肆・夜の帳に枯れ尾花

 それは数週間も前になる。

 東京の製糸工場を営む大旦那を相手に手酌をしている時だった。

 ジリジリと蝋の芯が焦げ、甘い香が大旦那の鼻腔をくすぐった頃。一華のはだけた着物を捲ろうとする無骨な手が、怯むように引っ込んだ。それからも、大旦那は何度か胸元へと手を伸ばしかけたのだが、やはり引っ込めてしまう。

 いつもならば、床へと押し倒している頃だ、と訝ったが、なんと大旦那は一華を下げて、一人で就寝したのである。

 次は、水土里町の商人だった。

 彼は鼻の下をだらしなく伸ばして、すぐに一華の着物を剥いだ。その乱雑さには呆れたものだが、彼もまたすぐに手を引っ込めたのだ。

 そして「酔いのせいか分からんが、お前、蟲が湧いてるぞ」と言い放ったのである。なんと無礼極まりないことか。

 しかし、蟲という言葉がやけに引っかかる。

 それからの客は怯えて逃げ出す始末。

 呪い、なのだろうか。だとすれば、この身を虫が這っているのだろうか。そんな気配はまったくないのだが……。

「一華姉さま」

 いつの間にやら、夜も更けていたらしい。姉女郎たちはとっくに仕事へ出払っている頃か。部屋の入口で禿かむろの童がこちらをじっと見つめていた。

「なんだ、雲英きらか。脅かすんじゃねぇよ、まったく」

 その禿――雲英は静かに一礼すると、一華の元へと擦り寄った。

「姉さま、近頃はどうにも浮かないお顔で。いけませんよ、そんな仏頂面じゃあ客が逃げっちまう」

「あぁ……私、そげん顔しとったん? 嫌やわぁ」

 おどけて言ってみるが、一華は笑顔を見せることが出来なかった。

「――なぁ、雲英」

「はい?」

「あんたは姉さんらが言いよること、信じとうね?」

 一華には蟲が湧いている。近づけば、うつされる。

 そんな噂が広まっているせいで、今じゃ見世の者で彼女に話しかけるのは雲英だけだった。いくら女の巣窟である見世だろうとも、味方が一人もいなければ気が滅入ってしまう。

 雲英は、首をぶんぶん横へ振った。

「いいえ、そんなこと御座いません。私は一華姉さまの言うことだけを信じておりますわ」

 恭しく頭を垂れる雲英。

 それに安堵を覚えるも、やはり一華は渋い顔をさせた。ゆうらりと立ち上がる。

「……あんたはいつまで経っても禿なんやね。私が婆になってもそのまんまでいるような気がしてならん」

 それだけを言い残し、一華は廊下へ出た。その後ろを、すぐに小さな足音が追ってくる。

「姉さま、姉さま。あの、お客さんがお目見えなんです」

「ちょいと待っときぃ。顔洗ってから行くわ」

 仕事へ出るのに、浮かない顔でいるのは忍びない。とにかく気分を切り替えなくては、客を満足させられやしない。まぁ、「客」が今でも来るというならば。

「はぁ……ありゃ、姉さま? 巾着を落としましたよ」

 しかし、雲英のその声は一華の耳に届いてはいなかった。


 ***


 真夏の夜は明けることなく、長引いていく。

 虫の声が五月蝿い、と気づいたのは周囲の喧騒が耳に届かなくなったからだろう。鳴海は女の手を振り払って立ち止まった。

「おい、あんた。こんなとこにあたしを連れてきて、一体全体どうしようっての」

 見回せば、辺り一面暗闇だ。虫の声に紛れるのは――水の音か。水路が近くにあるのだろう。月は朧げで、まったく頼りにならない。

 そんな夜のとばりに、鳴海は眼前に立つ女を睨めつける。

 ぴたりと静止した彼女は背を向けたまま。

「あらあら。女が殿方を人気のないところへ連れて行くのは、そう珍しいことでなくってよ」

「……わりぃが、あたしゃ一端の男ではないもんでね。残念だが、あんたの気持ちには応えられん」

 唇を捲って苦々しく笑い、ついでに一瞥してやった。それにも女は動じることなく――と思えば、女は肩を震わせた。

 泣かせてしまったか、と僅かに気を揉んだがどうすることもなく事の成り行きを見つめておく。

 腕を組み、様子を窺っていると、やはりその肩の震えが泣いているわけではないことが分かった。

 ゆっくりとこちらを振り返る。小袖に隠れた顔は、どんな表情を浮かべているか分からない。虫の忙しない鳴き声と、共に耳を掠めるのは――くつくつと声を押し殺すような笑い。

「お兄さん、いけないわぁ。女に恥かかせるものじゃなくってよ。華を、持たせないと……」

 袖が揺れたと思えば、顔がどこにも。それどころか着物だけが地面に落ちていき、姿形が消え失せる。

 鳴海は身構えて、辺りを見回した。

 虫と蛙の鳴き声と、風の音しか聴こえない。暗闇で目を凝らし、神経を研ぎ澄ます。

 女の正体は妖だ。

 それならば、どこからともなく襲いにくるだろう。今のうちに、その場から立ち去ることも考えたが、あまり懸命な判断ではないとも思える。

 太刀打ちできる相手だろうか、いや、このまま野放しにしておくと後が面倒だ。

 普段は逃げる選択しかしないのに、今日は妙に好戦的で、その意欲はまさに酒のせいだろう。馬鹿なことをしていると自覚はあるものの、鳴海は袖の中へ手を伸ばして静かに待った。

 鈴虫の鳴く音、そこに不気味な笑い声が段々と重なってくる。

 さぁ、お出ましだ。一体、どんな姿成りか拝んでやろうじゃないか。

 背後で草がしゃくしゃくと折れていく。

 ゆっくりと蠢いているのが背中から伝わり、痺れるような震えが一気に駆け巡った。同時に肌はじっとりと汗ばんでいき、生ぬるい風が吹く度に肌が粟立っていく。

 ふぅっと、うなじに息を吹き付けられた。

 背後に、いるのだろう。

 背骨をなぞる感触が伝う。肉の柔らかさはない。

「――こレモ何カの、ゴ縁デしョウ――」

 氷柱の先端かと思った。肉のない冷たい指が首筋を撫でる。

 足元を見れば、白い円筒形の虫がくねっており、それらがボロボロとどこかから落ちていくのを目の端で見た。

「――私ッて結構、シブとイんダからネ――」

「あぁ、そうだろうともさ。本当、嫌になっちまう」

 ぼやくように、鳴海は言葉に応じた。

 刹那。

 袖に隠しておいた紙切れを、素早く取り出して背後のそれに押し当てる。全身が腐敗した女の姿が両眼に映り、僅かに怯むも力任せに地面へと倒した。

「残念。相手が悪かった」

 肉が抉られ、落ち窪んだ目の辺りに、鳴海は札をもう一枚貼り付けた。封じの札は仁科の手製である。それらを何枚か持ってきておいて正解だった。

 妖の女は顎を震わせ、がちがちと歯を鳴らす。札の抵抗もままならないようで、やがては萎びて事切れた。ざらりと崩れ、跡形もない。

「ったく、油断も隙もないよ。ここは幾らか清浄きれいだと思ってたのに」

 肩を揉みながら、鳴海は袖の中にあった煙管キセルを取り出した。一服しなくちゃ、どうにも落ち着けない。しかし、火を持たないので意味がなかった。

「チッ……しょうがない。戻るか」

 草むらは人気もなければ建物も灯りもない。少し開けた平地であるのに、何故かここらだけ寂れている。遠くの方で水が流れているから水路か川があるのだろう。

 鳴海は煙管を指で弄びながら、賑やかな場所へ足を傾けた。

 唐突に、ガクンと膝が折れる。よろめいて足元を見ると、腐敗しふやけた指が足首を握っていた。

「――シブトイッテ、言ッタジャナイ――」

 指は一人だけではない。背後を振り返れば、無数の何かが忍び寄ってくる。ズルズルと長い髪の毛を引き、腸を落としながらこちらへ向かってくる。

「う、わっ!」

 伸びてくる手が群がって、鳴海の足を掴む。そして、思い切り強く引っ張られた。足首が今にも千切れてしまいそう。

 草を掴むしか為す術がない。藻掻こうにも、身動きがどんどん困難になっていく。引き摺られるまま、その終着を目で認めた鳴海は息を飲んだ。

 ふやけて膨れた女の死骸が蔓延る、黒々とした川がそこにあった。手繰り寄せるようにして、鳴海を川へと引き摺り込んでいる。

 ヒヤリとした何かが足の指を触った。それがどんどん全身を舐めていき、水の中へと吸い込まれていく。

 ――畜生……!

 視界がぼやけてきた。しばらくは這い上がろうと手を伸ばしていたのだが、それは虚しく空を掴むだけで呆気ない。

 とぷん、と黒に飲まれる――


 ***


まじない師の話を聞いたことあるかい?」

 客の相手をしていると、そんな話に切り替わった。

 呪い師、とは。

 一華は小首を傾げて答えた。

「存じませんわぁ。そんなんがあるんやねぇ」

「知らんか、まぁ、一華には関係ないことよ。どうも、最近流行っているらしくてね。その呪い師に頼めば、恨みを晴らしてくれるんだと」

 ありきたりな話、ではある。しかし、そんな呪い師がいるとは知らなかった。

 それならば、あの蘭子が呪い師に頼んで自分に何か呪いをかけたようにも考えられる。

 一華は歯ぎしりしたい欲を抑えて笑みを湛えた。

「その呪い師とやらの名はなんと?」

 澄まして訊ねてみる。すると、男は笑い声を上げた。

「おっかないなぁ。なんだい、一華。おめぇさん、呪いたい相手なんているのかい」

「うふふ。女は誰しも、くろ~い感情が流れているものよ」

 滾るように沸々と。そのどす黒い感情は全身を流れる。

 そういうものだ、女は。己が優位にいなければ、醜い嫉妬を露わにし、小賢しく地位を確立しようと周囲を貶めていく。生まれついた汚れとも思える。

 それは当然、蘭子にもあって己にもあるのだ。

 蘭子に一番を譲ってしまえば、後は堕ちるのを待つだけになる。しかし、負けてはいけないのだ。このちっぽけな虫籠の中で生き抜いていかなくてはいかない。もう後戻りは出来ないのだから。

 一華は、幼い頃に叩いた大口を思い出した。

 ――見世一番の女郎になる。価値のある女になってやる。だから……

「一華?」

 男の囁きに、ハッと我に還る。

「なんだい、悩みがあんのか? 最近、なんだかおめぇさん、悪い噂が立ってるよ」

「へ?」

「知らねぇかい。まぁ、こんな籠に閉じ込められてちゃあ仕方ないわな。いいか、一華。こいつは噂だけどよ、おめぇにはどうも蟲が湧いて見えるらしいんだ」

「はぁ……」

 その話は幾度となく耳にしている。それなのに客足は絶えないが。

「そんでよ。俺は、おめぇのことが心配で。だからいいこと教えてやる」

 さて、なんだろうか。

 男の言う「いいこと」など、期待するに値しない。まったく無価値な代物だ。

 しかし、今は彼を酔わせなければいけない。俄然、興味のある素振りを見せて、耳を傾けた。

「いいこと、って?」

「巷で噂の呪い師、その名は影狼かげろう。それが、どうも女郎たちに人気だそうで、なんでも呪い代行ってやつをやっているらしい」

 どうだい、おっかない話だよなぁ? と、彼は笑ったが、一華はもう表情を繕うことが出来なかった。


 ***


 同刻。

 痩身の男が一人、人気のない草むらに立っていた。

 見渡す限り、群青色の空と平地。同じ色をしているのに、何故か境界が分かる。

 草を踏みしめ、何もない虚空を睨みながら、生ぬるい風を受けていた。

 ふと、何か硬い棒きれの感触が草履から足の裏へと伝わる。

 拾い上げ、彼は深い溜息を吐いた。

 それは持ち主不在の煙管だった。刻み煙草が詰まったまま。火を点ければすぐにでも吸える。

 彼は懐から、店にあったマッチを取り出して擦った。そして、雁首の中に詰まった煙草へと赤い火を入れる。

 渋みのある強い匂いが鼻をついた。思わず顔を顰めてしまう。そのまま、嫌そうに煙管に口をつけて煙を吸った。

 ゆっくりと、ゆっくりと。全てを吸い込んでしまわぬよう、蓄えるように吸い込む。それから、すぐに吐き出した。

 煙が舞って、揺らめきながら漂う。

 その後を追うように、彼はまた先へ進んだ。煙は絶えることなく彼を誘っていく。ふらりふらりと曖昧に。

 時折、風に攫われればまた煙管を吸う。その繰り返しで、歩を進めていくと、ようやく煙は終着点へと辿り着いた。

 黒く淀んだ川が足元にある。そのさざなみを、彼はじっと見つめた。

「――鳴海。真夏とは言え、水遊びとは感心しませんね。それとも酔い覚ましのつもりですか?」

 ふぅ、とまた息を吐き出す。

 すると、淀んだ川の水が一気に吹き飛んだ。


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