参・蓼食う虫も好き好き

 水土里町は吹山村と隣接した町である。

 江戸より昔、山を切り開いた後に出来たその一帯では最も盛んな大町として名を馳せていた。

 近年は都市から線路を引いてこようと町全体が資金繰りをしているという。

 町民のほとんどは、旅籠や料亭などの宿場を切り盛りしている者が多く、鉄道開通に賛同するのは必然であった。

「水土里ニモ延ソウ、鉄ノ道!」と角ばった文字の幟があちこちに。

 そんな大通りをまっすぐ西へと行けば、豪奢な造りの朱い門が見えてくる。そこが遊廊への入口だ。

 明治初期、政府によって出された条例で花街の管理が厳しいものに変わった。しかし、名ばかりで実態はあまり変わっていない。

 帝都・東京で栄える吉原など、営業が難しくなった見世が郊外へ移転するのもままあることで、水土里町も元々あった飯盛旅籠を大きく遊廊へと昇格させていたのだ。

「そう言えば、櫻幹の逸話は水土里町から流れてきた話のようですよ」

 群青と茜のその隙間に、切込みが入ったような白い月が浮かぶ。そんな空模様をぼんやりと眺めながら、仁科は上機嫌に言った。

「あの逸話、実は少しだけ誤りがあるんです」

 山道に差し掛かり、ふと振り返る。背後の鳴海は恐ろしく仏頂面に腕を組んでいた。

「無粋な顔をしますね。良いじゃないですか。似合ってますよ」

「煩い」

 睨みつける鳴海。

 無理やり着替えさせられた茶の着流しに、結い上げた髪の毛を下ろして一括りにまとめた、通常よりも地味な姿がそこにあった。目を縁取っていた化粧が消えると、こざっぱりした素顔が現れる。

「で、なんだい。逸話の誤りってのは」

 話が途中で切れてしまったので改めて繋ぐ。

 櫻幹と言えば、記憶に新しい。今になって蒸し返すとは。

「元より、水土里町には江戸の時代に『遊郭』はんですよ。出来たのは明治も初期。当然『遊女』なんてものもない。水土里から流れてきた話、というならば」

「あぁ……成る程」

 そう言われれば確かに、と頷ける。

 では、どうしてそんな誤りが生じたのだろうか。新たな疑問を浮かばせていると、仁科が更に続けて口を開いた。

「吹山村は、昔に水土里町内の派閥争いに負けた一部の人間が追いやられた村、という……しばらく村には嫌がらせの色々な厄が運び込まれたとかで、櫻幹の話もついでに流れてきたのでしょう」

「ふむ……本当にそうだとしても、あの櫻は一体なんだっていうのさ」

 ついでのように伝わった怪異。とは言え、化物が染み付いた櫻である。逸話の通りならば、殺された遊女が櫻へと成りすましたとされているが、その話だと少しどころか大きく話が変わってきそうなもの。

 いくら脳内で転がしても、真相なんて分かりはしない。

 鳴海は思考を止め、仁科の見解を待つ。しかし、仁科は困惑の笑みを浮かべるだけだった。

「――それが分かれば良いのですが」

 根拠があって言ったのではなかったのか。難題を投げつけられたような気がし、鳴海は気難しい顔で押し黙る。

「もしも、正体が分かれば真文さんの目を治すことも可能かもしれませんね」

「心にもないくせに、よく言うなぁ、まったく」

 仁科の呟きで昼間の一件を思い出す。そしてチクチクとした嫌味を投げる。

「お前ほど櫻幹の呪いを有効利用しようと企む悪党はいない」

 仁科はついに笑みを引っ込めた。これにはさすがに堪えたか。鳴海は侮蔑の眼を向けて鼻を鳴らした。

「しっかしまぁ、こんな山道を夜中に歩くなんざ……本当、どうかしてる」

 それに対し、仁科は宥めすかすように「まぁまぁ」とやんわり言うだけで相手にしない。

 鳴海は半眼で仁科の背を睨んだ。背後から一発、蹴りや拳骨をお見舞いしても良かったのだが、足場の悪い砂利道で行うのは懸命ではなかろう。

 それに――

「あっ!」

 何気なく大声を上げてみる。

 瞬間、仁科が素早く振り向いた。その鬼気迫る一瞬の動きに、鳴海はニヤリと口角を上げた。

「……悪ふざけは良くない」

 細い息を吐きながら、仁科は言った。穏やかなのに、咎めるような節がある。どうやら、危機感の察知力はほぼ万全をきたしているらしい。

 夏の陽入りは遅い。しかし、人気のない道である。獣ならまだしも、人ならざる者や妖怪の類であれば速やかに対処しなくてはならない。

 花街へ行くからと浮かれていないだけマシか、と鳴海は悪びれることもなく笑い声を上げた。

「たまにはこうしていびらなくっちゃねぇ。あたしだって息が詰まるのさ」

「……登志世。お前は、そんな言葉遣いはよしなさい」

 それに、声も駄目。気味が悪いからやめなさい、と真顔で厳しく言う仁科の言葉はいつになく辛辣だ。

 小言のツケがここで回ってこようとは。到着まで、だんまりを決め込んだのは、いつもとは違う慣れない格好だからか。


 道は時折、夏日であるのにひんやりと寒気を伴う以外、特に大それた物の怪などに遭うことはなかった。

 仁科の守りは確かに強いものなのだが、万一ということもある。しかし、それは杞憂だったらしく、気づけば坂道を下って町の入口にまで辿り着いていた。

 鳴海は水土里町に来たことがなかった。いや、正確には吹山村へ来る道中に立ち寄ったことがあったのだが。それももう幾年前の話か。

 たった数年で、町は色の鮮やかさを増していて、辛気臭さが漂う吹山村の夜とは比べ物にならない。

 木材である扇形の門は年季も入っている。それなのに一度足を踏み入れれば、なんと華々しいことか。あちらこちらに灯りがついていて、そのどれもが旅籠や飲み屋である。

 夜だというのに、気合の入った客寄せの男。おしろいを塗りたくった派手な女。煌びやかで活気が溢れており、さながらそこは真夏の夜が魅せる異世界。

「さて、着きましたね……水土里町へようこそ」

 まるで、自分の城だとでも言うように仁科は満面の笑みを浮かべる。

 鳴海はこの景色に圧倒され、夜の町に怖気づいていた。


 ***


「あの娘、まぁた客に逃げられたんだってよぉ」

 その密やかで隠す気のない声が、背筋を這うように聞こえてきた。

 襖の先にある廊下で、煙草を蒸す年増の姉女郎、蘭子らんこかえでだった。

 しかし、彼女らよりも店の稼ぎ頭は一華かずかが一番であるのは誰もが認めること。陰口は嫌でもついてまわる。

「最近、どぉも不調じゃない? いいわねぇ、人気者はのんびり出来て。あたしらのように齷齪あくせくと働かなくっていいんだもの」

「蘭子さん、聞こえるわぁ。あんまし言うと告げ口されて叱られっちまうよ」

 昼の見世が終わり、夜の見世が始まる束の間。

 支度前ですっぴんの姉たちは言葉と裏腹に、優雅に時間を潰している。それを、一華は唇を噛み締めながら耐えていた。

 ――よう言うわ。その口、いつか開かせないように縫い付けてやる。

 そんな恨みを頭の隅に置いておく。

 彼女は決して気が弱いわけではない。禿かむろや下の娘たちにてきぱきと仕事を教え、あれこれと世話を焼いていたし、姉女郎にも文句の一つは言ったり言わなかったり。

 一華の立場が悪くなったのは、ついこの頃だ。

 徒花は、この水土里町遊郭では一等の見世。元は飯盛旅籠だったのを遊郭建設時に改築し、華やかな楼として生まれ変わったのである。

 中でも一番を競っていたのが一華と蘭子だった。どちらも美女で人気がある。常連の多くは二人を指名するし、遠くから来る客も一定期に通うほど。

 二人の間で違いがあるなら、それは歳だろう。一華は十代半ば。一方、蘭子は飯盛旅籠の頃からの古参。故に、蘭子をはじめとする年増の女たちが面白くない。一華に常連を取られたと泣き喚く者もいた。

 この楼で生き抜くには人気が全てだ。とは言え、特別何か不正を働いたわけではない。ただ、顔立ちの良さと年と愛嬌の三拍子揃っていただけなのだ。

「恨みを買うのは承知の上。きっと蘭子姉さんが仕掛けてくる」

 彼女は近頃の異変にすぐさま気がついていた。

 肉欲に駆られるべく性器をぶらさげて来る男たちが、女の体を前に恐怖の色を浮かべて逃げ惑うなど前代未聞だ。だが、身体のどこにも異常は見られない。座敷に上がってすぐ見世一番の座を手にしていた彼女にとって、これはあるまじき不祥事だった。

 二人目の客で確信をしたのだが、どうものだという。

 これは相手の男にしか見えず、自身の目には映らない。呪いの類か。しかし証拠を裏付けることができずに、悩みは一向に解消されない。

 そんな時である。が見世に来たのは――

 一華は懐に手を差し入れた。ほっそりとした指で、胸に忍ばせていた小さな巾着袋を摘む。そして、姉たちが蒸す煙草の匂いを鼻の奥へと押しやりながら、巾着の感触で落ち着きを取り戻す。

 ――私には、これがある。いざとなったら……

 死ぬ。

 それを実行するには、まだ早い。

 藁にもすがる思いで彼に願ったのだ。今はまだ我慢をしていよう。真実を知るまでは、大人しく。

 一華はごくりと唾を飲んで、夜更けを待った。

 今宵の月は細く、霞んでいる。それを補おうとする点々の火に眩み、思わず目を閉じた。


 ***


 その男こそまさに今、小さな酒場で安酒を煽っていた。

 見世はまだ開いていないから、その間の暇つぶしだと行きつけの飲み屋に立ち寄ったのである。

「さぁ、お立ち会い!」

 上質とは言えないささくれた木机の上に、今しがた飲み干したばかりの猪口を、どん、と大袈裟に置く。

 聴衆には親父や芸妓、店の若い者まで。空の猪口をずらりと囲み、一様に睨む。むむ、と唸る声があちらこちらで立ち上っていると、猪口に近い人間が「おお!」と声高に叫んだ。

「なんと! 飲み干した酒が……みるみる湧き出てくる!」

 パン、と手のひらを叩けば叩くほど、酒が猪口から垂れ溢れていく。それを聴衆共はどよめきの声を上げて拍手喝采を送った。

 得意げに笑う仁科の様子を、溜息をついて遠巻きに見るしかない鳴海はやるせない気持ちを抱く始末。

 猪口に注いだ酒をちびちび口に運びながら周囲を見渡した。

 特に何も感じなければ異質な者も気配も見られない。この土地は清浄すぎて思わず肩を緩めてしまう。

 吹山村では、一歩外で油断しようものなら厄がまとわりついてくるのに。あの村はそもそもに良い場所ではないのでは、と訝しがった。

 故郷以外に他の村や町がどうだかは知らないが、とにかく水土里町は清らかで心地が良い。

「あら、お一人? 良かったらお酌しましょうか」

 愛嬌を無償で振りまいた若い女が、しずしずとこちらへ寄ってきた。

 面倒そうだ、と思わず眉を寄せる。繕いの笑みでも浮かべてやるのだが、今宵はなんとも調子が悪い。

「あんたは、あれ見なくていいのかい」

 指で仁科を示すと、女は小袖で口元を上品に隠して笑った。

「あんなのイカサマでしょう。分かるんですのよ、あたし。こう見えて目と鼻がいいの」

 撒くのに失敗した。あまり喋りたくはないのだが、気をつければも出ないだろう。日頃の横柄はどこへ行った。意識すれば存外難しい。

 徳利を傾けるいじらしい女に、渋々応えながら鳴海は益々しかめっ面でいた。

「この辺は初めて?」

「……あぁ、まぁ」

「どうです? いいところでしょう。空気も澄んでて賑やかで。夜は特に毎日がお祭りのようで」

「ふぅん、そんなんじゃ静かに眠れやしないねぇ。一日くらい休んだっていいだろうに」

 声を低めてしまえば、言葉も相当ぶっきらぼうになってしまう。駄目だ、ちっとも空気に慣れない。

 それでも、鳴海は女の酌を何度か受けた。

 安酒は喉にくる。冷で煽るも、その辛さに目尻からは薄っすらと涙が溜まり、鼻を抜ける強い刺激が堪らなく止まらない。何故か。

 普段は滅多に呑まないし、特に酒は岩蕗から送られる大吟醸しか含まない。舌は肥えているはずなのに、知らぬ銘柄のただ辛いだけの酒が妙にすすむ。

 これは恐らく、異世界に足を踏み入れたせいだろう。雰囲気がそうさせるのだ。

 何度か酒を流し込むと、またも歓声が遠くで上がった。仁科が更に調子に乗っているらしい。

「兄ちゃん、すげぇな!」

「お代は結構ですよ。その代わり、お話を聞きたいのですが」

 気のいい親父たちを前に、仁科は含み笑って酒を飲む。その飲みっぷりに、聴衆はとにかく盛り上がる。

 鳴海はその様子を横目で見やり、ふてぶてしく鼻を鳴らす。

「あらま、お兄さん。お酒、まだ飲み足りないかしら」

 徳利が空になったのか、女がころころと笑いながら訊く。

「いんや、もう充分さ。ご馳走さん。代金はあの男に払わせといて」

 いつまで経っても席を立たない仁科なので、こうなったら自分だけでも徒花へ乗り込もう。そんな気概を持ってしまったのは、回り始めた酔いのせいか。

 しかし、

「いやだ、そう連れないこと言わないで。貴方みたいないい男に会ったのも、きっと何かのご縁。結構しぶといんだからね、あたし」

 鳴海の腕に、女が絡みつく。その突然の重力に思わず仰け反った。

「良いところに連れてったげるわ」

 耳元で囁く甘ったるい声。振り払おうにも、それは何故だか難しく、引っ張られるままに鳴海は店を出て行った。


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