弐・備えあれば憂い無し

 その文が届いたのは、先日のことだった。

 仁科はたまに隣町の水土里みどり町へと出かけるのだが、決まって町の西部に現れる。そこは所謂、花街で、小さな楼や旅籠が軒を連ねている。

 吹山村にはそういった見世がないということもあり、ハメを外すには丁度良い遊び場だ。

 その一方で、鳴海は興味がないことを理由に誘いを断ってきていた。そんなことだから、彼がどんな遊びをし、人脈を広げているかなど知る由もない。

「私は何も、ただの遊びで水土里へ行くわけではないのですよ」

 決まって彼は言い訳をするのだが、別に咎めてもいないのだから堂々と仕事を怠けていると言えば良かろう。遊び呆けているのは今に始まったことではない。

 鳴海は適当に相槌を打っておいた。

「それで、どこに行ったって?」

「『徒花あだばな』という楼がありましてね。あそこは町一番と名乗るだけ確かに良い。あの岩蕗さんも実は贔屓にしているらしく、とにかく上玉揃いで……あれ。登志世、話が脱線しています」

「お前が勝手に言ってるだけだろう。あと、登志世って呼ぶな!」

 拳を畳に落として、鳴海は機嫌悪く言う。

 仁科は少しだけ顔を引きつらせた。

「――では、本題。実はその『徒花』から文が届きました」

 気を取り直して、ぺらりと薄い紙を袖の中から引っ張り出す。仁科はそれを畳の上に広げた。

「そこに、名がありますね。一華かずかさん、というそうで。彼女はこの見世一の人気女郎です」

 一目見ただけで分かる、のたくったような筆文字が紙の上に連なっている。鳴海はその下手くそな文言を目で追いかけた。

「ふうん……なるほど。そんでこれは一華からの文ってことかい」

 時折、文字が間違っているものもあるが、紛うことなき仕事の依頼であった。

 客に逃げられる、これは物の怪か妖か得体の知れない力によるものだ、という。

 脈絡も確証もない話ではあるが、ただ客に逃げられるからといって妖に繋げる発想を持つのならば、否応なしに引っかかりを覚えるもの。

 それに、この送り主は徒花の店主とあった。一華という遊女が店主なわけがないので、なかなか出鱈目が多い不可思議な文である。

 ただの当てずっぽうで言ったわけではない鳴海の言葉に、仁科はニヤリと笑った。その表情が憎たらしいが、取り立てて怒鳴るところでもない。

 鳴海は団扇の持ち手で、店主の名を指し示した。

「一華が店主の名を語って書いているに決まっている」

「ご名答。こんなのものを店主がわざわざ書くわけがないのです。見世の評判が落ちかねない。特に、水土里一の見世ですし。私は、この文を番頭から受け取ったんですがね、絶対に中身を見ているはずなんですよ。ただ、こうして届いたということは店主である女将には知られていない」

 その饒舌な話を聴きながら、鳴海は紙の端に這う小さな羽虫に目を走らせていた。その様子に仁科は口を閉じ、目を細める。

 視線に気づいた鳴海は紙の端を睨みつつ、気を取り直して文の内容を読んだ。

「成る程。だが、客が逃げる……って言われてもねぇ。妖が絡んでるっていう根拠がないからなんとも。それに勿論、上玉なんだろう? この一華ってのは」

 一通りを読み終え、紙を放ると団扇を掴んで胸元を仰いだ。向いに座る仁科は涼し気な顔をしているのだが。

「はい。かなりの。私が言うのだから間違いない。先日に立ち寄った時、ちらりと見ただけでしたが、人気なのもよく分かります」

「ふーん」

「だから、直接お話を聞いてこようと思うのです」

「ほーん」

「ですから、お前が必要になったら呼びに戻りますので。では、行ってきます」

 そう言って立ち上がる仁科。鳴海は素早く仁科の着物を掴んだ。

 途端にガツンッという痛々しい音が立ち上るが、どうやら足を取られた仁科がよろけて畳の上に突っ伏した模様。だが構うことはない。鳴海は低い声でじっとりと言った。

「まぁ待て。そんなに急ぐこたぁないだろうよ。お前、さては遊びに……」

「仕事です」

 鼻をぶつけた仁科は呻きながら即答した。

「どうだか……大体、花代はどうしてるんだよ」

 かねてよりの疑問だった。

 ここ猫乃手は実入りが良くない。それにも関わらず、一体どこから馬鹿高い花代を懐に忍ばせているのか甚だ怪しい。

 すると、仁科は鼻を擦りながらあっけらかんと答えた。

「ツケです。勿論、岩蕗さんの名で」

 この甲斐性なしを前に、鳴海はもう頭を抱えるしかなかった。


 そして、仁科は丸一日帰らずだったのだが、今しがたようやく干からびそうな状態で猫乃手へと戻ってきた。

 梅を堪能し、何の説明もせず真文に「頼みがある」と言い出した。鳴海は眉を顰めて、仁科を見つめておく。

 怪訝な顔で真文は板の上に座り込んでいた。彼が「頼みがある」と言った際は、何か良からぬことが起きそうで身構えてしまうらしい。案の定だった。

「えぇ、まぁ急なことで申し訳ないのですが、真文さんに店の留守を頼みたいのです」

「え」と、真文の息を飲む短い声。「えぇ……」と、鳴海の絶句した驚き。

 これには、双方同じ思いを浮かばせていた。

「仁よ、真文の家事の酷さはお前も身をもって知っているだろう。今はなんとかマシになったけれども。別に店を空けるくらい、いいじゃないか」

「そうです。私を一人にしておけば、もっと良からぬことが起きます」

 この連携を仁科は実に愉快そうに見ていた。そして、両手のひらで二人を制して咳払いをする。

「この時期、店を訪れるのは人だけではないのです」

「ということはつまり、面妖なる者が来ると……」

「はい」

 どこまでも薄情な返事に、真文は顔を青ざめた。

 恐らく、彼女の脳裏に浮かび上がるのは怪異や怪談、妖怪絵巻の図画などだろう。頭の大きなもの、目が無数にあるもの、手足の長いもの、獣の如き鋭い爪や歯を持つもの……錚々そうそうたる魑魅魍魎を想像するだけで身の毛がよだつ。鳴海も苦い顔を浮かべた。

「い、いくら仁科先生のお頼みでもそれは少々、荷が重いと申しますか……そのぅ……」

「心配は無用。貴女には櫻がある。何かあれば櫻が貴女の守りになってくれますよ」

 確かに、真文の左目に宿る櫻の呪いはある種の妖には忌み嫌われるものだった。これが今じゃ守りとなっているらしく、それを梅雨の時期に確信したのも事実。しかし、彼女は首を縦には振らなかった。

「異形の者が来るやもしれないのですよね?」

「……でしょうね」

「お断りしても良いですか」

「おや」

 珍しく言い淀まない姿勢に仁科は目を開いた。真文は口元を引きつらせながら言う。

「怖いのです。目にするのはとても恐ろしい。申し訳ないのですが……」

に恐ろしいものはありませんよ。真文さん」

 澄ました声で真文の肩に手を置く仁科。その声音には何やら企みがありそうだ。

 仁科の右掌はすでに完治していたのだが、彼の手を貫いた傷跡が薄く残っている。それを見やった真文は目を伏せた。

「おい、仁。いい加減にしろ」

 非道な仁科の態度にようやく鳴海が動く。なんとなくだが、彼の企みに気がついた。仁科の策謀に嵌まることが癪故に、ここは先手を打つべきだ。

「大体、恐ろしいものなんか来るわけがないだろう。来るとしても小物だよ。小さな爺とか、河童とか、毛玉とか。たまに悪質な輩もあるが、それは大抵が狐だから問題ない。頭の上の葉を取ってしまえば逃げていく」

 苛々とした口調だが、それは仁科だけに向けている。そのぶっきらぼうな庇い立てに、真文はほろりと緊張を解くように張っていた肩を落とした。

「狐、さんが来るのですか」

「えぇ、まぁ……その狐印のその軟膏、他にも彼らは猫乃手にある品を請け負っていますので、その代金の取り立てに、たまにこちらへ来るのです」

 鳴海からの叱責で、仁科は少しむくれながらも説明をした。真文の脳内では大方、衣をまとった狐が戸でも叩く情景を浮かばせているのだろう。その朗らかな笑みから、手に取るように分かる。

「随分と可愛らしいですね」

「馬鹿言うな、真文。あいつらときたら……」

 刹那、鳴海の口を仁科が手のひらで封じた。それにより話の続きが聞けない真文は首を傾げたが、仁科は「なんでもありませんよ」という押しに頷かざるを得なかった。一方、藻掻く鳴海は仁科の手を払いのける。

「実際、会ってみてはいかがです? 彼らはとても愛くるしいですから、その軟膏のお礼も兼ねて」

「仁……」

 しかし、口を塞がれてからの鳴海はもう何も言わなかった。それにより、真文の心が揺らぎを見せている。今や、彼女は狐と話すことも可能だと、そう思案しているに違いない。

「では……承ります」

「有難うございます!」

 真文の声に、仁科は深々と頭を下げた。

 えらく上機嫌な様子の彼は、真文から貰った壷からもう一つ梅の実を取り出して食べる。咀嚼し、ごくりと飲み込むと、帯に巻いていた鈴を一つ外した。

「これを預けましょう」

 真文の手を開かせ、その上に大振りの鈴を置く。転がせども、不思議と音が鳴らない。真文はしげしげとそれを見つめた。

「大事があれば、二度振ってください。それだけで、事は収まりますので」

「はぁ……」

「因みに、鈴は鳴りません。常に持ち歩いておくように」

 それから仁科は、今晩から店を開けるので、明日の朝から夕刻までの店番を真文に頼んだ。


 ***


 鈴と軟膏を手に真文が店を出た後、仁科は鳴海の額を指で弾いた。爪が額にぶつかり、鳴海は痛むその場所をこすった。歯ぎしりして睨みつける。その様子を笑いながら、梅の壷を小脇に抱えた。

「術は解けましたよ。まったく、お前はどこまでも野暮ですね」

 その言葉に、鳴海は眉を吊り上げた。

「お前みたいな碌でなしに言われたかぁないね。ったく、ああして真文を騙すのも大概にしろよ」

「騙すなんて、また非道いことを。失礼な。私は、ただ狐の取り立てを彼女に任せたかっただけで」

「そらみたことか」

 ふん、と鼻を鳴らして、仁科の持つ壷を横取る。

「わざわざまでしやがって。あーあ、本当に人でなしだなぁ、お前は」

 ドスドスと、畳を踏み鳴らして彼は奥の炊事場へと引っ込む。土を掘って作った小さく不格好な収納箱へと梅の壷を入れておいた。

 店の裏手にあるのは小さな炊事場で、これまた小さな竈がある。土間は人が一人動き回れるほどの広さであり、僅かな食器が置かれている。

 鳴海の手製である収納箱は、酒の瓶と日持ちの良い食材があった。その真中に壷を置けば、箱の隙間は見事に埋まる。鳴海は満足気にそれを眺めて蓋をした。

 背後から静かに声を掛けられ、思わず肩を震わせる。

「なんだい。いつもなら登志世と呼ぶのに……」

 気味が悪ぃ、とぼやく。それをにこやかに手招きしながら仁科が待っている。

 表の座敷へ戻ると、仁科は一着の着流しを鳴海に寄越した。あまり着古していない、折り目がきちんとついたものである。

 それを見るなり、鳴海は青ざめた。

「お、おいおいおい、仁……まさか……」

「着替えましょう」

 問答無用。

 その言葉は、鳴海にとっては死罪宣告のようで、首を激しく横に振る。

「嫌だ!」

「嫌だと言われても、折角の花街でそんな格好は……」

「ふ、服の自由くらい認められているはずだ!」

「いや、駄目に決まってるでしょう。まったく、この派手な衣装は女性だから似合うのですよ。お前が着ても無意味ですし、目立つし、いいから早く」

 珍しく小言を並べる仁科に、鳴海もまた珍しく気圧されてしまった。


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