捌・雀が鳴けば狼が通る

 爪先は猫乃手へ向かっていた。

 転がるように框を上がり、彼は息を切らしながら部屋の奥へ向かう。そして、袖の中へ紙札と小刀、折鶴を引っ掴んで荒々しく外に戻る。

 その異様な姿を、あの狐らが捉えていた。

「旦那、どうしたんですかい。血相変えて」

 声をかけると仁科は、殺気立った目で睨んだ。狐は一瞬怯んだが、逃げだそうとはしなかった。ただならぬ大事ならば話は別である。

「もしや、あの娘かい?」

 右吉がはたと閃く。それに対し、仁科の気は僅かに緩んだ。

「えぇ。まぁ。彼女がいなくなった、としか今は判らない。ただ、誰に消されたかは覚えがある」

 素っ気ない口ぶり。しかし、顔色が悪い。冷静を装いつつも、慌てていることが窺えた。

「右吉、左吉。お前たち、見ていたんだろう。真文さんが消える瞬間を」

 話せ、と言わんばかりの圧だ。狐たちは顔を見合わせて、こくりと頷いた。

「番傘を持った男が幻影を見せたんだ」

 右吉が言う。

「それで、傘の中へ吸い込まれたんだ」

 左吉がすぐに後を続ける。

「あの娘は、今、傘の中だろう」

「うん、そうに違いない」

 二匹はごくりと固唾を飲んだ。

 仁科はうんともすんとも言わない。ただ、じっと左腕を握って佇んでいる。

 その沈黙は、やはり恐怖を煽るもの。さわりと風が背を撫でたとき、狐らは肩を寄せてそろそろとあとずさった。

「旦那ぁ……俺たちじゃどうにも出来ないことだったんだよぅ」

「怒らないでくれよぅ……」

「お前たちに怒っても仕方ない」

 彼らの弱々しい言い訳を跳ね返す。低く険しい仁科の声に、二匹はいよいよ震え上がった。

「そ、そういや、旦那……今日はなんだか、妖くせぇですね」

 話の矛先を変えようと右吉が言う。小心者の左吉が「おい、よせ」と脇を小突いたがもう遅い。確かに、彼の周囲には強力な妖気が揺らめいており、ヨモギをすり潰したようなニオイが風に乗った。

「なんだろ、なんだか中星様のニオイ……はっ、旦那、まさか……」

 だが、みなまでは言えなかった。あまりの恐ろしさに口にするのもはばかられる。

 仁科は、爛々らんらんと獲物を狩る獣の目つきで狐たちを見つめた。答えようとはしない。

「あんた、そいつは高くついたんじゃないのか」

 沈黙に耐えきれず左吉がわなわなと言う。

 仁科は静かに呼吸した。

「真文さんを連れ戻しに行ってきます。右吉、左吉。お前たちは中星様に事の旨をきっちりあますことなく話しなさい。いいですね?」

 そう言って、いつもの笑みを浮かべる。それなのに、どうしてだろう。彼をまとう気は黒くよどんでいて痺れを感じる。二匹は首を縦に激しく振った。

「では、頼みましたよ」

 仁科は袖を翻して地を蹴った。

「……旦那、大丈夫かねぇ」

 後姿を見送って、右吉と左吉は顔を引きつらせて見合わせた。

「あれほど強い気を借りるなんて、よっぽどの代価を払ったんだろうね」

「おぉ、おっかない。くわばらくわばら」

 言っているうちに空が暗がりを帯びてくる。見上げれば一番星が瞬き、それを覆う紺色の綿雲が山の奥より流れ込んでくる。

 秋の夜空は寒々しく、二匹の間をぴゅうっと風が通った。


 ***


 その鳥は凶を運ぶ。

「チチチッ」と甲高く、金属をこすり合わせた音で囀り、人間こちらの反応を品定めする。羽音をはためかせ、一層けたたましくなればもう後戻りはできない。鳥を鬱陶しげに追い払っているうちに、背後で狼の唸りが聴こえてくる。

 それが送り雀という怪異。しかし、この雀は偽物だ。本体は狼であり、雀は副産物でしかない。

 とくにこの影狼は雀を従えてさえいなかった。すべて幻に過ぎない。あらゆる万物に干渉し、操作する。幻を写し、惑わせる。光を好み、また光の元でしか存在できない物質。影とはそういうものであり、決して日陰で生きることはかなわない。

 陽があれば、無論、いんもある。

 どれだけ干渉しようとも、反発し相反する片割れである。どれだけ尽力してもするりと煙に巻いていく憎くも憎めぬ片割れ……一度目は邪魔が入った。二度目は予期せぬ事態に驚いた。のらりくらりとかわされ、逃げた片割れを探すべく幾年も要してしまった。だが、ここで終焉しゅうえんを迎えるだろう。

 枯れかけの櫻に力を加えれば、ものの見事にこの村への干渉を得られた。蟲の呪いも布石に過ぎない。影を広げることで、ようやく命を果たすことが出来、広げた風呂敷の中でのみ能力を発揮できるのだ。

 男――影狼は芝居小屋の外で、閉じた番傘を肩に乗せて夜空を見上げていた。

 今宵こよいは雲が厚い。じきに月も陰っていくだろう。そうなれば、この決着も静かに終えることがかなう。人目に触れることもないはずだ。

 すると、ふいに脇の細い木から、バサバサと鳥の羽ばたきが立つ。

「……ふむ。来おったな」

 男は真っ直ぐに前方を見やった。幻術の雀が喚く。囀りも鳴り止まねば、ただただやかましい。

 その音を払うように、風を切って歩く仁科の姿が闇から浮かび上がった。

「あぁ、久しい。実に、久しい。探して、いたのだよ、お前を」

 ゆるりとしたくぐもった声には、安堵とも取れる響きがある。

「そう、唸るな。お前の、本質は、確かに陰である。が、混じってしまった血と肉のせいで、幾分も、濁っている。下等な、人間に、気触かぶれたか……あぁ、なんと無様。無様なこと」

 傘の先をとんと地面に突き刺す。仁科はそれを目で追いかけた。冷たく光るその色は、危険極まりない。

「成る程。櫻の娘を、気にかけて、いるのだな……ならば」

 仁科は一歩、足を後方へ下げた。ぎらついた目は傘を睨んだまま。何を考えているのかは分からない。何も考えていないのかもしれない。無鉄砲だ。歳月を経ても本質は変わらない。

 ばさり――重たい番傘が一気に開かれる。

 途端、色を持った風が吹き荒れた。辺りを吹き飛ばしてしまいそうなほど強い風がねじ上がり、渦が有彩を巻き込んでいく。

 仁科は咄嗟に腕で顔を覆った。瞬間。影狼が動きを見せた。すっぽりと覆われていたはずの顔が現れる。二つの銀の瞳。

 目が合う。

 どうっと重たい風圧が仁科の全身を潰そうと、砕こうと、力を増していく。抗う間も与えない。吹き飛ばされぬよう踏ん張ることも、もう、ままならない。

 しゃらしゃら、と、小鈴の音が風の中に消える。



 ――――――――



 気が付けば、仁科はその場に蹲っていた。ゆっくりと表を上げれば、辺りは極彩色の間。万華鏡の中に吸い込まれたかのようで、どこへ行こうにも色が溢れ出して歩を阻んでいく。

 行けども行けども壁にぶつかる。彼は歩くことをやめた。その場で佇み、ただただ途方に暮れる。

 すると、諦めを待ち構えていたかのように目の前の色が波打ち、揺らいだ。炎がなぶり穴がジリジリ空いていく。訝しく覗けば、そこは青く鬱蒼とした山の中。気がつけば、深まるあおの中に立ち尽くしていた。

 掘っ立て小屋のような古めかしいほこら。その中で、子供をあやす巫女みこ装束の女がいた。優しげに笑みを湛えている。暖かく、心地の良い空気だ。

 それも、あっという間に景色が一変する。

 女は地に伏し、割れた額から鮮血を流していた。その頭を踏みつける男は――あの憎き影狼。彼の瞳に憎悪が宿る。ふつふつと沸く負の感情に流されるまま、喉の奥から唸りを轟かす。赤子も同じく、怒りに震え泣き喚き、やがて獰猛な獣を思わせる俊敏な動きで男の腕に襲い掛かり、噛みちぎる。不快な音を立てて咀嚼し、その生き物は辺りで身を潜めていた物の怪や妖を喰らった。すべて。

 やがて、木々をはじめとした植物が枯れ果てる。逃げ惑う、この世ならざるものを追いかけ、捕まえては喰う。その繰り返しで、どんどん力を増したその生き物が、ふと、こちらを見た。

 ぎらりと光る、獣じみた瞳孔。

 それはまるで……

 ――己の姿を、ようく、ようく見るがいい。

 どこからか声が戦慄く。それはあちらこちらに反射し、身を削っていく。刻みつけていく。

「っ……」

 逃げようとも、振り切れない。逃げ場はない。どこにもない。色が混ざり合い、混沌とした黒へと塗り替えられていく。目に見えていた景色を全部、全部、全部、こくこくと継ぎ足されていくかのように、黒が溢れて、そして……

 手を伸ばしても掻き分けることができず、彼は黒に飲み込まれた。


 ***


「――真文」

 両眼を開くと、そこは鮮やかな薄紅が広がっている。

 ここはどこだろうか。あぁ、なんだ、吹山村だ。生まれ育った村ではないか。田畑も山も、その長閑な景色はよく知る場所である。

「――真文」

 背後で穏やかな低音が鳴り、真文は振り返った。すぐに頬が上がり、口は横に伸びていく。

「お父さん!」

 飛び出して駆け寄ると、父は口角にしわを作って微笑んだ。

「真文、会いたかったよ」

「お父さん、約束、約束を覚えていたのですね」

 父の胸に顔を擦り付けて、真文は喜びに呻く。そんな娘を慈しむように、父は頭を撫でた。

「あぁ、やっと迎えに来れたよ。待たせて済まない、真文」

「いいえ、私は……真文は、ずっと、いつまでも待っていると決めてました、から……」

 顔をうずめていると、今度はまた違う香りが鼻の奥をくすぐった。

 柔らかな指の腹が頬を滑っていき、つられるように真文はその指先を追った。

 見覚えのないひと。しかし、目尻や口元はどことなく惹かれるものがある。何故か両の瞼から熱い涙が溢れてくる。そのひとを見るだけで、どうして胸がきつく締め付けられてしまうのだろう。

 柔らかな笑み、感触、眼差しに知らぬ懐かしさが。

 真文は父から離れて、そのひとに手を伸ばした。

「お、お母さん……?」

 自信もなく、ただ漠然と思い当たったもの。

 思わず、喉から言葉が飛び出していく。小さく、震えて、それは音となる。

「お母さん、ですか?」

 問いに、そのひとは静かに頷き、ふっくらとした唇を開いた。

「真文ちゃん」

 優しく、それはまるで笛が奏でる音色のよう。心臓を掴まれたように痛むけれど、脳の奥はとろけそうにぼうっとほうけている。

 ――なんて心地良い……。

 例え、この景色が幻なのだとしても。いや、どうしてこれが幻だと断言できるのか。こんなにも温かな世界をどうして否定しなければならないのだ。両親の腕に抱かれて安らぐことが、何故、嘘だと言えるのだ。この居場所こそが本来のるべき姿ではないか。

 焦がれた日常。いつも思い描いていた願い。叶わぬと諦めかけていた日々。

 鳥が囀り、春の麗らかな風が撫でていく。その温もりをもう絶対に離すまいと、真文は両親の笑顔を見上げた。

 あぁ、なんという、至福――


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