肆・深緑に潜む憧憬

 山間でも湿気が多いというのに山の中は更に酷く、土は泥濘ぬかるみ、足を取られるほどだった。素早く足を踏み出さなければ地面に沈んでしまう。

 動きやすい袴と靴に替えてはいたが、普段、あまり運動をしない真文に急な登山は過酷なもの。毎日、丘を行ったり来たりするだけじゃ足りないらしく、足腰は脆弱極まりない。

 時折、仁科が手伝って地面に埋まる真文を引っ張り出すので、時間は大いにかかってしまう。

「申し訳ありません……先生、私、もう……」

 起伏の激しい勾配を登る、その足を踏みしめる度に膝が泣く。疲労が脹脛ふくらはぎに溜まり、身体を支えようと踏ん張れば息が上がる。そんな彼女の様子を労って仁科が声を掛けた。

「真文さん、お辛そうですね。一旦、そろそろ休みましょうか」

 まだ山の中腹にも差し掛かっていない場所に小さな滝があったので、二人はそこで一時休憩を取ることとした。

 岩は滝の水飛沫によって濡れてはいたが、さして気にするほどでもない。

 仁科はというと、持っていた酒瓶を脇に置いて、手ぬぐいを滝壺に浸していた。水分を含ませ、固く絞るとそれを開いて気持ち良さそうに顔を拭う。

 そんな彼を見つめながら、真文は腰を落ち着けると、やきもきしていた気持ちを吐き出そうと小さく口を開いた。

「――あの、仁科先生」

「何でしょう」

「その……私、足手まといではないでしょうか」

 ようやく、伏せていた思いを口にすることが出来ても、胸に支えていた何かが消えることはない。

 出掛けの際、てっきり鳴海が真文の同行を止めるだろうと期待していたのだが、当の鳴海は「それならいいだろうよ」と実にあっさりしていた。

 こうなっては自分で断るしかないと思い切って拒否を促したのだが、彼らは全く聞く耳を持たず、今に至るわけである。

 真文にとって「断る」という行為は極限に達した時に使う最終手段であり、押しの度合いは言わずもがな最弱。しかも、相手は十も上の大人。同年相手でも控えめに接してしまうがゆえに端から敵うわけがない。

 真文の落ち込みようを見てか、仁科は鼻を掻いた。取り繕った声で返してくる。

「いえいえ、私はそのように思っておりませんし、寧ろ強引に連れ出して申し訳ない、と」

 少しは悪いと思っていたのだろうか。しおらしい様子を見せる仁科に、真文は慌てて両手を振った。

「そんなの……私などは気にかけて頂かなくて良い、の、です……あっ」

 真文の口角は上に伸びたままで止まった。口走ってから気づく。

 仁科は笑みを湛えたままこちらを見ているが、無言の圧を感じ、真文はそろりそろりと顔を俯けた。と、いうのも、真文は仁科と約束を交わしていたのである。

 自身を卑下するのは控えること――しかし、なかなか上手くいかず、真文は硬い笑みを繕って見せた。頬が引きつり、自身でも不気味な表情を浮かべているのが分かる。

 仁科は嘆息した。困ったような苦笑を浮かべて。

「……それでも私は貴女を必要としていたのですよ、真文さん」

 窘める響きの中に少しの優しさを感じる。

 その一言に、真文は息を止めた。必要とされている、という言葉がどれだけ大きなものだろうか。

 ――必要としている……私を……

 頭の中で反芻すると、喜びがじわじわと実感でき、絶えきれずに「ふふふ」と今度は本物の笑みを溢した。

「有難うございます、先生」

 不思議と、それまで曇りきっていた心模様が見事に晴れ渡っていく。あの鬱はもうない。

 仁科の言葉には力がある、と真文は他愛もない想像を膨らませた。彼の言動に毎度翻弄されるのも、その不可思議な彼の力のせいだろう。口にすると幼稚だと捉えられそうで、言う気は更々無いが。

「真文さんが楽しそうで何よりですよ」

 仁科も真文の破顔に頬を緩める。空気が緩んだような気がした。

「先生もお疲れですか」

 トントン、と彼も自分の腿を軽く叩いているので、穏やかに訊いてみる。

「えぇ、まぁ……山登りは久しぶりなことで。膝と腿にきますね。あと腰が痛い」

 答えながら、仁科は大きく伸びをした。表情にはおくびにも出さないのに、幾分の疲労が溜まっているらしい。

「――ところで真文さん、貴女は訊かないのですね」

 唐突な仁科の問に、真文は首を傾げた。何のことだろう。巡らせども見当がつかない。

 すると、仁科は眼鏡を掛け直しながらサラリと言った。

「いや何、岩蕗さんの事ですよ」

 さも当然のように仁科は笑うのだが、真文は戸惑いの色を浮かばせた。

 確かに、気になる。

 仁科と鳴海があの岩蕗という男と親しげであること――考えられるのは、彼が猫乃手常連客であるのだろうということ。

 それ以上の何かがあるようにも思う。

 どこか不穏の漂う空気を鈍感なりにも察知していた。しかし、この山道を歩くだけで心の隅に留めていたものの、全身の辛さのせいで問いかける余裕がなかった。

 改めて言われると疑問が蘇ってしまい、もやもやと胸の奥が落ち着かない。

 それでも――

「ええと、気にはなっていましたが……しかし、他人様の事情に首を突っ込むのはいささか野暮ではないかと」

 さすがにズケズケと他人様の関係に押し入るのは品性に欠けるとも思う。

 真文は実直に答えたのに関わらず、仁科はクスクスと小さく笑い返した。

「興味を追求するのは悪いことではない。そうやって顔色を窺うから駄目なんですよ、真文さんは」

「うぅ……」

 あっけらかんと言われ、真文は肩を落とした。

 しかし、仁科の場合、首を突っ込みすぎて相手方を敵に回し兼ねないと思うのだが……それを口にするのも気が引けるので、やはり黙っておく。

「素直でいて良いのです。聞きたいなら訊けば良い。分からないままで立ち止まっていては、いつまで経っても先を見ることが出来ませんし、面白くないじゃないですか」

「――そう、ですね……」

 真文は顔を上げてゆっくりと頷いた。思わず安堵の笑みが溢れる。

 見透かされて指摘を受けているのに、あまり悪い気にはならない。寧ろ有り難い言葉だと思った。

 胸の奥をほだしていた何かが急に消え去っていく。

 未だ躊躇う気持ちはあれど、この機会を逃すわけにはいかない。真文は上目遣いに口を開いた。

「では、お聞かせ願えますか?」

「勿論」

 眼鏡を掛け直した仁科の両眼が怪しげな光を帯びる。それは何故だか、悪巧みをする子供のような表情に思えた。

 どうしたのだろう。身体中がざわめいていく。知りたい、と心が騒ぎ立てている。欲が強く前へ押し出される。

 これが彼の言う「興味」だろうか。

 どうやらそれは上手く調整が利かないらしい。どんどん期待が膨らんでいく。

 そんな嬉々とした目を向ける真文に向けて、仁科はクスリと笑った。

「では、ヨビコ様に会いに行くまでの道すがら、昔話に興じましょう」


 山道は難を極めていた。この山は確かにヨビコが出るという噂で、村民が入るということはあまりない。

 標高九粨約900mの山は所謂、峠の間にあり、山の向こうにあるという隣村への行き来のみ利用される。都市から離れた小さな村故に、道が舗装される目処は今のところない。

 そんな山道ならぬ獣道をひたすら登り続け、真文は疲れを感じていたが「興味」のおかげか初めより足の進みは良かった。

「岩蕗さんは、私の師なのです。いや、違うな。後見人のようなものですか……ともかく、そういった類で」

 それが、語りの冒頭だった。獣道になるにつれ、息は更に上がっていくも仁科の声が途絶えることはない。

「私が十五の頃でした。鳴海と共にあの人から拾われたんですよ。少し、厄介な揉め事を起こしたので家から出されまして。そんな時に現れたのが岩蕗さんだったんです」

 仁科の背からは憂いを感じることはなかった。淡々と語っていく。

 真文はただ黙って草木を掻き分けて足を踏み出しながら耳を傾けていた。

「岩蕗さんは霊媒を生業にする人です。今の私と似たような仕事をしています。しかし、身寄りのない子供を拾うのが趣味なのか……不器用なくせに、情は厚くて。他人の子を放っておけない性分。なんとまぁ損な性分。当時はそう思っていましたがね」

 大きな岩に手をかけて登っていく。そうして、こちらを振り返って真文に手を差し出してきた。引っ張り上げられ、大きな岩の上に着地する。

「しかし先ほど、あの子を連れて来た時の岩蕗さんは……なんだか、いつもと違う目をしていました」

 そうして一息をつく仁科。その目は真文を見ていない。どこか、遠い場所を眺めている。

 彼があの岩蕗に抱いたもの――それは親子のような信頼感。そのことに気づき、湧いたのは……

 脳内で想像を巡らすと、いつの間にやら仁科が口を開いていた。

関係もあるのだなぁ、と。私はいつも怒鳴られていましたから、先ほどの、なんだかあの岩男が父親のように見えて可笑しくて……いや、腹立たしいやら羨ましい? やら。これは一体、なんと言ったらいいんでしょうね」

 仁科は含んだ笑い方をし、照れ隠しのように笑いながら鼻を掻いた。

「先生……」

 思わず言葉が飛び出していく。

 ――それは、つまり光輝に妬いていたのでは。

 しかし、みなまでは言えなかった。彼のぎこちない様子がどうにも可笑しく、思わず吹き出してしまう。

「先生は案外、子供なのですね」

「そうですか? うぅむ……いや、確かにそうかもしれませんね……」

 大人げなかったですね、と仁科は屈託なく笑った。

 その笑みに、真文は息を飲んで黙りこんだ。

 話をしようと言い出したのは仁科であるから、何も後ろ暗いものがあることはないだろう。

 それでも、彼の笑顔には影が見えた。小骨が喉に突き刺さったような、あまり気に留めなくても良いほどの痛みを感じる。

 興味を追求するには少し重い話ではなかろうか。

 岩蕗が後見人のようなものであったこと……それだけ聞いて連想する「興味」は、どうにも無神経なものに思えてくる。

 両親は? どこの生まれ? どうして家を出されたの? 能力をどうやって備えたの? たまに見せる憂いのある笑みは何?

 あぁ、尽きない。

 考えてはいけないのだろうか。それともまだ追求しても良いのだろうか。そんな迷いが心を支配する。

 興味を追求することがこんなにも難しいのかと真文は頭を抱えた。それでも、物語は先へと続く。

「昔は本当、師弟の間柄でしたが……何故か意地を張ってしまうんですよね。まぁ、悩んでいても仕方がないのですが」

 仁科はどうして、昔話をしようと言い出したのだろうか。聞いてほしかったのだろうか。普段は戯れが過ぎて人を翻弄しているのに、ふと見せる憂いのせいで彼の本質が分からなくなる。

 湿った枯れ葉と、その上に作られた仁科の足跡。それを真文は、むず痒くやり場のない思いと一緒に靴底で踏んだ。

 瞬間、ふわりと空気に湿った土の匂いが紛れ込む。風がひんやりと冷たく、汗ばむ肌を撫でた。

「……少し、喋りすぎましたね。ここらでお終いにしましょう。ご清聴、有難うございました」

「あ、あぁ、いえ……お終いなのですね」

 突然に物語の幕が下り、真文は拍子抜けした。もやついた溜息を、仁科はさらりとかわしていく。

「はい。お終いにします」

「それでは、またいつか続きを……」

 訊きたいことはまだ沢山あるのだ。先ほど、仁科自身が言ったことを真文はしかと心に残しておいたので、隙を見て聞いてみようと思い立った。仁科もそれには「次の機会に」と快諾を示した。

 それから二人は、また別の話題を探しつつ雑踏を進む。

「あの餅菓子は、隣の水土里みどり町にある銘菓のものでして、本来ならば真文さんに差し上げたかったのですが……まだ残っていたら良いですね」

「なくなっていたら、少し残念ですね……それにしても、先生は甘いものが余程お好きなんですね」

「えぇ、甘いものでなくともなんでも好きですよ」

 他愛もない会話は実に和やかで、景色の変わらぬ山道を彩っていくようだった。

 そこでふと気づく。

 ――本当に、ヨビコと呼ばれる何かがいるのだろうか。

 一向に気配はなく、ただただ緑が深くなるばかりである。

 もうどれだけ山を登っただろうか。いつまでも出遭えなかったら、それこそこの登山の意味が見出だせない。

 真文は不穏を浮かべてしまった。

 すると、その思いが伝播したかのように、それまで軽快だった仁科の足がピタリと止まる。

 あまりに突然のことだったので、真文の鼻が仁科にぶつかりかけた。

「先生?」

 坂道の途中で止まられると上手く体勢が取れない。木の幹に手をついて仁科の背を見上げる。

 彼は何も言わなかった。それがどうにも不穏を帯びている。何かおかしい。怪訝に思い、彼の前へと進み出た。

「先生、どうされたのですか」

 訊くも、彼は真文の声など耳に入っていないのか身じろぎ一つしない。

 その異様さに、喉の奥がヒヤリとしたものを感じ、思わず息を止める。

「――真文さん」

 しばらくして仁科が囁く。

 その表情には一切の焦りや恐怖など感情の振れ幅はないのに、それなのに彼の声には若干のが入り混じっていた。

「真文さん。何があっても、何が聴こえても、決して『彼ら』に答えないでくださいね」

「え……?」

 どういうことか。問おうにも、上手く口が回らない。戸惑いは徐々に不安へと移り変わる。

 詳細もなしに、仁科はゆっくりと一歩だけ足を踏み出した……


《――おーい――》


 それはとても鮮明な。

 耳の穴を通り抜けるその声は、まさしく子供のもの。

 無邪気で透き通った少女の声、まだ幼く楽しげにカラカラと笑いが零れる少年の声。それらが、纏わりついて肌を舐めていく。

「心配は無用。真文さんに手出しは出来ませんから」

 そうは言うが、聞いてしまえば、感じてしまえば恐怖が張り付いて動きを鈍くさせる。

 動けなくなった真文を見兼ね、仁科は彼女の腕を掴むように引いた。そうして黙々と山道を歩く。緑を掻き分け、ひたすらに前だけを見るも、「声」はすぐ近くまで忍び足でくる。

 近づいて、いる。

 そこに、いる。

 笑い声が。

 そこまで。

 クスクスと、ケタケタと。

 笑い声が腹の底で響いた。脳裏に、その余韻がこびりつく。湿った土の匂いが、いつの間にか不快なものに変わっている。


《――おーい――》


 真文の耳元でその声は聴こえた。背中の毛がぞわりと逆立ち、指先は震え、全身の熱が完全に引いていく。

「せ、先生……」

 隣に立つ仁科を見上げる。もう限界だった。恐怖が全神経を縛り付けている。

 しかし、仁科は何も言わず、口を閉ざしたままで彼女の腕を掴んで先を歩く。道はもう足場の悪い場所ではなく、少しは平坦であったのだが次第に早足となっていく彼に追いつくのは容易ではなかった。

 足の速さと鼓動の早さのせいで、真文の息は荒くなる。そこでまた追い打ちをかけるのは、子供たちの声だ。


《――おーい――》


 ――やめて……


《――ねぇ、ネェ――》


 ――お願い……


《――コッチ――》


 ――嫌だ……


《――コッチ ヲ ミテ――》


 ――来ないで……っ



「真文さん!」

 それは、空間を切り裂くような、鬼気迫る怒号のようだった。唐突に仁科の声だけが薄暗い山道に響き渡る。断続的に耳を通る子供の声がピタリと止まる。

「振り向いてはいけません。お願いです」

 その言葉で、真文は無意識に首が動いていたことに気が付き我に還る。

 仁科の声はまるで懇願するようだった。改めて見上げると、つい目をみはる。

 まさかそんな、彼がなど、思いもしなかったのだ。

「――真文さん、相手は妖ではないのです。ただ、人を……忘れた者たちなのです。それでも、絶対に彼らに応えてはなりません。でないと、戻れなくなる」

 彼の声には震えだけが存在していたわけではなかった。眉間に皺を寄せ、見えない何かに怒りをぶつけているようにも思えた。その表情が一瞬だけ垣間見え、真文の鼓動は少しだけ緩む。

「は、い……」

 恐怖はまだ残っている。それでも打ち勝たなくてはいけない。怯える全身を叱咤するよう、真文は体を強張らせた。その様子を見た仁科の目が優しげに和らぐ。

「先を急ぎます。彼らからは遠ざかる方が良いかもしれない」

 その囁きと同時だった。

 一層強い風と共に、少年少女の荒々しい声が二人を襲った。


 ド ウ シ テ

 ――ドウシテ……

 フ リ ム イ テ

 ――オネガイ

 ―――コッチ ヲ ミテ……

 ミ、テ……オ ネ ガ イ――

 ドウシテ、

 ――ミテクレナイ?

 ナンデ、ミテクレナイノ。

 ―――キヅイテ、

 ――キヅイテ……

『デ ナ イ ト』

「デナイト ワタシタチ ヌシサマニモ、捨テラレチャウ」



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