漆・冬来たりなば春遠からじ
店内には鳴海の姿はなく、初めて足を踏み入れた時と同じく誰もいない。
商品を置く木棚には
中には異国の陶器や壺、ガラス細工に人形なども置いてあった。
先日は、どうにも心あらずで緊張していたせいか、目に触れることはなかった。それらをじっくり眺め、お茶を用意しに消えた仁科を静かに待つ。
「お待たせしました」
「いいえ、お気遣いありがとうございます」
向いで胡座をかく仁科が湯呑みを差し出す。
快く受け取ろうと真文が手を伸ばしたその時、思わず目を止めた。彼の左手に巻かれた包帯を見つめる。目を凝らすと、僅かに赤い染みがついているのが窺えた。
「真文さん?」
仁科の声に真文はハッと目線を上げる。
穏やかな笑みを湛えた彼の顔を見ると、疑問を口にすることが出来なくなった。
「あ、申し訳ありません……」
素早く湯のみを受け取り、湯気と共に漂う茶の香りに気を紛らわせた。
口に含めば濃い茶葉の苦味が広がり、その後は甘く、最後には爽やかに鼻を通り抜ける清涼感が。
不思議にもただの緑茶ではないようで少々訝ったが、美味いことには変わりないので、熱さも気にせず二口目を啜った。
「あの、仁科先生」
先に切り出したのは真文だった。美味い茶を充分に堪能し、湯のみを傍らに置くと姿勢を正す。そして深々と頭を下げた。
「この度は私の勝手なお願いに手を尽くして頂いたこと、誠に有り難うございました」
「あぁ、その件ですが……」
何やら淀んだ声が返ってきた。
ふと目線を上げた真文はその様子を覗い、小首を傾げる。仁科は咳払いすると、嘆息しながら言った。
「礼は不要です。貴女の目を私は治せていない」
「いいえ! もう……もう、充分なのです。先生がご尽力くださったことを祖父母から聞きました。こちらこそ、ご迷惑をおかけして……その……」
真文は彼の左手を見やった。
血の滲んだ包帯の下には一体何があるのか。とても酷い怪我を負っているのか。初めから既に巻かれていたものだから、傷か何かが悪化したのかもしれない。
悪い思いが
そんな彼女の真ん前で仁科は困ったように笑い声を上げる。それは実に乾いた笑いだった。冷めているとも感じられる。
彼の本性が少しだけ垣間見れたように思えた。
「充分、とは。あれだけ泣いて助けを乞いに来た貴女に相応しくない言葉ですよ。真文さん」
「……えぇ」
口走ってすぐは気づかなかったのだが、真文も恐らく気を緩めてしまったのだろう。つい本音を零してしまった。
それを見逃すことなく、仁科が素早く拾い上げるものだからこちらも愛想笑いを返すしか手がない。
やがて、互いのぎこちない笑いは溜息へと変化し、真文は表情を固くさせ、仁科は頭を垂れた。
「あの……私の目はどうなったのでしょうか?」
むず痒く居心地の悪い空気に耐えかねた真文が、か細い声で問う。
仁科はゆっくり顔を上げた。その表情には、重々しく伸し掛かった濃い影がある。
「……少し、見せて貰っても?」
「はい」
真文は素直に従い、躊躇もせずに包帯をするすると解いた。
頬まで伸びていた裂傷は継ぎ目となって不規則な模様を造っている。瞼の中心を裂く大きな傷は、今や痕となって縫い合わせたように左目を塞いでいた。幹が破ろうと飛び出した痕が初めに見た時よりも増えていて、彼女の左顔面は酷く不細工だ。右側の滑らかさとは比べものに出来ない。
仁科は長く息を吐き出すと、痛みに耐えるかのように顔を顰めた。
「真文さん」
「はい」
真文は正常な右目を真っ直ぐに彼へと向けた。
その真摯で強い眼差しに、仁科も姿勢を正す。彼の口が静かに動いた。
「貴女の左目には、櫻の呪いが残っています」
「呪い、ですか」
「ええ」
静かな刻は緩やかに二人の間を通り過ぎる。その流れを、真文は塞き止める事が出来ず、ただただ突きつけられた言葉を受け止めようと耐えていた。
腿の上で重ねた両手が振動しているのか、震えを感知する。
呪い、という言葉の重さは覚悟していたものよりも遥かに重かった。
「……何故、三月の時間を要して、この店を訪れたのですか」
低く、それでいて穏やかな声音が耳を伝う。それが沈黙を破る合図となり、真文は応えを吐き出した。
「私はただ……祖父母に、迷惑をかけたくなかったのです」
理由は至極単純である。
自分のことなど気にかけて欲しくなかった。だから、小さな傷も隠しておいた。
ただでさえ、あの冬の日に櫻の狂気を目撃した唯一の人間である。周囲がそれだけでざわつき、しばらく家の周りは落ち着きがなかった。足腰が悪くなった祖父母の体に障るかもと危惧すれば、とても我慢ならなかった。余計に心配させることも恐れていた。
そして、隠していくうちに自分自身をも誤魔化していたのだ。
――忘れよう、と。あの夜を忘れてしまおうと。全てなかったことに。
「それも長くは続きませんでしたが……」
傷は癒えるどころか、みるみるうちに大きく広がってしまった。それが真文の誤算で、気づいた時にはもう手遅れで。
何故、自分は素直に言えなかったのだろう。隠すつもりでいたのだろう。悔いとはいつも後から津波となって押し寄せてくる。
「私は、後先を考えず一人で悩み、間違ったことばかり繰り返す、愚かな人間です」
毅然なる振る舞いを努めようとも、声は震えてしまう。喉の奥や腹の底が不快だ。それでも仁科からは目を逸らさない。右目だけに力を込めて、恐怖に耐えていた。
一方で、仁科は相も変わらず、瞳に少しばかりの憂いを浮かばせている。
「私は、いつも間違えてしまうのです。だから……これは当然の報いだと」
「真文さん」
仁科の穏やかな声が鋭く割り込んだ。
「何故、あの櫻が貴女に宿ったのか、分かりますか?」
「……え?」
急な問いに、拍子抜けして震えが止まる。
なんだろう。分からない。その意図が分からない。
しばらく逡巡するも、答えが見つからない。
仁科は湯のみを口に付け、熱い茶を啜る。そして応えが返ってこないことを察し、静かに言った。
「……櫻が貴女を宿主に選んだ理由。それは貴女があの櫻と相性が良かったから、だと考えます」
「相性、ですか」
ゆっくりと反復すると、彼は口元を緩ませた。
障子窓から春の麗らかな風が吹く。その温い風が真文の頬を撫でて通り過ぎる頃、彼はさらりと言葉を吐いた。
「真文さん、貴女は誰のことも信用していない」
それは矢で貫かれるような威力だった。真文の胸に深く突き刺さる。
返す声が出てこない。息つく間もなく、首を両手で絞められるようなそんな苦しさに襲われる。
仁科は湯のみを自身の胸元まで下げると、中の茶を見つめながら言った。
「何か事情があるのでしょう。無意識のうちに人を警戒してしまう何かが……習慣というのはそういうものです」
――人は疑うべきもの……いつから自分はそう考えるようになったか。
真文は、彼のその見透かす瞳に恐れを抱いた。仁科が先を続ける。
「例え、自身でも覚えていない深い事情は、意識せずとも心を塞き止めてしまう。いえ、貴女のそれは年頃の女性ならばあって当然で、寧ろ良い心がけではありますよ。他人に深入りしすぎるのは時に愚かしく、災いを起こしかねない」
右手をひらりと振って取り繕うも、言葉はあまり優しくない。
仁科の言葉は真文に大きな打撃を与えていた。それを知ってか知らずか彼は更に続ける。
「しかし、貴女の場合は異常だ。何も、彼らやご自身まで警戒することはないでしょう。それは貴女がよくお分かりのはずです。お祖父様たちに迷惑をかけたくなかったと言いますが、つまりそれは、彼らをも信用ならないということでは」
仁科はまたも憂いを含んだ笑みを見せた。茶の奥に溜まるにごりを溶かそうと、湯のみを傾けながら。
「あの櫻の話は知っていますね?」
問われているのだと気づくのに、少々時間がかかった。息をも止めていたのか、
「……はい」
返事を吐き出し、漸く真文は息をついた。仁科がにこやかに頷く。
「では何故、櫻は人を串刺しにするのでしょうか?」
「それは……」
改めて問われると上手く言えない。何故、櫻が人を襲うのか。そんなこと考えたこともない。
首を傾げて困惑の意を示せば、すぐに答えは返ってきた。
「人を恨んでいるから、と考えるのが妥当でしょうが……別の事情があるのでは、と私は思うのです」
真文はゆっくりと、櫻幹の逸話を頭の中で書き表した。
――その話は幕末の混乱した時代にまで遡る。
ある美しい遊女が一人の客に入れ込んで、やがては子まで孕んだとさ。雇い主は、そりゃあもう怒りを通り越して大暴れだった。
まぁ、何時の時代でも似たような話はわんさかあるがね。
遊女は当然、始末された。孕んだ子、共々串刺しだった――
すると仁科は
「この穴は櫻が空けたものです。気負わせたいわけではないのですが、事実を隠す必要もありませんしね」
彼の手のひらは、梅の実大の赤い空洞が出来ていた。新たな皮膚が伸びて穴を埋めようとしているところ、回復の兆しはあるらしい。手の甲は見られなかったが、貫通しているので恐らく同じだろう。
「櫻はただ人を串刺しにしている。無差別に。最初こそ、私は櫻が襲っているのは男だけだと踏んでいたのです。恨みを抱く相手ならば、自分を裏切った男と殺した者でしょうからね。しかし、女子である貴女にも被害が及んだ。死んだ遊女が誰彼構わず人に恨みを抱く――それもまぁ考えられますが、それならわざわざ年に一度、しかも真冬に櫻の姿で猛威を奮わなくていい」
一息に言った後、仁科は「これは私の勝手な考えですが」と言いかけて茶を啜る。飲み干して息をつくと、彼は眉を頼りなく下げて寂しげに笑った。
「あの狂気はなんだか異常であるとは言え……子を守るため、身を守るため、周囲を警戒する親のようだと。そんな気がしてならないのです」
「――仁科先生」
真文は唇を僅かに動かして言葉を紡ぐ。
「先生は……もしかして、私とあの櫻が似ていると仰りたいのですか?」
仁科は黙っていた。頷きも唸りもせず、何の反応を示さずにただ真文を真っ直ぐに見つめて。
再び、風が障子窓を通った。
真文の艶やかな髪を滑り、頬を撫でる。すると、風と共に運ばれた花弁が目の前を横切った。その花弁を追いかける。
ひらり、ひらり、とやがては真文の湯のみの中へ落ちていった。
「真文さん」
低く静かな、心地良い音が耳に届く。一時の間を空けても彼は問いには応えてくれない。
「貴女には、もう少し自信をつけてほしい。人を信じるという自信を」
――でないと、あの櫻のようにいつか猛威を奮う。
そう言われている気がして、咄嗟に左目を覆った。それを仁科は苦笑して見る。
「その左目は、呪いを断ち切る思いがなければ、傷は癒えても光を映すことはないでしょう」
「……はい」
覚悟はとうに出来ている。この目が治らないことくらい。
それほどに、自分は愚かな選択をしてきたのだから、今更、何があっても……
「殻に閉じこもらず、自分や他人を心から信じることが必要です。そのお手伝いを、これからもしていきたいと私は思うのですが……」
どうでしょう? と彼は鼻を掻きながら言う。
唐突な提案に、真文は暫く口を開けて唖然としていた。しかし、確実に胸の奥にある重い扉が放たれた気がする。戸の向こう側で手を差し伸べる影が見えてくるようで、心が揺さぶられる。
わずかな望みを、この人に託しても良いのだろうか。また間違わないだろうか。
思いは曖昧で、危うい。さながら、揺れる蝋燭の火……息を吹きかけると消えてしまいそう。
それでも、真文は腕を伸ばしてその手を取る。
彼女にとって「自身を受け入れて貰える」という
《櫻幹、了》
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