伍・真文、帳簿台に立つ
店番、とはそもそも何をしたら良いのか。来る明日に備えて早めに布団へ入ったものの、悩みが深みに嵌ってしまったのか、真文は寝付くことが出来なかった。
――心配だわ……
寝苦しい暑さも相まって、布団の中で枕を抱きながらころころ転がること数時間。窓から見える、まるで切り込みのような新月に手を伸ばしてみた。
真文の視界は右側だけである。右目を凝らし集中すれば左側も見えないことはない。しかし、それでも一度力を抜いてしまえば左の障害物に気づきにくい。反応が遅れる。それに、片目だけだと距離を上手く測るのも難しい。
あの新月だって、手元にあるように思える。掴もうと手を伸ばせば触れられそう。
それなのに……
「どうしてあんなに遠いのかしら」
鳴海によく怒られているのは、決まって左への集中が欠けている時なのだ。
どうにか右目だけで真っ当な生活が出来るようになれば、と微睡みながら、細く消えそうな月に思いを馳せた。
***
翌朝。
蝉の喧しい鳴きで目を覚ました。むくりと布団から這い出て、伸びをしながら外へ。
夏の朝は陽が高く、
夏場はたまに、こうして水をかぶるのが好きだった。これは幼い時から祖父の真似をこっそりしていたもので、今も習慣となっている。
ようやく脳が覚醒してきたら、すぐに家へ戻って支度を始めた。祖母が朝餉の準備をしている最中だったので、真文も配膳の手伝いをする。
「お祖母さま、今日は握り飯を作って行きたいのです」
土間で動き回る祖母の後ろを付き従うように申し出た。
「あら、それじゃあついでに作っておきましょうか」
「いいえ、自分で」
近頃は鳴海から簡単な家事を習っている。そろそろ力を発揮しようと、真文は意気込んでいた。そんな孫娘を見た祖母は嬉しそうに笑いかける。
「今日の御用は?」
「お店番を頼まれましたので、夕刻まで猫乃手に」
腕を捲くって握り飯の用意を始めた真文は、祖母の問いに笑顔で答えた。
「あっつい!」
米が手のひらに張り付き、思わず声を上げた。少しは積極的になったとは言え、幾分、不慣れでそそっかしい。
朝餉を軽く済ませ、不格好な握り飯を包んで家を出た。足取り軽やかに店へと向かう。
西洋の服は既に巷で流行っているらしく、岩蕗がこの間の礼と言って少し前に送って寄越したのだ。流行りもの、と聞くだけで心が浮く。しかし、袖を通すのが勿体無く、今日まで仕舞っておいたのだ。
一人きりの店番という大仕事なので、一張羅を引っ張り出したのも、気を高めるためである。
平地へ降りると、日照り続きの為か、
猫乃手にはやはり誰もおらず、仁科と鳴海はまだ水土里町から戻ってないらしい。
しん、と静まった馴染みの風景がなんだか寂しい。いつもなら、あの畳に仁科が座り、何やら折り紙をしている。それを鳴海が口うるさく注意しながら店を頼む。鳴海は大抵、外に出ていくことが多い。故に、昨日はそれが真逆だったことに少々驚いたものだ。
仁科の動向は毎度決まっているので特に思うこともないのだが、鳴海は毎日どこへ行っているのだろうか。誰もいない店内を見回し、真文はふと瞑想に耽った。一度、訊ねたこともあるが有耶無耶にされて終わっている。
今度にでも聞いてみよう。それよりも、今は店番だ。
「よし、まずは……お掃除をしましょう」
ここは腕の見せどころだ。今までの修練を発揮せねばなるまい。早速、外に置いてある箒を手にして、真文は三和土の砂埃を掃き始めた。
もう壺を壊すことも、棚の商品を落とすこともしない。これは大きな進歩である。機嫌よくうろ覚えの唄を口ずさみながら今度は拭き掃除に取り掛かった。
井戸の水を汲んで、冷たい水に雑巾を浸して固く絞る。それからはひたすら畳の目に沿って吹き上げていく。
さて、ここまでは順調だった。幾日も、鳴海に指導されながら行ってきた努力の賜物とも言えよう。真文は満足げに額の汗を拭った。しかし、その達成感も薄れてゆく。
「――うむぅ……困ったわ」
一通り滞りなく掃除を済ませてしまえば、いよいよやることがなくなった。
実は、ここ最近に誰かが足を運んでいる様子を見た覚えがない。本当に誰か訪ねてくるのだろうか。仁科はああ言ってはいたが、今となってはどうにも怪しく思える。
「まぁ、仁科先生のことだから、また気まぐれを起こしたのでしょうね……」
いい加減なことを仄めかすのが常の仁科だ。真文はそうに違いないと自身に言い聞かせた。
恐らく、今日は誰も来やしない。夕刻までを頼まれたのでその責務は全うするが、こうも暇であれば何か別の――違うことをしたい。
真文は店の中の商品を眺めた。棚を磨きながら、チラチラと物色する。いつもはゆるりと眺める暇もなかった雑貨……よく見れば趣向に合う物がちらほらと窺える。
「はっ!」
薄紫色の小さな巾着袋を見つけた。細々と花の刺繍が施されている。巾着は小石が一個入るほどの大きさで、手作業で作ったにしてもこの器用さは興味深かった。それに、見た目が愛らしく、年頃の乙女心をくすぐるものがある。
「か、可愛い……こんなものがあったなんて……」
他にも目を配ると、色々なものを見つけた。花を乾燥させたものが紙に混ざったもの、狐の形を模した硝子細工、お守り、桜貝の首飾りなどなど。思わず手に取って眺めたくなる。
「んん?」
しかし、そのどれもに同じ模様があるのだ。
角のような三角と顔だろうか、糸のような目と丸い鼻。これはもしや……
「狐印?」
そう言えば、鳴海に貰ったあの薬も狐印だという。
はてさて、狐印とは先日話に上がっていた狐のことだろうか。しかし、「猫乃手」という名の店なのに狐が絡むとは、何か違和感がある。
狐と猫、見た目は似ているが、その接点がいまいち繋げない。あれもこれも雑貨の数々には狐印が付いている。真文は掃除を忘れて、店の棚を物色することに目的を切り替えた。
「うーん……狐印しかないわね。ここの品物ってまさか、全部狐さんが作っているのかしら」
凡そ商品とは言えない古箪笥にまで狐印の刻印があったのだ。もうその結論に達するしかない。真文は大きく伸びをして、辺りを見回した。手入れはとうに出来てあるので、手が暇になっている。
「困ったわ……」
つい口にしてしまうほど、真文の退屈は頂点に達していた。そんな時、腹の底が僅かに音を鳴らす。
「お昼!」
てきぱきと箒や雑巾を片付けながら、真文は奥の土間へと引っ込んだ。
そう言えば梅があったはずだ、と思い出し、小さな竈をそっと覗いてみる。中身は空だった。しばらく使われていないのか、蜘蛛が巣食っている。
鳴海は一体、あの梅壷をどこにやったのだろう。探せども見つからないので、真文はもう諦めた。
あまり人様の家を物色するのも端ない。そろそろ辞めておこう。
毎日出入りしているせいか、彼女の中で猫乃手は第二の家と化していた。それでも未だ知らないこともある。
風呂敷に包んでいた握り飯を持ち出し、急須にお茶を淹れ、支度が滞りなく済むと表に戻った。
「いただきます」
手を合わせて握り飯を頬張る。塩加減は好みにしてあるので、絶妙に美味かった。梅もあれば最高なのだが、またそれは次回に持ち越そう。
元々口数は少ない真文だが、一人きりだと益々言葉を使うことがない。暑さと蟬の鳴きに溶けてしまいそうだったが、眠気はなかった。店番を任された以上、居眠りしようなどとは露ほども思っていないのだが。
すっかり昼飯を平らげても、店を訪れる者は何もなかった。
やはり、このカンカン照りに足を運んでくる者など妖怪ですら思い立たないのだ。少しは期待していたのに、ここまで平穏だとそれすらも諦めがついてくる。
このままのんびり呆けて過ごすのも悪くないだろう。そう考え始めた頃だった。
帳簿台に降り立ち、頬杖をついていると脇の方でかすかな物音がした。
かたん、と。その後に何かが落ちる音。
「何かしら」
訝しく(僅かな期待も込めて)、音の出処を探る。帳簿台の真下に、黒い石のような塊が見える。右目を凝らすと、それはどうやら碁石のようだった。
――こんなところに、碁石? それにしてもどこから……
落ちてきたのだろうか。帳簿台には碁盤も碁石の箱もない。
それに、仁科と鳴海が仲睦まじく碁を打つ様など思い浮かべない。あの二人は何かと常にいがみ合っているのだから、囲碁を大人しく行うのも妙に思える。
恐る恐る手にとって調べてみた。黒の碁石はひんやりと冷たい。手のひらでころりと転がせば、熱を吸収していくようで心地良い。
真文は碁石を仕舞おうと、帳簿台の辺りをきょろきょろと目を回した。
「おかしいわ……どこにあるのかしら」
帳簿台には筆と藁半紙と文鎮、そして墨がある。台に置くべきものしかないのだから当たり前だが、それだと迷子の碁石が困ってしまうだろう。帳簿台ではないのかもしれない。
《――お嬢ちゃんお嬢ちゃん》
それは静けさしかない店の中で響かずに、真文の耳元で鳴る童の声だった。思わず肩を上げて、身を固める。
《あのね、ここじゃないのだよ。あのね、この戸棚の中にあるのだよ》
声は真文を導こうとしていた。
誰の声だろうか。主が見えないと、どうにも恐怖を覚えてしまう。ここまで平穏だったのに昼時も過ぎ去った刻にまさかまさかの奇妙が訪れてしまった。その蓋を開けたのがもしかすると自分やもしれない、と真文は後悔する。退屈だと思ったばかりに。固まったまま、どうしようもなく。
それを見かねたらしい声が吐息をついた。
《お嬢ちゃんお嬢ちゃん。何も恐れることはない。畏れることもない。その戸棚を開けてご覧。そうしたら我の正体が解る筈》
言わんとしている戸棚とは真文の足元にある。古い洋箪笥だ。こんなもの、どこから仕入れてくるのだろうと訝しがったが、今は声に従う方が先決だろう。真文は碁石を握り締め、ゆっくりと戸棚に手を伸ばした。
少し力を加えなくては扉が開かない。見た目から、引き戸ではなく取っ手を引っ張らないといけない構造だろう。真文は木が凹んだその部分を両手で引っ掛けて開いた。
随分と開けられなかったのか、蝶番が擦れる音が耳障りだ。そんな折りに、小さな扉が開かれた。目の前が曇っていき、それが砂埃だと気づくのに時間は取らない。
けほけほ、と咳込み、喉に引っかかった埃を吐き出そうとする。そうして
「あ!」
碁盤と
「貴方は、もしかして碁石さん?」
まさか、と自嘲するも声はすぐに返ってきた。
《如何にも、如何にも》
それは二重になっていた。碁石が光を放ち、真文の視界を眩く埋めていく。思わず袖で右目を遮り、真文は恐る恐る目の前を見やった。
小さな丸い頭をした白と黒の衣を纏った童がこちらを覗く。ふわりとした空気を肌で感じ、真文は目の前の童を見返した。
大きな目が印象的な丸い二人は揃いの顔つきで、ぼんやりとした表情を浮かべていた。
《お嬢ちゃんお嬢ちゃん、お前様のお陰で我らはまたも眠りから覚めることが出来た。礼を、礼を尽くそう》
そうして深々と頭を下げる。真文は慌てて両手を振った。
「いいえ、そんな、私はただ碁石を仕舞おうとしただけで……」
言いかけて口を止める。目の前の童らは少しだけ、物悲しそうな表情を見せていた。丸い眉が僅かに下がっている。何か気に障ることを言ったに違いない。
「あ、あの。貴方がたは……そのぅ……碁石さんなのでしょうか」
問うと、二人は華やぐように唇を横へと伸ばした。なんだか嬉しそうだ。
《如何にも》
黒が言う。
《如何にも。我らは
後を追って白が言う。
《爛柯の精であるぞ。お嬢ちゃん》
《お嬢ちゃん、我らと遊ぶ気はないかえ》
二人は真文の手を取って、目を瞬かせた。丸い目玉は確かに碁石を思わせる。
「ええと、いえ、あの、私はあまり囲碁は……」
祖父が囲碁や将棋を嗜むことはあれど、真文はそれを脇から見つめるだけだった。ある程度の決まりは知っていても一戦交えるくらいの技量はない。
だが、断りは受け付けられなかった。二人の精霊は座敷へと飛び上がり、真文を待っている。
《仁科はもう我らとは遊んでくれんのだ。だから、お嬢ちゃん》
《お嬢ちゃんと遊びたい。あの碌でなしの代わりになってくれんかえ》
乞われてしまえば、もう逃げ場がない。
真文は困ったように笑みを浮かべながら、碁盤と碁笥を小脇に抱えて座敷へと上がった。
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