参・苦しい時の神頼み

 ヨビコ様は神様である。

 誰が言ったか。どこで聞いたか。山の神、と言えば聞こえはいいが、それは人間が勝手に創り上げた虚像でしかない。

 戦がまだ各地で起きていたり、村民が一揆を起こしたりで時代の流れが暗雲立ち込めていた頃のこと。人々は飢饉や不作続きの最終手段として口減らしを行った。

 それは吹山村も例外なく、大昔は頻繁に行われていたもの。そうして都合よく祀り上げられたのがヨビコ様だ。

「ヨビコ様に捧げれば、子供は幸せになる」

 なんと馬鹿げた考えだろう。

 しかし、現にヨビコ様に育てられたという少年、光輝は目の前にいる。

 さて。ヨビコ様の正体とは「人ならず者」であるのかどうか。虚像だったはずの存在が形を持って生きているというのだろうか。

「声が出ないことと、彼が山から追い出されたことは何か繋がりがありそうですね」

 仁科の言葉に岩蕗が頷く。正にその通り、とでも言うような唸りだ。

「光輝の里親を探そうと思ったのだが、この様子じゃあ、まだまともに引き取り手が見つかりそうもなくてな……せめて、声だけでもなんとかしてあげたいのだが」

「岩蕗さんが引き取れば良い。それで万事解決ではありませんか」

 軽い口調で仁科が言う。先ほどまでの重々しい表情はどこへやら、綺麗に消え去っている。

 それに対し、岩蕗は心もとない。眉を顰めてはいても、その口調は弱々しい。

「簡単に言ってくれるな。俺の仕事がなんなのか、お前が一番よく知っているだろうに」

「ええ。ようく知っております」

 岩蕗はその風貌に似合わず、威厳がどこにもなかった。そのせいか、仁科は調子づく。なんとも癇に障るが言い返すのも面倒だと、岩蕗は半眼で仁科を睨む。

「ったく……お前は本当に碌でなしだよな」

「まったく同感です」

 鳴海がボソボソと低い声で言う。それを聞き流し、仁科は今度は光輝に興味を示した。目の前まで顔を近づけて微笑んでやる。しかし、それに驚いた光輝はすぐさま岩蕗の背に隠れた。威嚇の眼差しを仁科に向ける。

「おやまぁ……私、嫌われているようですねぇ」

「お前の意地汚さが光輝に伝わってるんだよ。恥を知れ」

「そこまで言います? 岩蕗さんも連れない人だ」

 その軽口を岩蕗は無視して、光輝の頭に手を載せた。

「えぇーっと、まぁ。それでだ。仁科よ、この状況でなんだがしばらくの間、光輝を預かってくれないか?」

「うわぁ……本当にこの状況でよく言えますね。碌でなしなんてよく言えたものだ」

 未だに睨みつける光輝の視線から逃れようと仁科は立ち上がる。鼻を掻く様は、どうにも拗ねている。あからさまな態度に、鳴海はもう咎める気力も失せていた。その代わりに岩蕗が一喝してくれる。

「根に持つな、見苦しい。駄々を捏ねても仕方あるまい。何か手立てがあればいい……完治させろとは言ってない。出来る限りでいいんだ」

「出来る限り、ねぇ」

「あぁ、そうだ。何か怪異の影があるようなら、今の俺よりもお前らの方が腕は立つ」

 淡々と言うも、仁科の態度に苛立ちを隠せないようで口調は厳しい。岩蕗は山高帽を手に取り、帰り支度を始めた。

「随分とまぁ買いかぶるんですね。そこまで有能じゃあないのですが」

 いつまでも煮え切らない捻くれ者を前に、岩蕗は不機嫌に鼻を鳴らした。

 気が乗らないのは充分に伝わるのだが、今の岩蕗には仁科を頼る他ないようで、忌々しげな顔を見せてくるも表情はやはり曇っている。対して仁科は察しているかはともかく、存分に意地が悪い。

「同業から頼られているんだ。いい加減に腹を括れ……あぁ、光輝。お前はしばらくここで世話になるんだ。分かったな?」

 着いて行こうと立ち上がった光輝の両肩に手を載せ、岩蕗は苦笑を浮かべて言った。

 ぴたり、と静止する光輝。その顔には戸惑いと悲しみが滲み出ている。置いていかれることに絶望を感じているのだろう。目を大きく見開いて、無言で岩蕗に訴えている。

「何、心配するな。しばらくの間だ。ほんの少しさ。迎えに行くまでいい子にしてろよ」

 光輝の髪の毛を乱すように少々荒っぽく撫でる。

 その一連の動きに、先ほどまで絶好調に性根の悪さを見せていた仁科のみならず、鳴海も唖然と見つめている。二人の訝しい視線に気がついたのか、岩蕗は誤魔化しの咳払いをした。

「というわけだ。済まないが、俺は別件で忙しい。それがまぁ、こいつを置いていくしかない理由の一つなんだが……何かあったら連絡を寄越してくれ」

 そう言うと彼はマントにくるまり、店からすごすごと出て行く。その後をすぐに、仁科が見送りについて出た。

「連絡はいつもの通りで?」

「あぁ、頼む」

 岩蕗は山高帽を目深にかぶり、その下から村の平地を鋭い目つきで一望した。細かな霧が降りていて、足元は薄っすらと白い。遠くにそびえる山々は影と化している。

「しかし、最近どうにも耳の調子が悪くてな……に気付けるかどうか」

 実に弱気な返しだ。仁科は訝しげに岩蕗を見やっていたが、対する応えは出さずに笑顔へと戻す。その貼り付けたような表情に隠された感情はやはり見えない。

「承知しました」

 深々と一礼する。見向きせず、岩蕗は歩を進めていく。

 仁科は岩蕗の背が霧に隠れてしまうまでぼんやりと眺めていた。


 ***


「さてさて、大変なことになりました」

 岩蕗の退場からほどなくして、仁科が厳かに切り出した。

 座敷には仁科、鳴海、真文、そして光輝が輪になって座っている。

「大変なこと……?」

 岩蕗の滞在中、真文は襖の奥で実は全ての話を聞いていた。盗み聞きなど端ないことは百も承知だったが、他に居場所が見当たらなかったのだ。しかし、話が早いとばかりに仁科と鳴海はさして気に留めない。

「そうです。岩蕗さんは毎度毎度、厄介な依頼を強引に持ち込んできますからね。まったく、困った人です」

「お前が言うな。そして本人を前にして言うな」

 鳴海の窘めにも反省の色は無し。行儀よく鎮座する光輝は、岩蕗そっくりの仏頂面で仁科を睨みつけていた。

 その不穏な空気に、居た堪れない真文である。耐えられず、席を立とうと思わず腰を浮かせた。

「あの。お仕事のお邪魔になるようでしたら、私、おいとましますので……」

「ん? あぁ、それには及びませんよ、真文さん。貴女にもお手伝いして頂きたいことがあるので」

「え……」

 逃げ場を失った真文の、絶望を凝縮した声が座敷に浮かぶ。

 それなのに、仁科は屈託ない笑顔で彼女を見つめている。何かしらの威圧を感じるのは気のせいではないだろう。

 嫌な予感を覚えたのは鳴海も同じらしく、困惑の顔を見せた。

「仁、流石にそれは……」

「真文さんには彼を頼みたいのです」

 鳴海の言葉を遮って、仁科が穏やかに言う。いや、安穏なのは表情だけで声には冷淡ささえ窺える。

 その意図を察した鳴海と真文は呆気にとられた。仁科がここまで子供が苦手なのだとは思いが及ばず。

 真文は顔を引きつらせて、しどろもどろに言葉を返した。

「私に、ですか……」

 執着するように仁科を睨みつける光輝に視線を移し、不安を浮かべる。

「いやいや待てよ、まぁ落ち着け。そいつはいくらなんでも早まっちゃいないか」

 意外にも鳴海が立ち上がった。途端、真文の表情が和らぐ。救いの手が現れたと言わんばかりの眼差しを鳴海に向けておく。

 一方で仁科は首を傾げて、どこに不備があるのか分かっていない。そんな彼に言い聞かせるよう、鳴海は人差し指を立てて静かに言った。

「いいか、仁よ。真文は家事全般がだ。大人しくしているんなら未だいいが……それでも今までにいくつ壷を割ったか分からん。任せておけばこの店、一発で破壊されるだろうよ」

 その言い分に、真文の顔色が一瞬にして曇った。

「あぁ、それは少し困りますね」

 追い打ちをかける仁科の声。

 彼らの言葉が痛く胸に突き刺さった真文は項垂れるしかなかった。耳を塞いで畳に突っ伏したくなる。

「困りましたね……そうなると、どうしたものか……」

 ふむ、と仁科は腕を組んだ。黙り込んで、時折、鼻を掻いて思案する。

 輪になった空間に静けさが立ち込めた。光輝は落ち込む真文を不思議そうに見つめており、鳴海は静かに茶を啜る。

 湿気の混じった風が吹き、障子窓からは蒸された土の匂いが漂ってきた。その匂いが鼻を通り抜けていく。

 すると光輝はバタバタと障子窓まで駆け寄った。それから、身を乗り出して外を眺めている。

「どうやら、山が恋しいのだろうねぇ」

「ずっと山にいたのなら……でしょうね」

 そんなしみじみとした会話にも、仁科は思案に暮れているので耳を貸そうとしない。目を瞑り、唸っては何やら考え込んでいる。一体、これからどうするのだろう。

「茶菓子でも持って来ようかね」

 盆に載せていた大福はとっくに空である。

 急須と盆を手に、鳴海が席を立った。それ以外には音が欠片もない。

 静かな時が流れ行くのみで、真文はどうにも落ち着けなかった。手持ち無沙汰になれば、何をしたら良いか分からなくなる。それに仁科が一言も声を発さないので、もしかすると寝てしまったのではないかと思えた。

 蒸し暑いと言えども、掛布団の一枚無くては風邪を引いてしまうだろう。

「あの……仁科先生?」

 小さく声を掛けてみる。

 すると、仁科はようやく目を開いた。眼鏡の奥にあるその両眼には何故だろう、「名案」という文字が浮かんで見える。

「真文さん」

「えっ? はいっ」

 唐突に呼ばれれば誰だろうと驚く。真文は警戒するように、少し上体を仰け反らせた。

 それなのに、仁科は構うことなく両手のひらを真文の手に載せる。そして怪しげな笑みを浮かべた。

「真文さん、登山はお好きですか?」

「え……」

 逃げ場を失った真文の、絶望を凝縮した声が座敷に浮かぶ。

 頼りの助け舟は未だ戻らず、退路はどこにも見当たらなかった。


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