玖・両極

   通りゃんせ 通りゃんせ

   ここはどこの細道じゃ

   天神さまの細道じゃ



 秋の陽は、早く山へかえって行く。

 とっぷりと黒に塗られた空を見上げ、影狼は唄を口遊んでいた。手のひらに握った番傘は、閉じたまま。


 ***


 懐古の波は、終着が見えない。

 叢雲むらくものごとく幾重にも続く。切り貼りされ、繋ぎ合わされたような断片的な映像に覚えがなくとも、紛れもなく己であるのだと知らしめる。

 冷たく熱く、静と動、明暗を繰り返す。忙しなく途切れることなく活発で、その波にただただ揺蕩たゆたうしか出来ない。相反し、反発しあう。人のことわりを超越した何か。

 それが彼らの正体。

 真実に気づかないわけではなかったが、やはり、陰に属する故にどこか拒絶し否定をしていたのだ。それに気づかないわけでもない。

 追憶の波は更に勢いを増し、今度は黒の中に色を流し込んだ。

 ざぶん、ざぶん。

 色を溶いた水の如く、それはなだらかにつ激しく渦を作り、まざまざと嫌な記憶を掘り起こしていく。

 あれは、何時いつだったか。

 気が付けば、大きな家に置かれていた。用心棒として。それが最も古く、色を持った彼の記憶。ただただ単純な色味が殴るようにほとばしる忌まわしい記憶。

 赤、赤、赤、赤。赤の次は黒。しかし、赤の比率が多いのは恐らく、彼が流した血が彷彿とさせるのだろう。

『化物風情が』

 そうののしられ、殴られ、蹴られるのは慣れている。理不尽な折檻せっかんも、仕方がないことだと認識している。また、気が済むまで耐えるしか手はない。

 しかし、その日はどうにも上手くいかなかった。これがまた曖昧なものであり、確かに腕の皮を剥がされたのだが、それからがとんと覚えがない。

 ――しかと、己が姿を、ようく、ようく見るがいい……。

 りいん、と小鈴の音が耳の近くで木霊した。

 ようやく波の終わりがきたのだろうか。

 地に降り立った感覚に目をゆっくりと開ければ、そこは彼が住まわされていたあの広すぎる家がそびえていた。眼前には彼をしいたげる者たちがずらりと並ぶ。

 人に憧れた結果がこれか。碌でもない。なんと愚かで切ないのだろう。何時も何処でも人は情けなく低俗だ。それ故に愛しくもある。

 だから、憧れた。人になりたかった。なりたくて成った。

 例え、根源が人にあらずとも、人でありたいと願っている。

「………」

 彼は腕を組み、目の前に広がるやからを見やった。今や過ぎ去った日々。己の居場所はとうに決めている。それを曲げるつもりは毛頭ない。

「……ふむ」

 眼鏡の奥の目は細められ、わずかに嘲笑を浮かばせている。

「ははぁ、成る程。こうやって過去を映せば、多少なりとも心身への打撃を与えるわけだ。いやはや、良い教訓を得ましたよ」

 涼やかに言い、彼はくくっと小さく笑みを漏らした。それは次第に大きく膨らんでいく。

 目の前に揺らぐ輩はただただ象を映し出すだけで、とくに手出しはしてこない。ゆうらりと漂う。ひそひそと。ぶつぶつと、悪しき言霊を生み、幻に埋めようとするだけ。

「甘いですねぇ……いや、まったく、詰めが甘くて笑えてくる。この程度か」

 深く息をつき、天を仰ぐ。

「調子づくのは結構だが、コケにされる此方コチラとしてはただただ不愉快。不快なことこの上ない。随分と舐められたものです」

 笑った目を閉じ、開く。その眼光は刃のように鋭い。

「あまり馬鹿にしてくれるなよ、化物風情が」

 仁科は袖から大量の折鶴を空へ放った。

 漂う輩へ指を弾くと、紙の鳥たちが一斉にはためき、それらをすべてついばんでいく。残さず掠め取れ、むさぼる。やがて、喰い尽くすと鳥たちは再び舞い上がり、赤と黒の明滅へ溶け込んでゆく。

 それをただ無情に眺めて見送ると、仁科は踵を返した。過去から遠ざかり、のんびりと道を歩き出す。

「さて、真文さんはどこにいるのやら……地道に探し出すしか手はない、か。やれやれ」


 ***


 ――どうして忘れていたのだろう。

 櫻の花弁が舞う川辺を両親と並んで歩いているうちに、真文はふと疑念を浮かべた。手のひらに花を置くと、その違和が胸をちくりと刺すのだ。

 こんなにも幸せなのに、どうして忘れていたのだろう。

 父と母は元気で、明朗に笑い、頭や頬を撫でてくれる。素直に甘えることワガママもを言うこともなんだって許される。

「真文ちゃん」と遠くから呼び止められる声に反応すれば、道の向こうから同年の友人が小走りに寄ってきた。

「ともちゃん? タキちゃん?」

 小学校に通っていた頃の友人。酷く懐かしく、またも胸の奥をちくりと針で刺すように痛みがじんわり広がっていく。

 何故だろう。会いたかったのに、会いたくなかった。そんな、相反した気持ちが緩やかに帯を広げていくこの不思議な感覚。それなのに、自身の顔は満面の笑みで彼らを迎えるのだ。

 そう。これは焦がれて叶わなかった願い。家族に囲まれ、友人らと笑い合う、ささやかな、いつの日にか諦めてしまった願い。

 ――でも、その願いは今、ここにある。

 叶ってしまえば、出会ってしまえば、その夢は夢でなくなる。虚実を疑うこともない。幸せを疑うなど、罰当たりもいいところだ。

《――真文さん》

 突然に、心をくすぐるような、憂いのある生暖かさが全身を伝った。

 振り返れども何もなく、真文は小首を傾げる。

「どうしたの?」

 ともちゃんが訊いた。慌てて顔を戻し、真文は愛想のいい笑みを返す。

「ううん、なんでもないの。何か、声をかけられた気がして……」

「なあに、それ。真文ちゃんったら、おかしなことを言うのね」

「真文ちゃんは、いつだってそうよ」

 タキちゃんもくすくすと笑い、からかってくる。彼女たちはこんなにも気さくだったろうか。いや、そうだった。そうに違いない。

「おかしいね。何だか変な気持ちになってしまうのだけれど……きっと、気のせいだわ」

 きっと、そうだろう。だって、目の前に広がる景色は心地よくて仕方がない。

 後ろへと戻ってしまえば、何かとてつもなく嫌な思いをする。そんな予感がざわざわと押し寄せるのだ。

《――真文さん》

 何かに後ろ髪を引かれる。足が止まる。振り返ってしまう……

「駄目よ。振り返っては駄目」

 母の手が優しく触れた。

「どうしてですか?」

 問うと、母はたおやかな笑みで娘を見つめる。その笑みは脳を溶かしていくようで、ふわりと軽やかな気持ちにさせてくれる。そうなれば、もう、あの憂いげな声に耳を傾けることもない。しかし、胸に支える痛みがこの心地よさを邪魔する。あの声を聞くと、また別に、心が沸き立つような気持ちになる。

 真文は混乱した。思えば思うほど、胸が焼けるように痛んでいく。母の手を振りほどいてしまうくらいに。

 からん、ころん。

 突如、大ぶりの鈴が転がるような音が頭上で響いた。

「真文さん、影に心を許してはいけません」

「えっ?」

 それまでぼやけた音だったのに、耳元で囁かれたように鮮明な息が耳の奥を通った。

 思わず天を見上げる。すると、そこには古櫻が枝と幹をうねらせていた。

「……っ」

 喉の奥が一気に渇きを覚える。全身が凍り、あらゆる神経、感覚が麻痺する。

 その櫻は枝を振るわせ、花弁を散らせた。薄紅が渦を巻き、突如、真文へ襲いかかる。顔を覆う間もなかった。花がまとわりつく。振りほどけない。花は勢いよく、真文の左目に流れ込んだ。

「い、や……っ!」

 叫んでも、喉に張り付く花弁のせいで上手く声が出せない。酷く咳き込みながら、膝を地につけた。

 苦しい。動けない。痛い。痛くて悲しい。でも、振りほどけない。切っても切っても切ることを良しとしない縁。呪いじみた大切なもの。

「真文さん、それは幻だ」

 ――まぼろし?

 言葉の意味を理解するのに、時間がかかる。櫻を掻き分け、真文は顔を覆う花弁を払った。その時、小袖の中からするりと何かが滑り落ちた。

 一羽の折鶴。ピタリと綺麗な頭と尾を立たせ、大きく羽根を広げた。薄紅の空へ羽ばたく。

 やがて、鶴は空中の一箇所で止まり、旋回した。

 廻る。廻る。廻る。

 鶴は風を巻き起こした。舞う花が散り散りになっていき、宙で燃える。

 すると、空に裂け目が出来た。紙を破くように、繊維を切るように空が裂ける。

 その穴へ折り鶴が果敢に羽ばたく様を、真文は息を飲んで見守った。

 思わず声が飛び出しかけるも、音にはならなかった。

 何かが降りてくる。裂け目から、何かをまさぐるように這わせる指先が現れた。手を伸ばしてくる。何もない空から手が降りてくる。

「大丈夫。あなたを惑わせる者は今、そこらにいるはずだ。己を見失ってはいけませんよ」

 柔らかく憂いげな声。その低い音に、真文は脳裏を過ぎるあの儚げな笑みを見た。

 誰だったろう。

 蕩けた脳からその答えを導き出す。

 ――私は、彼を知っている。

 よく知る者だ。どんなに焦がれた父よりも、会いたいと願った母よりも、もう二度と会えないと決めた友よりも。記憶には新しくも、誰よりも信じたいと強く思えた人。鼻を通り抜ける爽やかな風が愛おしく思えた。

「真文さん」

 必死に呼び続ける声。真文は自然とその手を取った。

 振り返れば、両親と友の姿が小さくなっていく。どんどん遠ざかって……


 目を開けると、そこは黒闇の空間だった。しかし、己の姿は鮮明で、どうやら自身が光を放っているように見える。

 傍らに人の気配を察知し、すぐさま顔を向けると、懐かしい顔が微笑みを湛えていた。

「仁科先生……」

「見つけられて良かった。あの時、鶴を渡していて正解でしたね」

 仁科は顔や腕に切り傷を作っていた。それなのに何故か笑っている。

 これも幻なのだろうか。

「いいえ、幻ではありませんよ。実は、私もうっかりあの傘の中に取り込まれて」

 えへへ、と照れくさそうに笑う仁科。安心するも束の間で、途端に不安が押し寄せる。真文はやり場のない気持ちで思わず苦笑を漏らした。顔を引きつらせると、左の頬が突っ張るようで微かに痛い。

 そっと指で撫でる。ざらりとした、傷跡。

「先生」

「なんですか?」

 仁科はすぐに返した。この調子がどうにもこそばゆく、心地よく思える。

 真文は息を吐きながら言った。

「――幻の中では、この傷も、なかったことになっていたのです」

 声には諦めと落胆がこもってしまう。

 仁科は表情を強ばらせた。

「……でしょうね」

「やはり、幻でした。夢のような……とても、居心地が良すぎて」

「戻りたい、と思いますか?」

 問うと彼女はすぐに首を横へ振る。

「いいえ。だって、あそこには先生も鳴海さんもいらっしゃらないんですもの。暖かいのに寂しくて、心に隙間がぽっかりと空いているようで、物足りないわ」

 痛みを抑えるかのように、真文は力なく笑った。

 その笑みを仁科が横目で見やる。彼の口元は安堵に緩んでいた。

「では、帰りましょうか」

 そう言うと仁科は、黒の空間に手のひらを掲げた。血が滲んだ左腕は包帯が緩んでいる。

 血が滲む赤い指先で彼は宙を斬った。煙を払うかのように。その黒はもやもやと溶けるように穴を開かせたが、いくら斬れども穴の向こうは黒のまま。

 仁科は小さく鼻から息を吹いた。

「――ちょっと前にも、ここらに穴を空けて折り鶴を飛ばしたんですが……やはり出口が見当たらなくて。困りましたね」

 口ではそう言うも、さほど困ったようには見えない彼の表情。しかし、言っていることは相当に大事ではなかろうか。

「それは、つまり出られないってことでは……」

「うぅむ……出られないとはまだ決まっていないんですがね。でも……まぁ……そうなるのでしょうか」

「そうですよ! そうなりますよ!」

 しかし、仁科は安穏と笑うだけで頼りにならない。真文は呆れて辺りを見回した。

 黒、黒、黒、黒。黒一色。それはつまり、何も見えないということ。何もない場所というのは恐怖を駆り立てる。

 途方に暮れた。そんな彼女を慰めるつもりか仁科が口を開く。やはり、いつもの調子で。

「そう気を落とさないでください。内が駄目なら外。誰かがあの傘を破ってくれれば出られるはずです」

 仁科は何度か空間を裂いていたのだが、それでも光はなく、あるのは黒だけ。裂いても裂いても延々と続く。懐から小刀を出し、それで斬っても同じことだった。

 真文はもう何も言わずにいた。口を開くと体力が消耗する。

 一方で仁科は「ふむ」と不服を含んで唸る。小刀を手のひらで弄びながら。

「中星様にお願いしてはいるんですが……あの狐、もしかすると私をめたか、はたまた高みの見物か……まったく、困った奴だ」

 そろそろ穏やかにはいられないようだ。仁科は苦笑しながら呟いた。

「困りましたねぇ……さて、どうしようかな」

「……そう困っていないように見えるのは、私の目がおかしいからでしょうか」

 どこまでも軽薄な仁科に、真文は声音を低めて言った。

 途端、仁科が眉をひそめる。不機嫌そうに。その顔を向けられるのは初めてだ。

 彼は冷めた口を投げやりに開いた。

「おかしいのは左だけでしょうねぇ」

「まぁ、先生! はっきりと口にしないでください!」

 なんて失礼極まりない。なんとなく鳴海の気持ちが分かった気がし、やり場のない感情を足踏みで表した。対し、仁科はおどけて口元を緩ませるものだからますます腹立たしい。

 しかし、こんなにも感情的になってしまうのは何故か。この黒がそうさせるのか。

「まぁまぁ、とにかく落ち着きましょうか。ジタバタしていてもどうにもならない。それに、疲れましたし」

「……そう、ですね。疲れました」

 二人はその場に座り込んだ。

 本当に助けが来るのだろうか。中星に頼んだと言っていたが、そもそもあの男――影狼がパノラマ傘を手放すとは考えにくい。

 ちら、と仁科を見やる。彼は、どうにも頼りない節が目立つ。おろか、なんだか楽しんでいるようにも見える。それに幾分も表情が柔らかい……が、優しさは鳴りを潜めている。

 こういう姿を見るのは、今までになかった。いや、見逃してたのかもしれない。あるいは彼が隠していたのか。これが、本来の彼なのか。しかし、偽りの優しさよりもこちらが断然、距離が近しく思える。

 彼の頬や腕、足についた小さな傷跡をじっくりと観察し、真文は溜息を吐いた。

 一体、ここに来るまで何があったのだろうか。

 彼もまた幻に溺れていたのか。どんな、幻を見たのだろう。そして、それを己の力だけで破ったのか……

「――ん?」

 唐突に、横で仁科が短い声を漏らした。

 すぐに立ち上がる。前方をじっと睨み、口の端を横へ伸ばした。

「真文さん、朗報です。どうやら、鶴が救いの糸を見つけたようですよ」

 仁科は人差し指をまっすぐ前方に向けた。その先を辿る。

 びりり。

 紙を破く音が響き、彼が指す方向が不規則に亀裂を帯びる。

 真文は思わず目をつぶった。光が眩しい。


 *

 *

 *


「……ったく、手をわずらわせやがって」

 耳を通った言葉は、傍らの仁科ではない。息が上がったような、それでいてきつい物言い。

 外の眩しさに慣れるべく、真文はゆっくりと目を開かせた。


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