れる。さも偶然を装ってはいるが、彼女はそこで待ち構えていたかのようだった。

「おや、鳴海……それに汝は、岩蕗かえ。久しいのう」

「中星!」

「あぁ、やめい。大きな声を上げるでない。語るのは後にしようぞ。事は一刻を争うようじゃ」

 そう言いつつも、中星の声は面白がっている。

 一体、何が起きたというのだ。

 鳴海は傍らの岩蕗を見やった。師の渋面に、深い皺が増える。

「ったく、連絡を受けて来てみれば……こうなることが分かってても登志世を止めなかったんだな、あの横着者」

 岩蕗の言葉に、鳴海は悔しく歯噛みした。なんとか実家へ戻ったものの無駄足だったこともあり、余計にもどかしさが募る。

「ほほほ。あやつらしいのう」

 中星は扇子を口元にかざして笑った。そして、装束の袖をすっと村の方角へ向ける。

彼奴きゃつらは神社より少し離れた地におるようじゃ。儂が仁科につけたニオイの深きところよ。鳴海、汝ならば分かるじゃろうて」

 中星はちらと目を上げた。

 扇子をバチンと音を立てて閉じる。それを合図に、岩蕗と鳴海は再び足を踏み出した。

「あぁ、鳴海よ。土産話みやげばなしを後々、儂に聞かせてたもれ」

 白狐の見送りを目の端に送りながら、鳴海は片手を挙げた。


 ***


さて。さて、さて。夜も更ける、頃合……邪魔な狐が、居ぬ間に、消えるとするか」

 芝居小屋の外。人々は酒盛りの真っ最中。しかし、その輪に加わらぬ者が一つだけあった。

 あの落ち窪んだ目、木乃伊みいらのような体躯の小男――ドロがじっと影狼を見ていた。

「共に往くか、サトリよ。雀だけでは、頼りない、ものだ」

 傘の先を向けると、ドロはゆっくりと手を伸ばした。掴むのかと思いきや、その指先は影狼の背後を指す。

《あまり馬鹿にしてくれるなよ、化物風情が》

 その言葉はドロの口から発せられた。脈絡のない言葉。誰の心を見透かしたのか。

 しかし、影狼にはそれが誰のものか瞬時に悟れる。

 傘を見やり、低く唸った。ゆったりとした動きで、影狼は背後を振り返る。誰もいない空間に銀色の眼を向けると、視界の奥に二つの人影を感知した。

 人への干渉は彼にとって都合が悪い。とくにそれはどちらもよく知る者だ。よく知り、どうにか避けてきた。それなのに。

「奴の差金さしがね……? 奴が、一枚上手? そんな、まさか……が、人を使うなど……ありはしない。ありはしないのだ」

 空を切り裂く風を飛び退いて回避する。が、その犠牲になったのは哀れな妖。小屋に座り込んでいたが故に、逃げ遅れたらしい。

 ドロは上半身と下半身を真っ二つに斬られた。短く濁った悲鳴が湧き、それはただのしかばねと化す。その切り口からもくもくと煙のような、毛玉のような黒いものが揺らめき立って消えた。

「なんだ、別の妖を斬ったようだが……まぁ、いい。しばらくぶりだったが、こいつぁ、まだ使えるらしい」

 岩蕗が放ったものは、霊力で鍛えてある欠けた短刀。それを思い切り振れば、風によって威力を放つ。

「一か八かだ。おい、登志世。お前はあの傘を破け。どうにかして手に入れろ」

 鳴海はこくりと頷くと、影狼の持つ傘を睨んだ。

 札を飛ばしても、引っかかるのは五分五分。それなら、頃合いを間違えずに傘を奪うだけに徹する。対し、影狼は天を見上げて口笛を吹いた。高く木霊す音に、空を飛ぶ鳥たちが一斉にこちらへと進路を変える。襲い来る。

 岩蕗は躊躇なく短刀を振るった。瞬間、無数の羽毛が弾けるように舞った。たちまち視界を埋めていき、その中に紛れようと、影狼は身を翻した。

「待て!」

 岩蕗が懐から、綱のような紙を引っ張り出した。蛇腹に折られ、幾重にも長い。それを風に乗せて飛ばし、影狼の足を掴む。体が宙でよろけた。

「岩蕗ぃっ! 貴様、これ以上、力を尽くせば、死ぬぞ。それでも、まだ彼奴を助けるというのか!」

「だからどうした。この一大事に使わねぇで、いつ使うってんだ」

「あぁ、あぁ、どこまでも愚かしい! 貴様の介入が目障りだ!」

「フン。そいつは悪いな。俺ァ、義理堅いんでね」

 にやりと笑い、岩蕗はそのまま紙を足場に飛ぶと、刀で影狼を斬った。

 二つに割れる。脳天が割れ、その身は分かたれる。銀の眼がぼろぼろ飛び出し、岩蕗を捉えた。その上では、主を失ったパノラマ傘が地へと真っ逆さま。

「傘を破けぇっ!」

 宙から轟く師の声を、鳴海はしっかりと受け取った。飛び上がって傘を掴み、そのまま一気に引き裂く。

 岩蕗が地へ足をつけたと同時に影狼の体も伏し、傘からはあらゆる極彩色の煙と波が空へ放たれた。

 やがて、傘の向こうから二人が顔を出す。息を吐くように、黒の間から姿を現す。仁科に続くのは目を眩しそうにしばたたかせる真文だ。

「……ったく、手を煩わせやがって」

 それは岩蕗と鳴海が同時に言ったものだった。

「あぁ……もう、二人揃って、何やってんだい。本当に、もう」

 力なく呻くように、鳴海が座り込む。岩蕗も息を切らし、地に膝を立てていた。

 その下には、黒くどろりと流れるものが。二つに裂かれた影狼の姿があった。

「いや、済みません。手を煩わせずとも、こちらでどうにかしようとは思ったのですが」

「どうにも出来てねぇだろうが……お前、これは高くつくぞ。あと、金返せ」

 岩蕗の辛辣な言葉に仁科は鼻の頭を掻いた。

「それはまぁ、いずれ……こいつを先に始末してしまいましょう」

 その目は影狼の残骸を捉えている。

 仁科の足が残骸を踏みつける。無情に、ただ虫を潰すような感覚で。鳴海だけでなく真文も固唾を飲む。

「――こいつの敗因は、私を甘く見ていたことだ」

 冷たく嘲るような言い方に、その場にいた皆が息を潜めた。

 突如、甲高い笑いが空気に触れる。

「ククク……甘い、だと。小癪な、ことを抜かす。お前は、いずれ……死ぬ。いずれ、殺す。いずれ、いずれ……!」

 くつくつとケタケタと幾重も連なって空気を震わす。おぞましさに真文は耳を塞ぎ、鳴海と岩蕗は顔をしかめた。

 仁科は左の腕に巻いた包帯を剥がすと、薄く膜の張った手を噛んだ。赤黒い血が迸り、それを影狼に落とす。影狼はみるみるうちに萎びていき、笑いも暗闇に溶けていった。

「私の取り柄といえば、この血。しかし、それをもってしても、こいつは朽ちることはないでしょう」

「……そう、だろうな」

 仁科の言葉に、岩蕗が静かに頷いた。

「しばらくはまた穏やかでしょうが、次は分からない。それに……」

 頬に飛んだ血を拭いながら、仁科は次に師を見やった。

「岩蕗さん、あなた……」

 何かを悟り、眉を寄せ、打ちのめされたように言葉を失う。対し、岩蕗は鼻を鳴らして笑った。

「まぁなぁ……そろそろ隠居でもと考えていたところだ」

 彼は渋面をぎこちなく伸ばして笑ってみせた。鳴海も事の成り行きが分からぬ真文でさえも、僅かに漂う陰鬱な空気に気まずさを抱く。

「何もお前らが気負うこたぁないんだ。光輝もいるしな……しかし、残念だったな、仁。俺のとっときの最後の大技が見られんで」

 仁科は責めるように拳を握った。鳴海も深刻な表情をする。岩蕗も気まずく笑いを引っ込めた。

 繕うように、仁科が息を吐いた。

「――それで、鳴海。お前の方はどうだったんです」

「えっ」

 身構えていなかった。急に問われれば、どもってしまう。まさか、こちらに矛先が向かうとは思いもよらない。鳴海は顔を引きつらせて首筋を掻いた。

「えぇっと……」

「戻るなと言ったのに。その様子じゃ、追い返されたってとこでしょうかね」

 仁科は口元を釣り上げて笑った。それはからかうような悪意のある笑みだった。

「追い返された、とは?」

 真文にも問われれば、もうこれは言い逃れができない。仁科のにんまりとほくそ笑んだ顔が腹立たしく、鳴海は鼻を鳴らした。

「あーもう、はいはい。そうですよ。家に帰ったはいいものの、まんまと追い返されたさ。文句あるかい」

 今朝のことが脳内を巡り、鳴海は腕を組んで顔をしかめる。

 忌まわしい、広々とした屋敷の戸を前に、岩蕗と光輝に背中を押されるまでなかなか手が伸びなかった。

 意を決し、戸を叩くと、迎えたのは温和に眉尻を下げた父。とても驚いたようで、兄に聞いていなかったのかと尋ねれば父は困ったように頷いた。

「なんとか一命は取り留めたよ。しかしな、お前を……その、敷地に入れることは出来ないんだ。折角で悪いんだが」

 父はまだ妖に理解のある方だ。故に、仁科への扱いも優しいものだった。

 酷いのは母と兄である。あの二人の立場がすこぶる強いせいで、父はいつも部屋に引きこもっている。それは今も変わらないらしい。そんな情けなくも暖かい父は、十年前よりも小さく衰えたように見えてしまい、僅かに胸を爪弾つまびいた。

「ごめんな、登志世。ごめんな」

 そう繰り返し、父は母との面会を断った。門前払いを喰らえばどうにも出来ない。

 途方に暮れる、とはこのことだろう。帰るだけで、どれだけ苦労したと思っているのか。やるせない。

「はぁ……」

 脱力に支配され、慰めるような光輝の目を見て更に溜息が溢れる。そんな折だった。道の前方から、白い絹の襯衣を着こなした、顔立ちのよく似た兄が姿を見せた。

「なんだ、来ていたのか」とさも驚くような嫌味を投げつけて。

「……へぇ」

 仁科はその話を適当に聞き流していた。それでも、これだけは伝えなくてはならない。

「母さんは、ただ、怖かっただけなんだよ。お前のことが。それに、あたしのことも。そうらしい」

「ふうん……」

「おい、連れない返事をするなよ。訊いたくせに。それに、うちの馬鹿兄貴も言ってたよ」

 ――あれは、化物だ。

 どこまでも揺るぎない兄の言いように、鳴海はただただ呆れた。

 そして、その真意を知った。

 ――化物を家に置くなんざ言語道断。追い払いたくなるのは至極当然の行為だ。俺は、あれに何度か殺されかけているのだから。

 その話は聞いたことがない。どういうことか問い詰めると、兄は鼻息荒く、嫌そうに眉を歪めた。

 彼が見たもの。それを知った時、鳴海は思考を奪われたように呆然と佇んだ。

「でも、この間に見たお前は、俺の知っている奴じゃなかった、とさ」

 兄が見たものは伏せておこう。

 もしかすると、仁科自身も気づいているだろうから。ここらで明るみにするのは良くない。

 鳴海は息を吐き出した。それに伴い、真文も安堵するように肩を落とす。岩蕗は疲れのあまり、まだ跪いていた。

 一方、仁科は、

「理由なんて、今は必要ないですよ。私はもう金輪際、絶対にあの家には関わりたくない。二度と」

「……はいはい。ま、あたしも帰れないしね。それでいいさ」

 彼の冷たい言い方に、鳴海は僅かに顔を曇らせたが、それでも今までよりは悪くない。

 靄を打ち消すには時間がかかりそうだが、雲を一つを払えたとして前向きに考えよう。

「よーし、大分よくなった。そろそろ俺は帰るぞ」

 重たい体を起こすように岩蕗が言う。力を使い果たした彼の足取りはまだ危うい。それを手助けしようと、真文が駆け寄った。

「もう夜も更けていますし、陽が昇ってからにしては」

「そのつもりだよ。しかし、宿を探すのが面倒だ」

「でしたら、うちで休んでいかれますか? 御礼のほども是非」

 そんな声が遠のいていく。鳴海も後に続こうと、足を立てた。

「鳴海」

 仁科が静かに呼び止める。彼がそう呼ぶ時は大抵が悪い予感しかない。

「……なんだよ」

「今日は無事で済んだが、次はそうはいかない」

「あぁ……そうだろうね」

 足元にあった影狼の姿は塵となって風に乗った。それを目で追えば、背筋にヒヤリと冷たさを感じる。

 また、現れないとは限らない。二度あることは三度ある。重々承知の上だ。

「いや、お前は分かってない」

 思考を読んだように、仁科は厳しくきっぱりと言う。

「何をさ」

 問うと、彼は痛みに顔を歪めるような、そんな表情をこちらに向けた。どうにも様子がおかしい。

 憑き物が落ちたようでもあれば、重くぬったりとしつこい陰がまとっている。仁科は声音をさらに低めた。

「……妖力、気、それらをあの狐から借りたんですよ。それはもう、なかなか高値でしてね」

「は、」

 狐への借り――そう言えば、中星が言っていた。ニオイをつけたと。

「おまっ……そいつは……どんな……っ」

 頬を汗が伝う。

 仁科は口の端を横へ伸ばした。

 嫌な予感が更に胸を締め付ける。そんな鳴海の耳元で仁科は囁く。

「命と、引き換えに」

「………っ」

「これ、岩蕗さんや真文さんには内緒にしてくださいね」

 ごくりと喉が鳴るのはどちらだったか。

 その判断が鳴海にはつかなかった。


 *


 *


 *


 山から上る、燃え盛るような陽を背にして畦道を歩く者が一人。

 ふうらりふらりと、鼻の奥で唄を奏でながら歩いてくる。

 道は枝分かれし、右には大きな町、左には小さな村……いや、それよりも目に入るのは、くしゃりとした髪の子供。宿屋の玄関先でうずくまり、地面に何かを描いている。

 口遊みをやめた男は、その子供の前へ立った。陰った地面に怪訝に思ったのか、首をゆっくりもたげてそれを見る。突如、鳥の羽ばたきが彼らの耳元を掠めた。

「おおーい、光輝。悪いな。待たせてしまった」

 遠くから駆け寄る黒の外套に、光輝は目を輝かせた。傍らにいた男など見向きもせずに。

「おとうさん!」

 ぎこちなく口にして、光輝は岩蕗の元へ駆け寄る。

「光輝、いい子に待っていたか」

 聞かれればすぐさま大きく頷く。そんな彼を岩蕗は大事そうに目を細めて笑いかけた。

「さ、家に帰ろう」

 手を繋ぎ、彼らは道を進む。その際、ふと、光輝だけが振り返った。

 ――通りゃんせ 通りゃんせ……

 口遊みが道を通り抜ける。風に運ばれ、やがて消えた。



〈影狼、了〉

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