伍・鳴海の交友目録

湿気しけてるねぇ……まったく、いつまで続くのやら」

 仁科と真文が出掛けた後、鳴海は六畳間で木箱で丸い鉢を囲った煙草盆を広げ、羅宇ラウの調子を見ていた。

 どうも具合が悪い。ヤニが溜まっているのか、あるいは羅宇がヘソを曲げたか。

 金属部全てを羅宇から外し、その細い管の中に手製の紙縒こよりを差し込む。その一部始終を光輝が傍らで食い入って見つめていた。

「なんだい? 珍しいのかい?」

 視線に気付いて鳴海は問う。光輝は肩をビクリと震わせるも、ゆっくりと頷いた。

「そうかい、そうかい。しかし、あまり近づくんじゃあないよ。灰が鼻の中に引っかかる」

 ニヤリと口の端をつり上げて笑ってやる。光輝は眉を寄せて訝るように首を傾げた。声が出ない変わりなのか、表情で語っているようだ。

 光輝が眺める横で、鳴海は目を細めながら羅宇の様子見へと作業に没頭していく。

 静かだった。

 藺草いぐさの匂いが少しばかり湿り気を帯びている。雨足がすぐそばまで近づいてくる、そんな天気だ。次第に部屋の中は薄暗くなっていく。

「……あーらら」

 唐突な声に、それまで微動だにせず羅宇を眺めていた光輝が肩で反応する。しかし、鳴海は構うことなく首を回しながらぶつぶつと独り言ちていた。

「駄目だな、こりゃ。手入れなんていつにやったきりか」

 参ったな、と舌を打つ。

 紙縒りが間に合わず、全て使い果たしてしまい、鳴海は足を投げ出すと盛大な溜息を吐いた。

「さて、困ったぞ。丁度よく羅宇屋が通ってくれないかねぇ……」

「――部屋の中で呼びつけるとはどういう了見ですかい、

 静かに、しゃがれた声がふわりと六畳間に漂った。あたかも「そこ」にいたらしく座っている。

 鳴海の傍らに、菅笠を被った者がいた。黒の装束に身を包み、前掛けをした者。座高が光輝よりも一回り低く小さい。

 あまりに唐突なことだったので、光輝はしぱしぱと目を瞬かせた。

「おや、羅宇屋じゃないか。こいつは気前がいい」

「なんとまぁ、白々しいですなぁ。貴方さまがお呼びなすったんで」

 鳴海の言葉に、菅笠は穏やかな声に呆れを表した。そんな羅宇屋の言い分に、鳴海はくくっと小さく音を立てて笑う。悪びれる素振りなど見せない。羅宇屋は「やれやれ」と立ち上がり、肩に背負っていた荷を下ろした。

「ほぅ? これはこれは……相方さまは交代されたのかな?」

 光輝の視線に気がついた羅宇屋が訊ねる。それに驚いた光輝は、飛び上がって鳴海の背後に隠れた。じっと、警戒心顕わに睨んでいる。

 鳴海は眉を下げて、光輝から菅笠へと視線を移した。

「いやいや、しばらくうちで預かることになってねぇ……それにしても動きが猫のようだよ、まったく」

「猫乃手の名に相応しいじゃねぇですか」

 羅宇屋はカラカラと冷やかしの笑い声を上げる。

 今度は鳴海が呆れ顔を見せた。

「冗談よしとくれよ。猫はあれだけで充分さね」

 軽口をピシャリと咎める鳴海。

 羅宇屋は作業をしながらも未だ笑い声を漏らしている。どうにも、人を小馬鹿にからかう節があるが、もうとやかく言うことはしなかった。

 ひとしきり笑い、羅宇屋は菅笠を取った。現れたのは大きな目玉を模した面。顔を隠すように付けた面は少し不気味で、光輝の怯えが更に増したらしく鳴海の袖を握る手が強くなる。

「今日は仁科の旦那は留守ですかい? お珍しい」

 光輝の様子には目もくれず問いかける羅宇屋に、鳴海は煙管を手渡した。小さな両手で受け取り、しげしげと眺めながらその痛み具合に少し唸る。

「留守じゃなくとも、お前さんの姿形はヤツには視えんよ」

「ハハハ。そうだった、そうだった」

 そうして鳴海の言葉をあしらうように、羅宇屋は哀のある溜息を吐いた。

「なんとも寂しや。またお会いできるんですかねぇ……いつの頃だったか。あの頃がまぁ懐かしゅうございますな」

「あの頃、ね……十年も前になるかねぇ」

 鳴海は無理矢理に笑みを作った。

 脳裏を掠めるのは、幾年も前に置いてきた過去の像……思いに耽けてしまうと、戻れなくなりそうだ。

 急いで振り払い、羅宇屋を見やる。

 その小妖怪が持ってきた折りたたみ式の道具箱は、階段箪笥の形で一番上に小さな煙突があった。三段になった箪笥の道具箱を真ん中で割るように開けば、最上部に潜んでいたボイラーが顔を覗かせる。豪勢に模様の入った引き出しを開帳し、準備が整った頃合いにボイラーを吹かす。

「それはそうと羅宇屋。お前さん、確か情報も売っていたよなぁ」

「えぇ、えぇ。その通りで」

 話をすり替えるも、羅宇屋はまったく動じず穏やかに頷いた。

「そうか。じゃあ訊くが、ヨビコ様について何か知っている事はあるかい?」

 ピーッという笛のように甲高い音がする。

 途端、簡易式ボイラーの煙突から蒸気が弾け飛び、座敷は淡い七色で充満した。

 その異様にも美しい幻想に、光輝は鳴海の着物を掴んだままそれらを目で追いかける。ボイラーから吹き出す綿菓子のような煙が浮かんでは溶ける。

「どうだい、何か知っているかい」

 羅宇屋のゆっくりとした動作に鳴海は僅かに焦れを見せた。声の抑揚は極めて穏やかだが、若干、語気は荒い。

 それでも、小さな業者はこちらを見ずにただ、手際よく雁首やら吸口を分解していた。何やら思案に暮れて唸っている。

「あぁ……ヨビコ様……ってーと、もしやそいつは、山彦やまびこ様のことですかねぇ?」

「おや、山彦というのかい」

 名が違えば確かに分かるまい。

 鳴海は眉間に寄せていた皺を伸ばした。話に聞いていたものと僅かながら異なれば、あまり強気には出られない。

 羅宇屋は細長い壺の中に、分解した煙管の金具部を放ると愛想の良い声音で言った。

「はぁ、あれは数多あまたある山神の中でも気高いお方でして。と、言いますのも、信仰の深い輩が異常に祀り上げるもんだから、どんどんと力をつけてしまって。大昔の頃は私らと同じ小妖怪の類だったんですわ。名も山彦、といって。見た目は美しかったが、少々我儘が過ぎる方でしたな」

 饒舌に、するすると羅宇屋は語る。その端々に、過去を惜しむ切なさを交えながら。

「力をつけた山彦様は、大小問わぬ妖、更には他の神、あの鞍馬天狗ですら近づけなかったとか。まぁこれは飽く迄、噂のことで。そういった具合に、あの方はあたくしらのような下等者が滅多にお会いすることもなくなった――しかし」

 動きも言葉も急にぴったり止まった。

 訝しくも、鳴海はその様子を窺い続きを待つ。

 金具を放った壺の口がぷくぷくと泡立ち始めた頃に、羅宇屋は我に還って作業を再開した。

 箪笥の段を一つ上り、そこから壺の中身を窺う。そこから声を発するものだから、そのしゃがれ声は反響して聴こえた。

「最近、それもここ五十年ほどか。あの方の趣向がひっくり返ったそうで。いやはやどうしたものか、人の子を匿うような落ちぶれようで……あぁ、気を悪くせんでくださいな。何も『人』が悪うわけではございやせん。ごく一部の、それも己が子を物のごとく扱う輩のことで。そうして遺棄された人の子らを、いつしかあの山彦が囲うように……それからは幾分、山の表情が和らいだように思えますぞ」

 火バサミで壺の中を掻きながら、羅宇屋はそこで言葉を切った。

 大昔の頃に祀られ、気高さを誇ったという山彦という名の神。

 信仰が廃れ、言い伝えだけを残している。それが今や人の子を匿い、山の畏れを再び知らしめようと密かに蠢きだしている。

 この理由わけ、とは――。

 鳴海は、傍らの光輝を目の端で見た。

 がその答えではなかろうか。

「――ふぅむ……なるほどねぇ……そういうこと」

 信仰されないのならば、信者を己で創れば良い。人の都合で創られた神は、自らの存在意義を彼らに委ねようとしたのだろう。

 つまり、仁科の言葉通りに解釈を当てはめると、ヨビコ様の元となる存在は山彦という神で、捨てられた子供を使って山の全てを束ねているのだ。かつての栄華を保とうと。

 だが如何せん、判らないこともある。

 何故、山彦は光輝の声を奪い、山から追い出したのか。存在確立のために人の子までを取り込んだ者が一体、何故。

 真の相をあれやこれやと浮かんでは消し、答えがなかなか見つからない。鳴海は詰まる頭を抱えた。

「ふむふむ。どうにも先ほどから妙な……姐さん、さては、何かありましたな? あの山で」

 気づけば羅宇屋は壺から顔を離していた。面を被っていても、こちらをじっと見据えているのが分かる。

 咄嗟に鳴海は誤魔化しの咳払いをした。口元を隠してボソボソ言葉を濁す。

「あー……うぅん、何かあったか、なんてのはお前さんらには関係のないことさ」

 それは下手な逃げだと確信していた。案の定、羅宇屋が納得のいかない素振りで詰め寄ってくる。

「僭越ながら申しますが、貴方さまほどの方ならご存知な筈。いくらなんでもこの対価は相当の高値となりますぞ。私は情報を与えた。尚のこと、羅宇まで取り替えている。価値あるものに見繕った何かを頂戴したい」

 笛の音がまたも鳴り響く。もやもやと煙は立ち込め、羅宇屋が姿をくらましていく。部屋はもう七色に覆われてしまい、音のみの世界へと変貌する。永遠に止まないのではないか、とそんな予感さえしてくる。

 鳴海の背後に隠れた光輝は両の耳を塞いでいた。

「――そうだねぇ。そう言われちゃあ、仕方ない」

 やれやれ、と呟く鳴海は光輝の手を易々と離し、立ち上がった。色鮮やかな衣がふわりと舞う。

 それにより、煙が打ち払われた。段の上に座る羅宇屋の姿が浮かび上がる。それは物言わぬ物置のように、じっと黙りこくって鳴海を見上げていた。

「ったく……うかうかしてると、根こそぎぶんどられそうだからね。今日はもうこの辺で諦めるよ。あたしの負けさ。本当、あんたはちゃっかりしてる」

 うちの馬鹿もそれくらいに頭が回れば苦労はしないのに、ともついでに小さく溢しておく。

 すると、耳のいい小妖怪はそれを目ざとく拾い上げて笑った。

「ほっほ。いやはや未だ手こずっているのですな。あの旦那の扱いは確かに難しそうだ。しかし、仲良きことはなんとやらですぞ」

「どこで覚えたんだい、そんな言葉」

 声を低めると、またもおどけた笑いが返ってくる。

 それからはもう、先までの鈍さが嘘のように機敏な動きで羅宇屋は働いた。

 箪笥の二番目である唐草模様から鍵型の取っ手を取り出し、ボイラーの横に差し込む。鍵型の取っ手をくるくる回しつつ、がさごそと棚を開けては閉め開けては閉めを繰り返し、何かを探る。

 三段の箪笥は背の真ん中で割れ、見開く状態になり、美しくきめ細かな刺繍が施された引き出しが現れていた。光の加減で刺繍の色が変わっていく。

 その様子をぽかんと見つめる光輝は、とっくにボイラーの轟音も慣れてしまったよう。摩訶不思議な風景に両の瞳を輝かせている。

 さすがの羅宇屋も、これには目のやり場がなかったのか、戸惑う声を漏らした。

「この子は……先ほどからまぁ気にはなっていたんですがね、どうやら私のことが視えておるのですな」

「ん? あぁ、どうもそうらしいねぇ……視るのが当たり前になっちまってるから気づかなんだ」

 畳から降り、三和土に並ぶ商品棚へ向かう鳴海が呑気に返す。物色しつつ言葉も選んで羅宇屋に言った。

「あぁそうだ。情報としての対価はその子さ。以前、山彦様に世話になってたらしいが……どうも追い出されちまったようで」

「ほっほぉ。それはまた興味深い」

 色鮮やかな箪笥とボイラー、くるくると目まぐるしく回る鍵型の取っ手、壺の中で泡立つ奇妙な水の中で踊る金具。それらを嬉しそうに交互に眺める少年を見やり、羅宇屋は訝しく「うーむ」と唸る。

「して、この子には何か一つ欠けているような」

「気づいたかい? 流石に目ざといねぇ」

 店の商品をごっそり抱えて畳に戻った鳴海は、察しの良さにニヤリと笑いを浮かべた。

「山彦様から追い出されちまった、と同時に声を失った。あたしゃ、その山彦とやらに奪われたと睨んでいるんだが……どうだい? その線は」

「ははぁ。それはそれは……いや何、こちらとしても有り難い話ですな。何せ、妖にまで威張り散らす困ったお方故に、私めら小妖怪などからも恨みの一つや二つ買いやすいんで」

 一段目の引き出しから、新品の羅宇を探し当てた羅宇屋が短く笑う。穏やかではない空気を纏っている限り、どうも山彦は長年、小妖怪相手に悪辣な何かを働いていたらしい。

「そうかい。では、話が早い」

 物色し終えた鳴海は、どっさりと両腕に店の品を抱えて戻ってくる。それらを一つ一つ畳に並べた。

 匂い袋に扇子、小ぶりの鈴、手ぬぐいなどが作業をする羅宇屋の目の前に敷き詰められ、面の中からじっとその品々を見渡している。

「悪くない。寧ろ良好。目は使えずとも腕は健在、といったところですかな。分かってらっしゃる」

「あれでも、使えるもんは使えるのさ。例えこれから先も視えなくたってな。それに……あいつがいないと、あたしは生きてくのも不便なんだ。癪だけれど」

 そう応えるも、鳴海の表情は固く強張っている。羅宇屋はまたも短く笑った。

「それはまぁ、運命さだめというもんなんでしょうな。あの山が、じきに朽ちるというのもまた運命さだめ。もっとも、旦那が片を付けてくれるんなら、こちらとしても都合がいい。山彦なんてもんは、所詮、人が創りし虚ろの像。妖ものにとっちゃ要らぬ存在ものなんで」

 くひひ、と甲高い笑いが鳴るのと同時に、唐突だった。

 それまで、大人しかった光輝が慌ただしく立ち上がったのだ。顔色が悪い。あれだけ綺羅びやかな表情を浮かべていたのが一変している。

「どうしたんだい?」

 狼狽える光輝に、驚いた鳴海は声をかけた。追うように、彼の肩に手を置こうと伸ばす。

 その時。

 彼は、細く鋭い目を向けてきた。獣のような威嚇。歯を剥き、じりじりと鳴海から遠ざかっていく。

 しばらく睨むと光輝は畳を蹴飛ばし裸足のまま、三和土へ降りた。思い切り戸を開け放つ。

「あらら、止めないんで?」

 羅宇屋が不思議そうに首を傾げて訊ねた。

 そうこうしているうちにも光輝は駆け出して、店から遠ざかっていく。

 鳴海はというと、出て行った光輝の後を見もせずに羅宇屋と向き合っていた。その表情は苦々しい。

「仕方ないだろう。あたしは外を歩くのが苦手なんだ」

「あぁ。それも、そうでしたな」

 ボイラーの音が鳴る。その甲高い音に混じって聴こえるのは、羅宇屋の短い笑い声。それは嘲笑なのか愛想笑いなのか、鳴海がさして気にすることではなかった。


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