陸・飢え死に損なった邪神

 ――ただ、恋しかった。

 神として創ったわらわを崇め、畏れ、祀ることを忘れた人間など、相手にする価値はない。

 共にこの地この世で生まれ育ったのも今は遥か彼方へ。

 人が崇め、畏れ、祀ることで妾は幾つもの恵みを与えてきた。

 それなのに。

 文明の進みとはなんとむごいことか。いや、人の移ろう思いこそが恐ろしい。

 幾年の恩恵を忘れ、挙句に厄介払いの道具とする。あぁ、なんと卑しき生き物よ。

 許さぬ。

 恨みは募るばかりで、人を殺めることも厭わぬほど落ちぶれた。それに慣れがくるのもそう遅くなく、山を災いに変えたことも幾度かある。

 あぁ、憎らしい。恨めしい。

 同時に泡立つ恋しく愛しい憧れ。焦がされる。この身がじりじりと焼けただれてしまうくらいに……

 そう。ただ、人恋しかった。

 あの頃のように、恵みに湧いた時代のように、人が何時しか妾を思い出す時が来るのだと、信じて疑わなかった。

 待っていた。幾日も、幾年も、妾の元へ戻りし日を。しかし待てど暮らせど力は衰える一方で、人は更に先へと遠ざかり栄えていく。

「信仰なくしては、存続は難しい」

 どこぞの誰が言っていたように思えるが、とうに忘れてしもうたな。

 だが、その言葉により閃いた。

 妾の力は信仰によって創られしもの。信仰をする者を己で創れば良いのじゃ。

 そのうちに、山はガラクタだけでなく赤子や幼子までが置き去りにされるようになった。

 あぁ、卑しき人間よ。己が子までもを捨てようなど。獣の方がまだ幾らか情があろうて。

 妾もこの子らと同じである。勝手に産み落とされ、勝手に捨てられた哀れな者。その子らを妾がどう扱おうとも勝手じゃろう。

 では、捨てられし者どもよ、妾の下へ来るが良い。その灯火を延ばし、生かしてあげよう。

 しかし、恩恵を忘れ、妾に仇なす人となりし日が来ようなら……その存在を許すわけにはいくまい――


 ***


「主様ニ 逆ラエバ 生キラレナイ」

「生カサレナイ」

「マダ 生キテタイ」

 声は幾重にも重なって、真文の脳内へと擦り込まれた。彼らの棒のような声がどうにも切なく、悲しい。思わず熱い涙が頬を滑っていく。

 生きることに執着があるはずが、どことなく情のなさを浮かべており、その中にそれぞれの意志が見当たらなかった。人に対する落胆や諦めを感じる。

「ダカラ」

「ダカら」

「だから人をここに入れてはいけない」

 それまで散り散りだった声が一つにまとまり言葉を作る。その刹那、辺りの泥や枯れ葉が舞い上がり、真文を覆った。

 飲み込まれる。渦を作る風に、飲まれる!

 小さく悲鳴を上げ、前方にいるであろう仁科の着物を探り、死に物狂いで手を伸ばした。

「仁科先生!」

 思わず名を呼ぶ。

 しかし仁科は振り向かず、体に巻き付く風を物ともせず、腰に提げていたあの大ぶりの鈴を一つ取った。悠長なことに、彼はその鈴を耳元で一度振り、音を聴いている。それが竜巻の中から垣間見えた。

 からん、と重量のある玉が転がる音。

 仁科はもう一度振るった。

 からん。

 音は、轟音の中でも冴え渡っていた。

「……あぁ、成る程」

 唸りの中、彼の閃きが掻い潜ってくる。

 そうしてすぐに、仁科は両手を合わせ一つ、音を高らかに鳴らした。もう一つ。続いて礼を二度。顔を上げ、彼はどこへともなく言葉を掛けた。

「山彦様。かつては山の神と崇められた者。此度は、幾重ものご無礼をお許し願いたく馳せ参じた次第」

 その声は凛と木霊し、力強いものだった。

 真文を舐めるようにして襲っていた風も、音も、一斉に止む。

「失礼を仕り、土足で踏み入れたことも併せ、どうか、どうかお許し願うことは叶いませんでしょうか」

 いやに丁寧な、その言葉。

 神を相手にしているのだ、と真文はようやくここで実感した。

 ざわめきがいつの間にか消え、周囲は竜巻によって蹴散らされた跡がある。仁科と真文はただじっと黙々と応えを待った。

《今更――》

 それが聴こえたのは、一時の静寂の後。地を響かせるような無数の憤った声が折り重なって聴こえる。

《そのような戯言を抜かすか、人間。今更の弁明で妾のこの怒り、鎮められはせぬぞ》

 不穏な言葉に真文は仁科の着物を強く掴む。腹の底が冷え、震え上がる。鳩尾の辺りが疼き、寒気が音を立ててる。

 しかし、怯えを見せる彼女に仁科は微笑みを向けた。強く握るその手を包み、握る。

「お答え頂いた、というならば貴方は私の話をお聞きくださると受け取って良いでしょうね。心ばかりの品ではございますが、酒もご用意しておりますよ」

「先生……」

 何を言い出すかと思えば。余計に煽るだけではないか。真文は思わず非難めいた声を上げてしまった。

「心配は無用ですよ、真文さん」

「そうは言いますが……」

 相手は神様ですよ、と言いかけて口をつぐむ。

 仁科には何か考えがあるのだろう。彼の表情はにこやかではあるものの、身に纏う気は荒々しく強かった。

 それには何やら覚えがある。

 脳裏に浮かべたのは武術を嗜む祖父の、稽古中に見せていた気迫めいた背中。

 その姿を重ね、口を出すのは不要だと悟った。

《――小癪こしゃくな……》

 山に木霊す震え声。

 しかし、それきり音は何もなかった。シン、と静まり返り、風も木々も大人しい。

 神は山への立ち入りを許したのだろうか。そう訝しんでいると、前方に人影が見えた。

 小さな影は小さいままで近づいてくる。顔が大きく、歩調は心もとない。段々と近づくそれは、のっぺりとした落書きのような顔で、およそ人のものではなかった。しかし、童であることは予想できる。

 ――此方コチラへ――

 顔だと分かる部分の下の方、丁度、口の場所であろうそこにぽっかりと開いた穴が蠢く。

 ――此方へ――

 同じ音をもう一度発すると、影は道案内をするかの如く前方の道を滑った。それを目で追い、仁科が言う。

「案内役、でしょうね。行きましょうか、真文さん」

「はい……」

 山の奥深く、しかし道は曲がりくねるでもなく、平坦で真っ直ぐだった。その違和に気づいていた真文だが、仁科が何も言わないので黙っておく。

 彼は供え物として酒瓶を持って来たのだ。腕に抱いているそれを見やり、真文は喉をごくりと鳴らした。

 神の元へ向かい、何をしようと言うのだろう。

 供物としての酒、と考えるのが妥当だろうが、仁科のことだから大凡おおよそ見当がつかない。彼の行動一つ一つが複雑怪奇であるので、凡人の頭では処理が追いつかないのだ。

「あ。そうでした。言い忘れていたことが」

「はぁ……」

 影の行く木の葉の道を辿りながら返事をする。畏れを抱いていたので飛び出すのは囁きの声だった。

 一方で仁科は軽快である。彼は面白そうに、唇の端をつり上げて言った。

「真文さんには、櫻の加護があるので山彦様は手出しが出来ないのです」

「はいっ?」

 その思わぬ白状に、真文は口をあんぐり開け放つ。

「呪いとは、受け入れてしまえば自分の物に出来ます。利用次第では毒にも薬にも。ですから、どちらかというと危ないのはなんですよね」

 開いた口はなかなかに塞がらない。人の気も知らないで、彼はとにかく、のんびり安穏としている。

 それから、足を止めて彼はスッと人差し指を前方に向けた。黒い影がふらふらと、足を止めてこちらを見上げている。

「着いたようです」

 指し示されたその先に――

「え……?」

 真文は思わず息を飲んだ。

 ほこらというにはあまりに粗末だろう。それは、小さな、小さな、屋根のない腐った木材の欠片とも見える。慰めにもならない、か細い注連縄がそれに覆いかぶさっていた。

「こ、これは……?」

「なんとむごい。忘れられた神の末路はこうなるということか……山彦様が怒るのも無理はないでしょうね」

 呆れを表す声。仁科は小さく鼻息を飛ばすと、祠の前で座り込み、腕に抱いた酒瓶を開封した。そして袖に入れていたのか、平たい盃を取り出す。

 真っ赤に塗られたそれは少し古ぼけていて、欠けも目立つ。そんなものを使って良いのだろうか、と真文は更に不安を抱いた。

 しかし、仁科は躊躇うことなく盃に酒を注いでいく。波々と。透き通った液体は艶やかに、ほんのりと甘い香りを放つ。

「貴方へ手向けるには少々釣り合わぬ代物やもしれませんが、何卒お納めくださいますよう」

 静かに声をかける。

 同時に、置かれた盃は。波々と注がれていたはずの酒があっという間に消えてしまったのである。

 それを見届け、彼は安堵の息を漏らした。

「もう一口、いかがでしょう」

 仁科はまた盃に酒を注いだ。僅かに波紋が浮かび、またもすぐに空となる。

 しばらくは一方通行の手酌が続いた。注いでは消え、注いでは消え、その調子は劣ることがない。

 真文は張っていた緊を僅かに緩めた。眉を下げて静かに息を殺して見守る。ここは先生に任せよう、と。

 さわさわと風が頬を撫でた。湿り気のある時期に、しかもここは木で囲まれた場所である。それなのに……地は僅かに水分を含めど、黴臭くなく、それに緑の圧迫感もない。

 柔らかい空気の流れが真文の頬を通り抜けた。何故だろう。甘い優しさを感じる。

 ――それは、まるで母の胸に抱かれる心地良さ。

 真文は目を閉じた。

 ここには、悪いものがない。心地良さのあまり、震えもとうに治まっていた。

「……山彦様。貴方はとても情があり、豊かでお優しい方です。その御心をどうか、いつ如何なる時も忘れずにいてはもらえないでしょうか」

 仁科の静かな声に、真文は目を開いた。

 祠に胡座を掻いて座る、白と朱の豪華な装束を着た髪の長い女性。顔は布で隠されているが、薄紅の口元はちらりと見える。

 彼はその人と話をしているのだと、気づいた。

「確かに、人が行った仕打ちは酷く、貴方を大いに失望させたことでしょう。しかし、それでも人に恋し、愛していた。故に、気紛れとは言え哀れな子供を囲うことにした。そうでしょう?」

 祠に座る山彦は、否も肯もしない。ただ、酒を飲み、仁科の話をじっと聞いている。

「……子供たちを、そろそろ解き放ってはもらえないでしょうか」

 その声には、ようやく盃を持つ手を宙で止めた。面で隠したその表情は読み取れない。仁科は穏やかに後を続ける。

「その優しい行いは、結局のところ、貴方の為にも子供達の為にも成っていないのですよ。光輝あの子もそう。わざわざ山の外へと出したのに、声を奪ったというのは、なのでしょうが……意味を成さない」

 真文は光輝の顔を思い浮かべた。

 表情がころころと変わる、純真無垢な少年を。感情豊かで素直。そんな彼は山彦によって、育てられていたのだ。

「無礼を承知で申し上げますが……貴方の愛は間違っているのです。彼の声を、お返しいただけませんか?」

 風が緑の葉を揺らす。ざわざわと騒ぐその音は、山彦のものか、子供たちか。

 それまで落ち着いていたのに、真文の胸はざわめく風のせいで、またも爪弾くように張り詰めていた。

 その時。

 激しい突風が、盃を飛ばして仁科の顔面を襲った。

「先生!」

 思わず叫び、駆け寄った。しかし、仁科は包帯を巻いた方の片手で素早く制す。

「大丈夫」

 そうは言うが、眼鏡が割れ、鼻筋を赤い鮮血が滴っている。真文は祠を見た。山彦がゆうらりと立ち上がる。

《やはり小癪な……黙っていればいい気になりおる》

 憤怒の音だ。ぴりりと肌の内を駆け抜ける波動がその声と重なっていく。

 しかし、あまり勢いはなかった。段々と小さくなり、張り詰めていた空気が弱まっていく。

〈――しかし、そなたの言う通りじゃ。下手に出る割に大きく物を言うその意気、まぁ悪うない〉

 面の向こうから、ようやくその声を漏らした。

 優しく柔らかく、儚げなその音こそが山彦本来の姿。はぁ、と哀のある吐息を吹きかけて口を開く。

〈気に食わぬのが相当じゃが……そいつは腹いせじゃ。そこの娘を貰う気だったが、櫻はなんとも性に合わんらしい〉

「でしょうね。何せ、この櫻は血の気が多く……いくら貴方でも手に余る」

 仁科は静かに苦笑を漏らして答えた。怪我を負っても平然としている様子に、山彦は〈ほう〉と嘆息する。

〈――そなた、なかなかに良い根性をしておる。端からこの妾相手にたばかるとは、やはり小癪……いや、ただの阿呆かな。兎にも角にもいけ好かん〉

「お褒めの言葉、光栄にございます」

 仁科は満面の笑みで頭を垂れた。山彦はその姿を見下ろし、不機嫌に鼻を鳴らす。

〈褒めておらんわ。あぁ、憎らしい……娘よ、こやつをたんと躾ておけ。二度、会うた時もこの不遜を働けば、二度と口がきけぬよう殺してやろう。良いな〉

 真文は顔を引きつらせて山彦と仁科を交互に見た。物騒な山彦に対し、仁科は平然とまだ笑みを漏らしている。

「これは手厳しい」

〈黙れ! ……あぁもう、久方ぶりの酒で酔うたか。どうにも気が安定せぬ〉

 見ると、酒瓶は空だった。まさか一人で飲んだのか、と真文は驚きの顔を浮かべる。

〈美味であった。やはり酒には適わぬな、已むを得ん……童の声は返そう〉

 山彦は祠の上で立ち上がると、小さく息をついた。長い大振りの袖を翻す。それにより、木々が一斉に音を立てた。両手を上げ、歓喜するように。伸びやかに、暖かな空気に触れている。

 しゃらり、と高い鈴の音が鳴るのと同時に、山彦は小さな祠に足をかけて立ち上がった。

「あぁ、山彦様。不遜ついでに、もう一つよろしいですか」

 眼鏡を袖の中に仕舞い、彼も立ち上がる。山彦は背を向けたままで動きを止めた。肯を示しているのだろう。

 仁科はその華奢な背に向かい、少しばかり声を低めて唇を捲った。

「貴方への悪戯な噂……山彦様に子を捧げれば幸せになる、などという噂を流した者を、ご存知ありませんか」

 その言葉の意味は解らない。しかし、問うべきではないと思いとどまり、真文は黙って固唾を飲む。

 山彦は宙を見上げた。長い髪の毛が滴り落ちるように風になびかせる。

〈――妾の預かり知らぬところで、そのような噂が立っておるのか。まっこと、人というのはしょうのない生き物じゃな〉

 呆れの口調。その後に〈しかし――〉と続く。

〈妾に一つの案を投げた者がおったなぁ……そう、……とでも言っておこうかえ。それ以外にはようと覚えがない〉

「……そうですか。有難うございます」

 鈴の音が空気に触れた。

 ざわめく木々の間から小鈴の音色が楽しげな声に変化する。子供たちの、温かで無垢で一つも曇りのない、快晴の音。

「――真文さん」

 しばらくの間、仁科は一点を見つめたまま動かなかったのだが、唐突に真文の名を呼んだ。

は、あのままにしておきましょうか」

 仁科が指し示す方向。それを見て、真文は息を飲んだ。

 白く、小さな球体がいくつも重なっている。幼子の頭蓋だと認めるのにそう時間はかからなかった。

「……あの、子供たちは、霊魂のようなものだったのでしょうか」

 訊くと彼は首を横に振る。

「いえ。ただ、人を忘れた者だったのですよ。山彦の優しさに触れて、人をやめた哀れな者たちです。そして……」

 仁科が言葉を切る。彼には何か見えたのだろうか。

 言いかけて止まった彼は口を結ぶと、鼻筋に落ちていく血を拭った。そして一つだけ手を打ち、小さく一礼すれば、ようやく真文に向き直る。

「帰りましょう、真文さん」

 あの憂いげな瞳が、ちらりと覗いた。


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