陸・蟲の巣窟

 ――いつもそうだ。

 水は身体の内に染み込んで芯を凍らせていく。

 真夏だというのに、どうしてこうも冷たいのだろう。

 脳がふやけていく。どこまでも深い穴蔵を漂っている感覚。

 全身を拘束する無数の手がわらう。同時に嗤い声が耳の中へ押し込まれていく。

 ――あぁ、いつもそうだ。

 子供の頃から、何かと悪いものに好かれてしまうので、身を守る為だと女の格好をさせられた。

 それでも足らず、両親は霊媒師を雇った。

 兄は物心付いた頃から陸軍へ志願しているのでいないも同然。

 その為に、家督を継ぐのはお前なのだ、と言い聞かせられた。弱くてはいけない、弱くては価値がない、と厳しく育てられた。

 ――それなのに、

 どうしてこうなったのだろう。

 ふやけてしまうと感傷的になるらしい。鳴海は苦し紛れに泡と自嘲を浮かべた。

 その時。水面が散らばり、身体がぐんと引っ張られる感覚が襲った。

 女たちがとうとう動きを見せたか、と思ったが違う。

 気が付けば、地に突っ伏していた。急なことに気管が追いつかず、とにかく大量に飲んだ水を思い切り吐き出す。胸が苦しい。頭が痛い。肺の具合が悪く、呼吸もままならない。

「まったく。手を煩わせないでくださいよ。一体、何があったんですか」

 こちらの状態をまるで無視するのは、ほかならない。仁科仁だ。涼しげな顔で自分の煙管を持っている。

 鳴海は荒く息をつきながら、睨み上げた。

「おま、え……来るの、おっそいんだよ……この! 人でなし!」

「はいはい、元気そうで何より。で、そこにいるのはなんですか。河童? それとも人魚?」

 適当にあしらってくれる。鳴海ははっと嘲笑を飛ばし、ゆっくりと起き上がった。地面に胡座を掻いて、濡れた髪の毛を絞る。

「馬鹿言え。んなもんいるか。人魚にしろ、どこに臓物垂れ流した人魚がいるんだよ。それに、とんでもなくこいつらは醜女しこめだ。畜生……気色わりいなぁもう」

「ははぁ……随分と酷い目に遭ったのですね。単独で動くからいけないんですよ」

 仁科はケラケラと笑い声を上げると、煙管をこちらに放った。慌ててそれを受け取る。

 それから、水が引いてしまった川を覗き込もうとする仁科を見やった。

「――なんか視えるかい」

 訊くと仁科は首を横に振った。

「なんにも。まぁ、強いて言うならば……」

 そう言って、すっと人差し指で指し示す。

 鳴海は恐る恐る川の淵へ近寄り、それを見た。思わず顔を顰める。

「お前が視たものが女だと言うならば、それは遊女たちの怨霊でしょう」

 仁科の言葉は厳しく固い。

 川の水が引いた草むらの陰、そこには岩や小石だけでなく、頭蓋や砕けた骨が積み重なっていた。


 ***


 二人は、それから賑やかな旅籠通りへ戻った。今ではもう温かな灯りに懐かしささえ覚える。鳴海の着物は蒸し暑い気温のおかげで乾きつつあった。

「話を色々と聞いたんですがね」

 鳴海は仁科の話に黙って耳をそばだてた。

「ここ最近、呪い師という者が町を彷徨いているらしく。すんなりと出てきましたよ。まったく、容易く聞けたものだから、逆に訝ってしまって……どうやらの仕業です」

 仁科の声には怒気が孕んであった。静かながらに、忌々しげな感情が浮かんでいる。

 すぐに思い当たった。それはまさしく、仁科ので――

「あ、あの!」

 背後から声が投げられた。それがあまりにもこちらの背中を突き刺すものだから、立ち止まってしまう。

 徒花へは角を曲がればもうすぐなのに、唐突なこの横槍は何事か。振り返ってみると、艶やかな黒髪をふっさり蓄えた禿かむろがいた。

「あの、もしや貴方さまは呪い師、でありましょうか」

 菊模様の着物を纏った禿は、焦りを前面に向けて仁科と鳴海の元へと駆けてくる。息を切らしているところ、どうやら遊廊中を走り回っていたのだろう。

「いいえ。違いますよ。あんなのと同じにしないでください」

 にこやかなのに、隣に立つ鳴海の腕には悪寒が走った。

 彼が子供を苦手としているのは周知のことだったが、いくら人違いとは言え冷たい反応にげんなりする。呪い師呼ばわりなど今に始まったことではないだろうに。

 すると、意外にも禿は怯むことなく、また一歩こちらへ近づいてきた。

「そうでございましたか。失礼を。では、以前にお越し頂いた仁科さまでいらっしゃいますか」

 これには二人共、驚きを現す。鳴海は仁科の脇を小突いた。

「おい、仁。お前、禿にまで……」

「いえ……覚えがありません」

 どうやら本当なのか、仁科は首を捻って逡巡していた。

 それを見上げる禿はごそごそと着物の袖から何かを取り出す。

「これ! これに覚えはありませんか!」

 小さな手縫いの巾着袋。それは猫乃手の品を請け負う狐の印が付いていた。

「お前、つまらん嘘をつくんじゃないよ」

「いやいや、こちらの禿は知らないんですよ。一華さんにはお会いしましたけれど」

 鳴海の非難を仁科は、未だ合点のいかない素振りで言い返す。そして、ようやく禿に視線を合わせるようにしゃがんだ。

「貴方は徒花の禿ですか?」

 禿の小さな口が開く。

「はい。今は雲英きらと名乗る者。主に一華姉さまの下にいます」

「ふむ……」

 何やら含むように仁科は唸った。その意味は分からない。雲英も不安そうに瞬きをし、仁科の顔を窺っている。

「ええと、何故に貴方がその巾着を持っているのでしょうか」

「その……これをお返ししたく……」

 差し出されれば受け取るしかない。仁科は渋々それを摘むと、困惑の意を表すように鼻を掻いた。

 一方の鳴海は何が何だか分からず、蚊帳の外。堪らず口は問いかける。

「仁、その一華って娘に一体何を渡したんだ」

「毒です」

 答えはすぐに返ってきた。だから、「あぁ、毒ね」と頷いたものの、言葉の意味を飲んだ瞬間、鳴海は驚愕した。

「はぁ?」

「やむを得なくて、ね。これもまた救いの手というものです」

 その答えには苦々しさがあった。救いの手、というのはつまり……

「それじゃあ……その一華は、死も望んでるって言うのか」

「えぇ。それほどに、悩みが大きいのでしょう。客に逃げられる、なんて確かに女郎にとっては致命的。それに、一華さんは一番に拘っているみたいで」

 一番でない自分に価値がなければ、死すらも厭わないという徹底ぶりに、鳴海は理解し難く眉間に皺を寄せた。想像を遥かに絶する世界だ。

 粗末にしていい命など、本来ならば一つもない。だが、望むとなれば話は別だ。すすんで死を選ぶのなら外野がとやかく言う筋合いはなかろう。

 しかし、仁科がそれを承諾し、毒を渡すというのはどうにも頷けない。

 それから、この禿。一華の持ち歩く物を何故、手にしているのか。そして何故、仁科に返還しようと走り回っていたのか。

 その真相を問いたださなくては、幾分気持ちの悪さが拭えない。

「仁。あたしにはどうにもさっぱり分からん」

 全て吐け、と言いたげに。そんな鳴海の意を汲んだのか、仁科は雲英の頭を撫でながら立ち上がった。

「噂、というのは尾ひれがつくものです。ですから、これは飽く迄この町に蔓延る話を拾い集めただけのこと。それを前置きとしましょう」

 まずは、一華から届いた文について。

 仁科は懐に忍ばせていた蛇腹折りの半紙を取り出した。

「客に逃げられるから、なんとかしてほしいというこの依頼。確かに一華さんは近頃、悪い噂が立っているのです。蟲が湧いて見える、という」

 その言葉に早々と、鳴海ははたと納得する。

 文を這っていた虫、あれはこの世ならざるものだったのだ。

「これもまぁ、事実でしょう……鳴海、ここに蟲が視えますか?」

 言われてすぐに鳴海は半紙に目をやった。

 成る程。一華に蟲がついているというのなら、彼女が文を認めた時に溢れて染み付いてしまったのだろう。今では円筒形の蟲まで薄らと窺える。

 静かに肯くと、仁科は短い笑みを溢した。彼もまた、少なからず気づいていたのだろう。

「そこで、先に一華さんへ話を伺いに行きました。彼女は――客に逃げられたら自分に価値はない、とそれだけしか言わず。この時点ではあまり有益な情報は入手出来ませんでした。恐らく、彼女には秘めたる事情があるのでしょう」

 雲英を見下ろすと、唇を噛み締めた憂いの顔をさせていた。一華が口を閉ざす意味を知っているのだろうか。

「仕方がないので、私は思い悩むのが苦しくなったら、最後の手として毒を含めば良いとそれを渡したんです。目から鱗が出るほどに、彼女は感心していましたが……戻ってきたということは彼女はもう必要としていない、ということでしょうか」

 その言葉に、雲英は僅かに肩を震わせた。俯き、こちらを見ようとしない。

 その仕草で鳴海も理解した。

 雲英は勝手に持ち出したのだ。一華に黙って。それは恐らく、善意で行ったのだろう。

 仁科も鳴海もそれを咎めることは出来ない。

「……さて。話を別の方へ移しましょう」

 徒花へ向いながら、と仁科は巾着と文を懐へ仕舞った。


 ***


 蟲が湧く、という呪いはその呪い師が行ったのだろう。では、いつ呪いをかけられたのか。客の中に、その呪い師がいたのか。

 商人の男はその情報だけを告げると、一夜を共にせず座敷を出て行った。

 蟲にまみれた女など、抱きたいと思う男がどこにいるだろう。これだけ悪い噂が広まっているのだ。

 一華は歯を食いしばり、暗い部屋の中で座り込んでいた。

「一番に、ならな……」

 幼い頃に女将と交わした契約が、今となっては呪縛のよう。

 次第に脳の奥が脈打つ痛みを感じた。

 一番でいなくては、死ぬまで一番で居続けなくては借金は帳消しにならない。己に科したおもりとも言える。これを引きずって幾年も、血反吐を流しながら踏ん張ってきたのだ。

「父ちゃんと源次郎、元気になったかなぁ」

 故郷の父と弟のため、女衒ぜげんの男を追いかけ、徒花へと忍び込んだ。女郎は儲かると聞いた。浅はかな幼子の考えだが、家族を想う気持ちは強い。

 女将に頼み込み、顔を土に押し付けて懇願した。金を実家へ送りたい。そのためにはなんでもする、と。

 ――らん。

 女将は泥まみれの汚い小娘を足蹴にした。

 しかし、頭を下げ続ければ、なんとか下働きとして雇われた。そこからは這い上がるべく必死に働いた。

 その甲斐あってか、女将は意外にもすぐに折れた。

「座敷に上がってすぐだよ。一番になりな。ずっと一番で居続けること」

 この言葉により、娘には源氏名がつき、同時に莫大な借金を背負うこととなる。

 数ヶ月前にようやく座敷へ上がることが許され、人気女郎へなるのもあっという間――それなのに、どうしてこうなったのだろう。

「あーあ、まったく」

 その言葉は襖から漏れてきた。この底意地の悪そうな嗄れ声は女将だ。

「一華ったら、また客に逃げられたのかい。もうあの娘は使えないねぇ。さて、どうしてやろう」

「いやだぁ、本当に怖いお人ねぇ、女将。一華って実家に仕送りしているんでしょ? もう金を送ることも無理じゃない?」

 蘭子の声。あの忌々しい、甘ったるい声が癪に障る。

 一華は息を殺して二人が通り過ぎるのを待った。しかし、二人は一向に襖の向こうから立ち去る気配はない。

 女将の下品な笑い声がひとしきり響いた後、それは耳に届いた。

「何言ってんのさ。一華の家に金を送ったことはないよ。馬鹿だねぇ、あの。本当に一番で居続けるから調子に乗りやがって……」

「あら、それじゃあ呪いを頼んだのって、女将だったの?」

「目障りだったからね」

 耳を疑った。目眩がする。動機が激しくなる。

 一体、今、何を言ったのだろう。女将の言葉は信じ難く、脳がそれを受け入れない。頭痛は増すばかりで正常な判断が出来なくなる。

「しっかし、呪い師の言う通りになったねぇ。あんたも呪ったんだろう?」

「えぇ、まぁ……でも、ここのみーんな、あの娘のこと疎ましいから、もしかすると全員ってことも」

 蘭子のクスクスと陰湿な笑いが纏わりついてきた。

 ――あぁ、そうか。

 要らん、と言われてもしつこく食い下がったのは他でもない。疎ましいのは必然。実は今まで、全てが無駄なことだった。

 無駄。無価値。最初から一番なんて無理だった。そう仕組まれていたのだ。

 ――私は、最初から必要じゃなかった。

 くくくっ、と喉の奥から笑いが込み上げてくる。

 全てが滑稽だ。なんと、しょうもない人生だろうか。

 一華は目を開いた。

 手のひら、腿、腕、何かが這う感触を覚える。そこには円筒形やら多足の蟲がわらわらと。どこからともなく零れ落ち、床を埋めていく。

「……そんなら、最期に良かろう、ねぇ?」

 蝋は燃え尽き、辺りは闇へと化す。

 そこに二つ、一華の目玉が浮かぶように光を宿した。


 ***


「呪いを返すのは無駄なこと。何度やっても同じでしょうから」

 巷で聞いた話をまとめた仁科は、徒花の前で立ち止まった。

 外は未だ、闇が明けない。丑三つ時と言うに相応しい頃合いか。虫の鳴き声もいつしか鎮まっている。

「じゃあ、どうするって言うのさ」

 呪い返しが無駄ならば、一華を見殺しにするのだろうか。

 いや、それならわざわざ足を運んでここまで来たりしない。

「……彼女に取り憑いた蟲たちは、互いに食い合って力を得る。そうなると、一華さんはもう人の姿ではいられない。取り憑かれ、その身は蝕まれていく。本来ならば、この類は呪詛返しをするんですが、先にも言ったようにそれは無駄ですね。すると、残された道は一つしかない」

 仁科は鳴海を見やった。その目は、どこか危ない光を宿している。

「え……まさか……」

 言わんとすることが、唐突に脳裏に閃きを与えて、鳴海は顔面を蒼白にした。

「お前……あたしにその蟲を移そうって」

「いやいや、流石にそんな非道なこと考えませんよ。恐ろしいことを言いますね」

 あっけらかんと手のひらを振る仁科。

 それでも怪しい。こいつならやりかねん、と頭の中でぼやいておく。

 今更になって徒花へ足を踏み入れるのが躊躇われ、ごくりと唾を飲み込んだ。脇にいた雲英もそんな二人をおずおずと見上げている。

「策はあります。しかし――」

 あまり期待は出来ない。

 それに、次の言葉で鳴海の不安は更に増した。

「この件の終着は、です」


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