夏の章 蟲独〜コドク〜

壱・真夏の夜の悪夢

 蠟の灯りが煌々と。怪しい揺らめきでへやを彩っている。

 仄かに鼻腔をくすぐる香のせいか、それとも薄暗がりの静かな間のせいか。

 じっとりと汗ばんだ手をひやりとした女の肌へと滑らせた。熱気を吸い取るような心地良さであるのに、体の内側は熱く滾っていく。

 女はまだあどけなさを残した大きな瞳を天井へと向けていた。

 ジリジリと蠟の芯が焼ける音が耳の中で広がる。

 同時に、自身の熱い吐息も猥雑な水っぽい音も。それ故か、全身は更に強い刺激を求めていた。

 彼女の寝着の中へと堅い手のひらを伸ばす。

 真夏だというのに、女の体は水を浴びたように冷ややかだ。その小ぶりな胸は柔らかく瑞々しい。程よい弾力。それをもぎ取るように掴めば、彼女は小さく声を上げた。

 それがどうにも嬌声じみており、滾っていたものが弾け、理性は飛んだ。

 酒が混ざる湿気た息を女の小顔にふりかけた。しかし、彼女は顔色一つ変えずに、潤んだ瞳を向けるだけ。

 これは仕事だ。客を悦ばせ、溺れさせ、虜にするために、女たちはそんな顔をするのだ。

 それにまんまと絆されてしまうのは、己が欲望のせいである。ただただ体の癒しを求め、大金はたいてまで、一夜の甘いふわりとした夢を見ようというのだから。

 女は瞼を薄めに閉じた。

 啼けと言えば、艶めいた声を上げてくれる従順な娘である。舌先で胸の頂をなぶり、指の腹を腰から下へと伸ばそうものなら、彼女は少しだけ身を捩って動きを見せた。その厭らしさのせいで、鼻の下が緩んでしまう。ニヤリと口角を上げる。

 そんなだらしなく垂れ下がった恍惚の目元を、女は薄目からそっと覗き見ていた。

「旦那様」

 女が囁く。

「今宵は、何よりです」

 言うや否や、彼女の体は先ほどよりも弛んだように思えた。縛っていた何かが解けていくかのように。

 ――見世一番の女が何を緊張してるというのだ。

 彼女を抱くのはこれが初めてではない。それなのに、久しく指名したら彼女はどうにも浮かない素振りを見せていたのだ。まぁ、今はどうでもいい。思考は不要だ。

 まるで寝返りを打つように、女がすらりと脚を広げる。それにより、細い腿が露わになった。焦れったくも、不快と快の間にある感触が、ぞくりぞくりと背骨にまで到達していく。

 同時に彼女もまた、に似た息を吐いた。

「――ん……?」

 それまで鼻息荒く、息を漏らしていたのだがふと懐疑の声を、彼女の下腹部に落とした。

「なんだ、これ……」

 暗がりのせいで目を凝らさなければいけない。

 彼女を弄っていたその手のひらをまじまじと見つめてみる。粘着質な汗と体液の、その中で蠢く、。小さな、小さな。男の手のひらをくすぐるように這う――

「ひっ!」

 それを認めた男は目の前に横たわる彼女の着物を全て剥ぎ取った。

 青白くぬらりとした腰元から下、浮かび上がってくる。

 徐々に認められた、それはまさしくむしであった。

 ざわざわと、彼女の全身を覆い尽くすように長く円筒形の蟲が幾つも。そして、それは増えていく。膨らんでいく。一体、何処からどうやって。

 肌から浮かび、ぼろぼろと崩れるように落ちていく。ただ、彼女の身体から溢れ落ちていくのみ。

 しかし、そんなおぞましい状態にも関わらず、彼女はのんびりと起き上がって男を見つめていた。

「どうなさいました、旦那様。何や、お気に召さんことが……」

 小さな唇から舌が覗く。

 いや、違う。無数の足を持つ毒蟲ではないか。

 よく目を凝らさずとも、彼女をまとう蟲は布団を埋め尽くしていた。もうあの滑らかな素肌は見えない。長い髪の隙間からも湧き出るように……

 男はもう、乱れた服のまま悲鳴を上げて室を飛び出して行った。逃げ惑う姿は滑稽に映ることだろう。

 無我夢中で楼から這い出たところで、通りがかった青年とぶつかった。

「どうしました、そんなに慌てて」

 サラリとした髪の毛を揺らめかせ、安穏に訊かれる。

 しかし、悠長に説明など出来る状態ではない。とにかく震える口で吐き出すように言った。

「蟲が! 蟲が……女から蟲が出たんだ!」

 その切羽詰まった声を聞き、周囲の人間が眉を顰めている。そんな中、ぶつかった青年は思案顔で顎に手を当てた。

「蟲が女から……それはそれは、なんとも恐ろしいことですねぇ」

 がやがやと喧しくなるその場で、静観した声だけがどうにも異様だった。


 ***


「――御免下さい~」

 ガラガラと引き戸が開き、店へと足を踏み入れる者があればすぐに、外の熱気ではなく清涼のある空気が頬に触れた。

 外では蟬が咽び泣き、陽が高い夏日である。じっとしていても地面や障子から伝う熱気は纏わりついてくるので、そろそろ嫌気が差していた頃合いだった。

「おや、真文かい。精が出るねぇ、この真夏日に」

 部屋から顔だけを覗かせた鳴海は相変わらずの派手な装いを見せた。

 一方、涼し気な薄手の着物姿の真文は、切りそろえた肩までの髪の毛を上に持ち上げるように結わえた出で立ちである。

 そして両手に抱えるのは壷か。慎重にジリジリと店の中へ入ると、座敷の上がりかまちに置いた。

 座敷よりも僅かに低いその板は、艶やかに黒光りしている。日々、真文が丹精込めて磨いているお陰だろう。

 近頃はようやく掃除にも慣れていたので、鳴海が怒鳴ることも滅多にない。

「なんだい、それは」

 団扇うちわを忙しなく動かしている鳴海は、少しだけ着物をはだけさせていた。開放的な鎖骨に、玉のような汗が浮かんでいる。覇気が出ないのは、やはり夏のせいか。

「お裾分けに。我が家では祖母が梅を漬けているのですが、この時期が食べごろなのです」

 じっとりと溶けるような鳴海に対し、爽快な表情を浮かべる真文。その頭を鳴海はがっしりと掴んで撫で回した。

「偉い! 偉いぞ、真文! いや真文様! こいつぁいい。あたしは梅が大好きなんだ」

 団扇を放り出し、いそいそと板の上に置かれた壷へと寄る。

 鳴海の結われた長い髪の毛束は少し垂れ下がっており、見た目は夏の暑さに喘ぐ美女である。だが、その正体は違う。

 この不自然な麗しさを、真文が近頃密かに羨んでいるなどとは露ほども思っていなかった。

 頭を散々撫で回された真文は、苦笑しながら歪んだ髪をきちんと撫で付ける。そして壷に貼り付けた和紙を開封した。

「夏は体力が消耗しますからね……鳴海さん、お一つ摘んでみますか」

「いいのかい? 嬉しいねぇ。丁度、酸っぱいのが欲しいなと考えていたところでねぇ」

 梅を堪能出来るとあれば、鳴海は終始満悦だった。それを見やる真文もにこやかに笑みを溢す。

「しかし、この中は涼しいのにどうして汗だくなんですか?」

 外よりは幾らかは快適なはずである。真文は大粒の梅を手渡しながら首を傾げていた。その粒を口の中へと放り込み、顔をすぼめながら鳴海は応える。

「まぁ、篭っていたらこれがなんとも、その温度に慣れちまってね。外に出ようもんなら、店から締め出されるからさぁ」

「なるほど!」

 真文は合点した。

「――と仰られるところ、ただ今、仁科先生はお留守なのですね」

「そうさ。まったく、どこほっつき歩いてるんだか……土産にラムネでも買ってきてくれんかねぇ」

 ぼやくも鳴海は「うまいうまい」と唸りながら、舌で梅の実を転がしていた。嬉しそうに釣り上がる目尻を見てか、真文も嬉しそうだ。

「も一つどうぞ。そんなにも喜ばれたなら、祖母に良いご報告が出来ます」

「あぁ、全くもって良い梅だよ。ヨシさんには是非、御礼の何かを持たせたいね……えぇっと、香がいいかな。それとも魔除けか……あ! 櫛なんかどうだろう」

 すっかり元気になった鳴海は、真文から二つ目の粒を貰い、店へと降り立った。所狭しと並んだ雑貨を調べては選りすぐる。

「なんでも構いませんよ」

「いいや、こういうのは大事にしないといけないのさ」

 鳴海は人差し指を立てると、説くように言った。

「真文、これをようく覚えておくんだよ。人は古くからその物に見合う対価を支払うことで成り立ってきたんだ。でもって、この梅の報酬はかなりのものだよ。何せ、このあたしを喜ばせたのだから」

 そして上機嫌に品物を漁る。さて、何を返そうか。棚の中までも物色し、ある物を引っ張り出す。

「これこれ。とっときの軟膏だよ」

 人差し指と中指で挟むように、鳴海は茶色の小瓶を真文に見せた。

「これを毎日、朝晩手の甲、ひらに塗るといい。ヨシさんは手の荒れが酷いから、塗り続ければたちまち綺麗になるよ」

「まぁ……」

 真文は手渡された小瓶をしげしげと見つめて、顔を綻ばせた。華やぐ表情は見ていて気持ちがいい。

「それは凄い、ですね。とても、とても!」

「そうだろう、そうだろう」

 真文の輝く右目を見て、鳴海は高らかに笑った。

のですか?」

 その問いにより、鳴海は笑いをピタリと止めた。

「あ……あぁ、いや、そいつは肌荒れにしか効かなくてな……狐印の秘薬だから、効果の範囲は限られる……」

 途端に口の滑りが悪くなる。と言うのも真文の包帯を盗み見て、どうにも複雑な思いを抱いてしまったのだ。

 真文の左目は治らない。

 どんな薬を使っても、再びその瞳に光を宿すことはないだろう。

 それに鳴海には、彼女のが視えていた。

 あの櫻幹の件から数月は経っているものの、彼女の左目は今でも櫻がひっそりと息づいている。四季に合わせて櫻は、彼女の左目から伸びて枝を空気に触れさせているのだ。

 この枝は他の人間には見えず、鳴海にしか分かり得ないものだった。勿論、真文自身も仁科でさえも。

 そんな穏やかじゃない胸中に悶々としているも、真文は窺い知ることなく喜々として軟膏の小瓶を見つめていた。

「では、手の塗り薬というわけですね! 鳴海さん、有難うございます!」

「いいえ。こちらこそ美味しい梅をご馳走様」

 フッ、と息を漏らして鳴海は真文の左目から目を逸した。

 その時、背後の戸が力なくカラカラと音を立てた。雪崩れ込むそれは、干からびた魚のようであり、突けば脆く崩れてしまいそうな危うさがある。

 まったく誰かと思えば、猫乃手店主の帰還だった。

「あ、暑い……」

 フラフラと店棚を横切り、奥の座敷へ逃げ込む仁科は、こちらに全く見向きもしない。

「ったく、土産の一つもないのかねぇ……そんならそのまま干からびちまえば良かったのに」

 手ぶらの仁科を見下ろして罵ると、彼は眉を顰めた。

「うるさいです、登志世。あぁ、登志世……水」

「はいはい」

 冷たくあしらってやる。

 すると、毎度の応酬が省かれたことに気がついたのか仁科は、倒れ込んだ座敷の上でいたく不満そうな顔で転がっていた。

 水を汲みに奥の部屋へと引っ込んだ鳴海を追うように、真文が座敷へと上がり込む。

「おや、真文さんではないですか。お久しぶりですね」

「いいえ、先生。昨日もお会いしております」

「そうでしたか……うーん。何故でしょう。暑さのせいかどうも日の間隔が狂っているようです」

 座敷に寝転がる仁科のだらしない様子を、真文はクスクスと笑う。

 その賑やかな音が壁伝いに聴こえていた。

「先生。梅をお持ちしましたので、お一ついかがですか。夏は体力が消耗しますので」

「是非!」

 戻れば和やかな空間が目に映る。仁科は真文から差し出された梅を口の中へ放り込み、平然とその実を噛んでいた。割りと厳しい酸味なのに、彼はなんともないのか飲み込むまで表情を崩さない。

「ほら、水だよ」

 湯呑み一杯に注がれた水を、仁科の元へ置きながら「やれやれ」と息をついて畳に座った。

「いやぁ、良い梅ですね。ヨシさんはいい腕を持っている」

「狐印の軟膏を渡しておいたから、礼は済んでるよ」

 素っ気なく告げておくと、仁科は満足そうに頷いた。

「では真文さん、ヨシさんによろしくお伝えください」

 梅一粒で体力が戻ったのか、仁科は深々と頭を下げた。

「いえいえ。こちらとしても多く作りすぎてしまったので……喜んでいただけて何よりです」

 真文は改めて、壷を二人の前に置いた。そして、手にした軟膏の小瓶を大事そうに持つと、座敷から腰を浮かせる。

「それでは、今日はお暇致します」

「あ、待って下さい、真文さん」

 慌てて仁科が引き止める。三和土へ降りようとしていた真文はきょとんと彼に振り返った。

「あの、申し訳ないのですが……少し、頼まれてはもらえませんか」

 その目はどこか浮かない様子。一体、何なのだろう。

 真文と鳴海は首を傾げ、水を一気に飲み干す仁科を見つめた。



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