漆・常闇に這う
花模様の繊細な絞りが施された藍色の暖簾をくぐる。
「御免下さい」
灯りの漏れた店の引き戸をがらりと開けて、仁科は軽快に言った。
すると、腹鼓でも打ちそうにまん丸で二重あごの女将が喜色満面に出迎えてくる。
「まぁまぁ、またいらして。随分と景気がいいんですねぇ」
「今晩は、女将さん。どうも、霊媒堂 猫乃手です」
上品に笑う女将に、仁科も応えるように笑みを浮かべた。その後ろでは、固い表情の鳴海が立っている。
「あらぁ、今日は『仁科さん』じゃないの?」
「えぇ、まぁ。今日は仕事で参りました。あぁ、申し訳ないんですが、連れが川に嵌ってしまい、何か拭くものでも貸していただけませんかね」
愛想のいい笑みを振りまけば、女将は目尻を下げて「まぁまぁ、それは大変」と奥へ引っ込んだ。
「――
足元にいる雲英に、仁科は囁いた。すると、禿は黙ったまま頷く。対して鳴海は女将の態度がやけに引っかかっていた。
――何故、店の禿が外から帰ったのに反応がない?
しかし、今はそれよりも仕事が優先だ。頭を振って、邪念を飛ばす。
「登志世……飛沫を飛ばさないでくださいよ。お前は、まったく犬のようですね」
「煩い! 登志世と呼ぶな!」
「おやまぁ、なぁに? 揉めてるの? いけませんよ、仲良くしなくちゃあ」
戻った女将が袖で口元を隠しながら笑う。鳴海は渋い顔で押し黙り、仁科はやはり笑顔で応じていた。
女将から差し出された手拭いを受け取り、鳴海に放ってくる。
着物はとっくに乾いているが、髪はまだ乾ききっていない。こんなにもひょろい布きれじゃ、水気は吸い取れないだろう。好意を無にすることはしないが。
「そうそう。それでね、女将さん。今日は一華さんの具合を見に来たんですよ。どうです、彼女。その後のお加減は」
一華の名を出した途端、女将の顔が引きつる。目の錯覚ではないだろうが、瞬きの間にそれはすぐに笑顔へと戻っていた。
「えぇ、まぁ、相変わらずで……あの娘、近頃はすこぅし塞ぎがちで。仁科さんとお話してからも険しい顔しちゃってねぇ」
「そうですか。あの、女将さん。そのことですこぅし、気になることが」
言うや否や、仁科は図々しく女将に近寄り、店の中を見渡す。眼鏡の奥にある両眼がキラリと光った。
「いえね、この間……」
手拭いを頭にかぶせ、垂れた布の間からそれを見ていた鳴海は、仁科の猫をかぶった陰湿な笑みに呆れた。
大方、一華に何か良からぬことを吹き込んでしまったと囁いているのだろう。まぁ、間違ってはいないのだが。
その後、やはり女将は目を見開いた。そして、その視線は背後へ回ろうと左側へと移る。
「そ、そういうことなら……お代は結構ですし、なんならおいくらでもお支払いいたしますわ」
「それには及びませんよ」
女将の言葉を遮る。そして、素早く雲英の頭に人差し指をとん、と落とした。それが合図となり、雲英が女将の脇をすり抜けて廊下を走る。菊模様の着物がまっすぐ一番奥へと消え、襖を指した。
「こちらです!」
その声を聞くや否や、仁科は満足げに頷いた。
「では、女将さん。一華さんとお話してきますので、良いでしょうね?」
仁科は女将の傍らでニヤリと笑う。有無を言わさない。
「えぇ……ごゆっくり」
「失礼」
女将を押しのけるように、仁科と鳴海は店の中へと足を踏み入れた。
廊の奥地にある、花弁が散りばめられた襖。そこを指す雲英が、小さな手をかけて引き開けた。
暗い。闇の床。
灯りはなく、敷かれた布団だけが目の前にぽつんと。
そのせいか、仁科の目は鋭くなり眉間には皺が寄った。一歩、部屋の中へ。鳴海もその後に続く。
闇に爪先が触れた瞬間、鼻が敏感にそのニオイを感じた。
何かを
なんとも不快を誘うニオイに、思わず鼻を摘んだ。
その傍らでは仁科の涼しげな横顔が。ニヤリと口の端を伸ばして一点を睨む。
「一華さん」
暗闇にふわりと仁科の声が浮かんだ。
その呼びかけに反応し、ぼうっと揺らいだのは光る大きな目玉。
ぐしゃり、と。
「一華さん」
もう一度、呼べば彼女はゆっくりと顔を上げた。乱れた髪の毛の隙間から、何かが落ちていく。
蟲だ。
柔らかく、ふっくらとした白、緑、黒いものも。硬化した多足の蟲もわらわらと布団の上に溢れてはその体躯をくねらせ蠢く。
「仁科さん。また来てくれたん?」
のんびりと柔らかな声が這うように
「でもね、蟲の湧いた女なんて、見たくないやろう? おぞましいやろう? だって、みーんな逃げてくんよ」
喉の奥からくぐもった音を出す一華。その虚ろな目からも、蟲の節足が見え隠れする。
「そんなことありませんよ」
「また、そう
近づく仁科を追い払おうとも拒絶もせず、一華はただそこに居続け、身から溢れ落ちる蟲に視線を戻した。
ふふっ、と彼女の唇が嗤う。そして、足元に這う円筒の蟲を親指で再び潰した。
ぐしゃり、と呆気ない音が耳を通る。
「一体、何をしているのですか」
緊張感の欠片もない安穏な問い。対する一華も、無邪気な幼子のようで。
「何って、蟲を潰しよるやん。さっきのが、女将。そして、これが……」
ぐしゃり。
「蘭子」
ぐしゃり。
「せっちゃん、お絹ちゃん、正子に……あぁ、楓も」
跡形もなくなる蟲。形は無残にも崩れ、汁が飛ぶ。一華は喜々として周囲の蟲を捕まえては丁寧に一つずつ押し潰していく。
「ふふふ……ふふっ……みんな、みーんな、死ねばいい。こうして、潰れていけばいい。潰して、粉々にして、跡形もなく、こうして、ね?」
目の前で蟲を引きちぎっていく。それを仁科と鳴海はただ黙って見つめた。
ケラケラと笑い転げるその姿は、蟲のせいで不気味さが一層際立っている。
「一体、私はなんの為に、こんな、こんなとこにおるんやろ……ね? おかしくない? ふふふっ、くっ、はははははっ」
「一華さん」
高くなっていく笑いの中を、仁科の声が掻い潜る。それでも止まない。それでも仁科は続ける。
「貴女は、そのままでいれば妖になってしまうでしょう」
「あぁははは、は、あら。そうなの?」
でも、それもまたいいかもしれんねぇ、と彼女は呟いた。
「死ぬことは、二度と出来ませんよ」
「でも、あいつらを殺すことは出来るんやろう?」
こうやって、とまた彼女は傍らの蟲を潰す。
その度に異臭がどんどん弾け飛び、胃の中が不快になってくる。鳴海は冷や汗を浮かべて固唾を呑んだ。
仁科が一華の目の前でしゃがむ。傍らの蟲を一切寄せ付けず、彼女の大きな目をじっと見た。
「殺す、ことは出来るでしょうね。でも、それには多くの代償が伴いますよ。人を呪わば穴二つ――いや、それ以上に」
「は?」
その放心は、一華のものだった。
「いや、待って? おかしいやろ。呪ったのは、あいつら……」
煽るな。
しかし、もう遅い。一華は細い肩を震わせて、仁科に縋った。
「ねぇ? そうやろ? ねぇ! 私を、呪ったのは、あいつらの方よ!」
一際甲高い叫びがこだます。それにより、ようやく女将の声が割って入った。
「仁科さん? あの、一華が何かやらかし……」
鳴海は襖を締めようとは思わなかった。仁科もまた、それを指示しなかった。
女将の目に、蟲を纏った娘が映る。あまりのおぞましさに、女将は小さく短い叫びを上げた。
「――おや、女将。丁度いいとこに。貴女のとこの女郎は、今しがた蟲になりましたよ」
そうして、仁科は包帯を巻いた左腕を煽るように振るった。
ばたばたと、廊の閉められていた全ての襖が慌ただしく開く。そこには客の相手をする女たちが。
「ご覧なさい。皆さん、さぞお喜びでしょう。どこぞの呪い師に頼った有様が、今、目の前に在る。これをお望みだったのでしょう? 女将、何故そんなにも怯えてらっしゃるんですか」
全ての廊、上階からもよく見える。一華の揺らめく姿に、悲鳴があちらこちらから飛んでくる。
それを浴び、一華は僅かに恍惚さを見せた。仁科もまた微笑む。
「一華さん、どうしましょう……あの人たちを、呪いますか?」
その問いに、腰を抜かした女将が声にならない困惑を投げる。
一華はにたりと舌舐めずりをした。
「えぇ。呪い殺してやるわ、みーんな」
「だ、そうです。では、女将。私は何をしたら良いでしょうか」
立ち上がった仁科は、今度は女将の元へ足を向けた。一華の眉が僅かに歪む。
「こ、この化物を……」
女将の分厚い唇がわなわなと震え、一華を指差した。掠れた声で仁科にせがむ。
「始末しとくれよ。そういうの、出来るんだろう?」
その浅ましさ。己の業が分かっていないのか。
鳴海は柱に寄りかかり、女将に嘲笑を投げた。
「おいおい、そいつぁないだろう。女将、人を呪っといて命乞いかい。どこまで根性腐ってやがる」
「で、でも……あれはもう、化物だ」
「その通り。あれはもう化物の類。退治しなくてはいけませんね。鳴海、こればかりはもう、仕方がありませんよ。だって……」
彼女が決めたことだから。
仁科はさらりとそう言った。店に入る前に言っていた彼の言葉が脳裏で蘇る。
――この件の終着は、一華さん次第です。
末路がこれか。救いようがない、ということか。
「……女将のみならず、他の女たちも反省の色はなし。あたしとしちゃあ、呪ってやんなと言ってやるが……お前は、そっちを選ぶってのかい」
冷や汗が、顳かみから滴り落ちる。不快が更に胃の中でのたうつ。
そんな鳴海に、仁科はあの困った表情を見せて鼻を掻いた。
「そっち、というのはどっちなのか……まぁ、今はどうでもいいですね。私は蟲退治をしなくてはいけないので」
慈悲のない言葉。
でも、それは鳴海を縛るには充分だった。
同情しに来たのではないのだ。仕事をしなくてはいけない。もう、口を出すことはしなかった。
一方で、一華は絶え間なくぼろぼろと蟲を落として彼を睨んだ。
「退治? まぁ、私はどうなろうが構わんけど……その前にあいつらを呪ってもいいんよね?」
だが、その問いには誰も答えなかった。
一華の小顔が醜く歪んでいく。感情と一緒に、蟲の量も一層増えていき、部屋には足の踏み場もない。その上を、彼女はゆうらりと漂うように立ち上がった。
「いいやろう、そんくらい。なんも困ることないやん」
「でも、貴女は妖になるんでしょう?」
仁科の眼鏡が光を放ち、一華の足が少しだけ怯む。
「私の仕事は妖退治なもので、申し訳ありませんが、
屈託のない笑みが、一華の絶望を誘ったのは言うまでもない。
そして、怒りと憎しみが仁科に集中したのも鳴海は肌で気づいた。背筋が凍る。真夏だというのに、全身を氷漬けにされたよう。
一華は床を這う蟲を蹴り、仁科に飛びかかった。
同時に、周囲の人間たちが悲鳴を上げて逃げ惑う。女将も女郎も客も皆がこぞって外へ駆け出す。
その中で、ただ仁科と鳴海だけが動きを見せなかった。
蟲を纏った着物を翻し、鬼の形相へと変えた一華が仁科の首を掴む。長い獣のような爪へと形を変えた指先は鋭く、掻き切るのも容易いだろう。しかし、立てた爪は皮膚を貫かずに止まった。
「これでもまだ退治するって言うの? こんな惨めな私を見て、それでも私が悪いって言うの? ねぇ……なんで、私がこんな目に遭わないかんの?」
一華の大きな両眼から、透き通った無色の涙が溢れた。光る筋となって落ちていく。それでも仁科の表情は涼しげだ。
「何も、貴女が悪いだなんて一言も」
「じゃあ! どうして……」
その時、仁科は素早く彼女の腕を掴んだ。それを自身の首から引き剥がす。
「一華さん、もう一度だけ問います」
蟲は仁科から避けて蠢いている。
「貴女は、自分を呪った者たちを呪い殺しますか? 本当に、そうしたいのですか? 人に、戻りたくはないですか?」
最後の問いは耳をそばだてないと聴こえないほどの囁きだった。
一華の開いた瞳孔が四方へと揺らめく。
「人に、戻る?」
「えぇ。私にはそれが出来る。でも、貴女がどうしても恨みを晴らしたいと言うならば、もう人に戻すことは出来ない」
――呪い殺してしまえばもう、人には戻れない。
「私、は……」
ふふ、と小さな笑いが一華の唇から落ちた。その顔には、迷いが明白に現れている。
さて、彼女はなんと答えるのだろう。仁科も鳴海もじっくりとそれを待つ。
「私は、それでも」
それまで滾らせていた感情が徐々に収束していくにつれ、声が震えを帯びる。
「こんな風にしたあいつらが許せない……妖になっても悪くない、とも思うんです」
涙に濡れ、蟲に覆われ、おぞましく醜い姿は、絞り出すようにして言った。
気持ちはひしひしと、よく伝わる。怒りと虚しさが伝播していくのにも気がついている。
それでも――
鳴海は固く閉じていた口を開かせた。
「あんた、馬鹿言ってんじゃないよ。折角人に戻れるっていうのに、そんなこと言っちゃ駄目だろう」
突然の横入りに、一華は目を伏せて言い淀む。
「で、でも、戻っても居場所はないし……私は、元々要らん娘なんだから、価値がないから……」
諦めのある口ぶり。それを聞くなり鳴海は、仁科を押しのけて一華に詰め寄った。
「自惚れんじゃないよ。なんであんたの価値を他人が決めるのさ。人につける価値なんか、あるわけないだろう。そんな勝手に決められた枠に収まって、あんたはそれで満足だって言うのかい」
彼女のはだけた肩を掴む。蟲が寄り付くも知ったことじゃない。つらつらと勝手に言葉が出てきてしまう。
「そんなに呪い殺したかったらね、勝手にしな。でも、あたしらはそれを黙って見過ごすわけにゃいかないんだ。
――まだ、人の姿でいるうちに。
まったく説得なんてしようとは思ってもいなかったのに、つい感情が走ってしまった。しかし、言いたいことは全部言った。
鳴海は舌打ちし、彼女の肩から手を離す。どさり、と一華は体勢を崩して床へと崩れ落ちた。
「……熱いですね。ただでさえ暑いと言うのに」
冷ややかな声。鳴海はそれを一瞥した。仁科が苦笑を浮かべてこちらを見ている。
「煩い。もう知らん。どうにかしろ、この人でなし」
鳴海は言いながら、腕に這い寄る蟲を払い飛ばして廊へ出た。それを見送りつつ、仁科はまた一華へ目を落とす。
「それじゃあ、肩をつけましょうね。一華さん、答えは決まりましたか?」
物言わぬ抜け殻のように彼女は俯いている。
わさりと蟲が落ちる髪を垂らして、こちらには目を向けない。しかし、その返事はすぐに返ってきた。
「決まったわ」
ゆらりと長い髪の毛が揺蕩う。その隙間から、光る目玉が覗いた。
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