黴雨の章 山彦〜ヤマビコ〜

壱・泥濘の跡を辿る

 苔むした木々が並ぶ黴雨つゆ時の山道。

 一歩ずつ踏みしめて歩けば、足跡が残る。

 そう言えば、前にこんな話を聞いたことがあった。しかし、そう遠く昔の話ではない。ほんの二十余年前のことだった。

 ある山に神がいて、それが棲まう場所に赤子が一人、置き去りにされていたそうな。

 戦の渦中にあった地域だったので、恐らく親が殺されたか、やむ無く捨てたかどちらかなのだろう。その子供を神が拾い、育てていた。

 幾年もすれば子供は年相応に育っていくのだが、ある日、化物に見つかって殺されかけてしまう。

 神はどうにか抵抗し、大事に育てていた子供を守りきって死んだ。一方で化物も力を失った。

 さて。

 子供はそれきり、山奥で一人ぼっち。

 何せ生き方が分からない。だから、好き勝手にしていた。獣を連れ回し、時には人を襲って食っていたとかで。

 その山は戦によって無法地帯と化していたものだから、余計に人は近寄らなかった。

 化物曰く、その子供は「人ならざるもの」だから抹殺せねばならん、と。

 しかし、志半ばで倒れたのだから元も子もない。

 子供が今どこで何をしているのかは知らないが、どこか山奥で野垂れ死んだんだろう、と地元の人間は踏んでいる。

 さすがに「人ならざるもの」も飢えてしまえば無力なはずだろうから。

「そういや、このヨビコ山にもなぁ、子供のような妖怪が住んでいるんだとさ。あんた、知ってたかい?」

 道中の与太話にここまで相応しくない話はないだろう。

 しかし、山の中はじめじめと湿気が強い。蒸し暑い空気は体力を蝕む。肝を冷やしておくのが得策なのだとその時は思った。

「知らねぇなぁ。ここ、ヨビコ山って言うのかい」

 あまりにも険しい獣道。しかし、吹山村まで行くにはこの峠を越えなくては辿り着けないのもまた事実。

 いくら時代が進んでいるからとは言え、道の整備をするという事案は政治家たちの頭にないのだろう。これじゃあ、いつまで経っても発展するのは都会だけだ。

「あぁ、そうさ。なんでも、呼びかけた声に反応して出て来る木霊こだまみてぇなもんらしいが」

「ほぉ……木霊ねぇ。だが、それも単なる噂なんだろう?」

 こういう怪談はいくつも耳に入る。どこにでもありそうなもの。鼻で笑っていると、話は更に進んだ。

「それでもだ。見たって言う奴が山程いるらしい」

「山だけに?」

「馬鹿。そんなつまらん駄洒落を言ったわけじゃあない」

「ふうん。つまり、お前さんは見たことがないと」

 結局は噂ではないか。こけおどしに過ぎない。だが、一向に終着が見えない山道で、ただ不貞腐れておくのはどうにもつまらない。

 ここは話に乗っておこうじゃないか。

「因みに、どうやって呼び出す?」

「ははぁ。あんたも怖いもの知らずだねぇ。しかし、俺も興味はある。どれ、ちょいとここらで休んで、呼び出してみるか」

 岩場に腰掛けて、肩に積んでいた荷を下ろすと汗を拭いながら息をついた。疲れた足を労って、掻き分けて作った道を眺める。

「こうやって『お~い!』と言ってみる。すると勝手に返事をする」

 そのあまりにもちゃちな手順に拍子抜けし、皮肉を含む笑いを浮かべてしまった。

「木霊じゃなく、獣を呼んだらお陀仏だな」

「この辺りは確か……熊が出るのか? いや、猪か」

「どちらにせよ命はないなぁ」

「そん時はそん時さ。しかし、山登りに至っては我々も素人というわけではない。お前さんだって、獣への対処は周知のことだろう」

「まぁ……木霊の対処は知らんがな」

「違いない」

 二人は笑いあって、呑気にも木漏れ日を浴びながら木霊を呼び出すこととした。

『お〜い』

 自らが登ってきた道の向こうへと、声を響かせてみる。

 陽はまだ高い位置にあるので、夜行性の獣はそうそう出てこない。故に、呼び声に反応するのは野鳥か小動物のはずである。

 しかし、二人の耳にははっきりとそのが聴こえてきたのだ。


 ――お〜い……――


「聞こえたか」

「あぁ……誰が返事をしたんだろう」

 これには双方、どきりと心の臓を震わせる。

 聴こえるはずがない、と高をくくっていたのだ。まさかこうも容易く反応があるとは思いもよらない。

「だから妖怪だって。ありゃあ紛れもなく妖怪だ。どこか童の声だったような」

 道の向こうを睨むも、それらしき姿形は見当たらない。今度はぞくりと背筋が冷えた。

「……お~い」

「馬鹿。なんでまた呼ぶんだ」

 正気ではない、と隣を見やるも、向こうは首をぶるぶる横へと振りかぶっている。

「俺じゃあない! 今のは違う! お前さんじゃないのかい」

「はぁ? そんなわけあるか」


 ――お〜い……――


 声は、上からも下からも。

 ましてや前後左右どちらとも。

 その音源は見当たらずに、ただただ浮かび上がってはぶつかる。

 一体何がどうなっているのか、鬱蒼と生い茂った濃い緑青が影を帯びており、不穏が増していく。

「……返事だけ、じゃなかったのか?」

「そのはずだ」

「じゃあ、今、聞こえたのはなんなんだ?」

 分からない。

 風鳴りだと、自身に言い聞かせておきたいところだが、無慈悲にも風は感じない。

 無風。その証拠に木々はピタリと静止している。写真にでも写したかのようだ。

「お、おい……あれ、あんたに見えるか」

 唐突に言われ、震える指先で示された場所を目で追う。

 悪い冗談はよしてくれ、と言いかけたが、先にこの目で認めてしまった。蒼白のおかっぱ頭を。

 草木の影に紛れてはいるが目元までを覗かせ、こちらをジロリと見ている。頬をぷくりと浮かせて……笑った。

 思わず息を飲み、心臓の動きが一瞬止まる。その顔に、のだ。あれはまさしく――

「――な、なんで」

 喘ぐような震え声が横から聴こえる。

 だが、それはもしかするとどちらが言ったのか分からない。いや、お互い同時に言ったのかも。思考が止まってしまい、言葉を認識する余裕はない。

……」

 その微かな慄きが空気に触れ、やがては緑に吸われて消え去った。


 ***


「まったく、あんたって娘は、どうしてそんなに鈍いんだい!」

 その日、荒々く激しい怒号が響き渡った。

 村の外れにある小さな茅葺屋根が僅かに震え上がる。

「ご、ごめんなさいぃ……」

「そうやって謝ったって許しゃしないよ! 掃除もまともに出来ないんじゃ、役に立たないじゃないか!」

「まぁまぁ。真文さんだってわざとじゃないんですから……」

 箒を振りかざす鳴海を、仁科がやんわりと抑える。

 店の隅では、怯える小動物のように肩を震わす真文が。そんな彼女の周囲には割れた壺の破片が散乱していた。

「仁。お前にゃ分からんだろうが、女ってのは炊事・掃除・育児、この三つが必須だ! 育児はまだしも、炊事に掃除がここまで壊滅的じゃあ、世間様に通用するわけがない!」

 そう熱弁するも、当の真文は怖がるだけで、仁科に至っては耳を傾ける姿勢すらない。

「真文さん。美味い茶菓子があるんですが、良かったら一緒にどうですか?」

「人の話を聞け!」

 仁科はそれでも、こともなげに無視し、鳴海に怯える真文に手を差し伸べた。

「登志世のことは気にしなくていいですからね。あれはまったく考えが古いのです。それに掃除なんて、登志世に任せておけば良いのですよ」

 怒りを買うのは言うまでもない。

 瞬間、仁科の脳天に箒の柄が振り下ろされた。鈍い音が立ち、仁科の体が前のめりに崩れていく。

 その背後で、鼻息荒い鳴海が箒を手に仁王立ちして見下ろした。

「登志世と呼ぶな」

 その声は地響きを起こしそうなほど、ドスがきいている。


 櫻の季節も早々に過ぎ去り、吹山村は湿気が蔓延し曇天の続く蒸し暑い時期に移行していた。

 村の小高い丘にある森道場の娘、真文はここ三月は毎日、雑貨屋「霊媒堂 猫乃手」へと足を運んでいる。

 村の集落から外れた雑木林の奥にあるそれは、見た目は粗末で小さな民家だが、中へ一度足を踏み入れれば怪しくも心惹かれる雑貨が所狭しと置かれている不思議な店だ。

 三月前、真文は川辺に佇む、今は枯れ朽ちようとする櫻から呪いを受けた。獰猛な櫻につけられた裂傷は癒えつつあるも、やはりその左瞼には深く根付く櫻の痕跡が残っていた。未だ、左目は閉じられて正常には機能しない。

 しかし、仁科に希望を託すことで、真文は次第に明朗な表情を見せるようになった。

 毎日、目の診療の為に甲斐甲斐しく通ってはいるが、近頃は店の手伝いを任されることがある。

 それについては、いくら鈍感と言えどもさすがに心は異を唱え始めているのだが、それでもあまり気にしないようにしていた。それに、頼られるのは存外気持ちが良い。

「あの……仁科先生……」

「なんでしょう?」

「いえ、その……頭、大丈夫ですか?」

 鳴海に殴られた頭を抑えて蹲る仁科に、真文は小さく問う。彼は顔を上げると、さめざめと悲しげな顔をしてみせた。

「真文さんも、そうやって私を蔑むわけですね……そんなに頭は悪くないはずなんですが……」

「え? えぇ? い、いいえ! そんなつもりでは断じてございません! 本当に!」

「いや、いいんだよ。こいつは確かに大馬鹿野郎だからな。存分に蔑んだって、寧ろ釣りがくるさ」

 鳴海が割り込み、邪険に言い放つ。そして、真文が壊した壺を掃きながら溜息を吐いた。

「……まったくもう。道場の娘だと言うから期待していたのに……とんだ箱入り娘だったよ」

「うぅ……ごめんなさい……」

 蚊の鳴くような声で言い、真文はしおらしく俯く。その落胆ぶりが居心地の悪く、鳴海は軽く舌を打つ。

「あんたね。そんなことじゃあ、将来どうするってんだい。もう十五なんだろう? いつまでもそうやってすぐに落ち込んで泣きべそ掻いてたら、誰も貰っちゃくれないよ。これだから、いいとこのお嬢さんは……」

「登志世はお姑さんに向いてますね、あ、いや違う。だから、なれな」

「箒で殴るだけじゃ足りんらしいなぁ。頭、かち割ってやろうか」

 鳴海は掃いていた壺の破片を手に取り、仁科の背後に回った。その笑顔が心なしか引きつって見える。箒を振りかぶる鳴海に、真文は思わず声を上げて仁科の前に立った。

「ま、待って下さい! 鳴海さん! かち割ったら、先生が死んでしまいます!」

「いや、あのね、これは何も本気でやってやろうとは思っていないから……」

 鳴海は持っていた壺の破片を放り投げ、掃き溜めていた物を全て麻の袋へ入れた。

 馬鹿正直に冗談を真に受ける真文には、どうにも調子が狂ってしまう。あまり仁科を甘やかすことはしたくないのだが。とは言え、彼女の前では少し乱暴を控えようと、幾度とない溜息を吐いた。

「ほら、真文。あんたが割った壺の処理くらいやっとくれよ」

「あ、ご、ごめんなさい!」

 途端に慌て出す真文は、素直に従い着いてくる。その奥で仁科が逃げようと土間へ向かっていた瞬間を、鳴海は見逃さない。

「仁。お前もいい加減、掃除を手伝え」

 首根っこを掴むと、ズルズルと外へ引っ張りだした。


 数時間が経過した頃。

 相変わらず重い灰を帯びた雲は流れが速く、山の向こうへと吸い込まれていくようだ。蒸し暑く、湿り気が混ざった空気を肺に取り入れるように、仁科が大きく伸びをする。

「さて。掃除も済んだことですし、茶でも」

 そんな彼に向かって、草むしりをしていた鳴海が手を叩きながら眉を顰めた。

「お前は碌に働いていないけどな」

 邪険にな言葉にも、彼は呑気に「へへへ」と笑う。

「……褒めてないんだがな」

 もう怒鳴る気力もなく、呆れかえった鳴海は肩を落とした。

 一方で真文は、そんな二人の応酬をひやひやしながら見守るのみ。

 ここ三月も二人と過ごしてはいるが、未だに彼らの言動や行動には慣れない。鳴海の気性の荒さと仁科の呑気な性質に調子が追いつかないのだ。

 その度に仁科からは「真面目ですね」と言われ、鳴海からは「馬鹿正直だ」と言われるのだが。それでも性分というのはそうそう変えられるものではない。

 しかし、このまま堅固な思考ではいけないのだ。ある程度の柔軟な考えは備える必要がある。

 まだまだ精進しなくては、と真文は拳を握って天を仰いだ。

「おや、誰かやって来ますね」

 ふと、仁科が村の方角を見つめる。

 細かな霧のせいで視界は悪いのだが、雑木林から人影が浮かぶのを捉えた。上等そうな山高帽とマントにくるまった風貌の男と、その傍らに小柄な、それこそ真文と同じ背丈の少年が歩いてくる。

 ここは村の外れで猫乃手以外に家もなければ店も畑もなく、店の利用者の他に誰も来ない場所だ。つまり、それは来客の訪れを意味しているのだが。

「あぁ~……どうもお客様のようですね。仕方ない。あの茶菓子が客人に消耗されるのが口惜しい」

 どうやら余程、食したかったようで仁科はやる気のない表情で客人を待つ。そんな彼を一瞥しながら、鳴海は真文に手招きした。

「真文、ちょいと手伝っておくれ」

 店の中へ入るよう促され、真文は素直に従う。入るなり鳴海は人差し指を立てると、低い声で威圧的に言った。

「いいかい? 今度はドジを踏むんじゃないよ。分かったね」

「えと……あ、はい……?」

 何かおかしい、と真文は首を捻ったがすぐに気持ちを切り替えるべく、背を向けた鳴海の後ろで両の頬を思い切り叩いた。


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