陸・狂い花の乱舞

 無音を突き破る絶叫。恐怖で乱れた声が断続的に鳴り轟く。

 暗い砂利道を走る二つの影以外、動くものは何もない。

 羽織を空気中になびかせ、飛ぶように駆けるのは血相を変えた仁科。その後すぐを追いかける鳴海。

 石段を足の裏で叩いて丘を駆け上れば、今度は別の短い悲鳴が微かに聞こえた。

 ようやく目の前に、光が漏れる平屋とその横に建つ古びた道場が視界に広がってくる。

「鳴海!」

 唐突に、仁科が声を上げて後ろを振り返った。

 持っていた提灯を邪魔だと言わんばかりに、鳴海へと押し付ける。そして、平屋へ向かった。

 迷わず戸を荒々しく開け放ち、中を見渡す。

 土間からすぐ見える居間には人影は見当たらない。当たり前だ。孫娘の異変に祖父母が気づかないわけがない。

 鳴海もすぐさま草履を脱ぎ散らかし、仁科と共に奥の部屋へ向かった。

 断末魔の叫びは未だ絶えることなく家の中を震わせる。

 居間の奥にある廊下へ入ってすぐ、腰を抜かして座り込む老夫婦の姿を捉えた。

「に、仁科……」

 彼の姿を認めた老爺は声を裏返して口を震わす。

 それだけ言えるのがやっとだろう。老夫婦は孫娘の変わり果てた様を見て慄いていた。

 開け放たれた襖の向こうでは八畳間が見える。

 一面、吹雪だった。

 薄紅の花弁が部屋中を埋め尽くす。目を奪うほどに渦巻く花吹雪。

 その中心で、まだ若い樹の枝が、真文の傷口から時の理を無視して黒い幹へと成長させている。

 絶句。

 目に映る現実に、鳴海の身体は硬直し、後ずさることもままならなかった。

「鳴海!」

 悲鳴と花が渦巻くその中を掻い潜って仁科が呼ぶもすぐには反応できない。

「鳴海! お爺さんたちを外に出してください。そして急いで戻って来てください。早く!」

 再度、呼ばれて我に還る。

 指先から全身に電気が走るような感覚に、固まっていた身体が機能し始める。

「あ、あぁ……」

 返事もそこそこに、傍らで呆然とする老夫婦を半ば抱える格好で家の外へ出た。

「真文が……真文が……あぁ」

 老爺は放心し、老婆はしきりに啜り泣いて蹲ってしまう。

「ヨシさん、文彦さん。ごめん」

 なんとか、する――とは口が裂けても言えなかった。

 言いたくとも、言えない。

 鳴海は老夫婦を外へ置き去り、歯を食いしばって家の中へ戻った。

 凄惨な現場に戻るなり、仁科が部屋の襖をピシャリと閉め切る。二人は、襖に張り付いたまま改めて 「真文」を見た。

 彼女の姿は花吹雪と幹のせいでまともに目で認めることが出来ない状況だ。

 傷が開き、真文の左顔面は亀裂が不規則な模様を作り出している。見開かれた瞼の奥にあるはずの左眼球には、血管さながら脈打つ根が細かに張り巡らされていた。幹が伸びる度に骨が軋み、皮膚が裂けていく。

 その耐え難い苦痛に、彼女は這いつくばって畳に爪を食い込ませた。

 声を上げる気力が徐々に落ちていき、今やもう啜り泣きとガラガラと枯れ果てた呻きしか聴こえてこない。

 あの大人しい少女の姿はどこにもなかった。

 温厚そうな顔は花に覆われ、そこから伸びる幹や枝は天井にまで達している。ざわめく花蕾や枝が、板を突き破ろうとするも、頼りなげに折れてしまい畳に落ちていく。

「鳴海、お前は真文さんを抑えておいてください。なるべく、仰向けで」

「はっ?」

 唐突の指示に、鳴海は肩を強ばらせた。それを仁科が睨み、有無を言わさない剣幕で捲し立てる。

「櫻は今のところ、成長だけを目的に伸びているようです。彼女にまだ意識があるうちは派手に暴れられない。襲って来ない今しかない」

「そ、それで……お前はどうすんだ」

 一体、何をしようと言うのか。

 上手く対処できるとは到底思えないのだが。

 鳴海の問に答えない仁科は、櫻幹の動きを目で追いながら一歩踏み出した。

 畝ねる櫻を正確に避けながら真文の元へ近づいていく。それに倣い、鳴海も黙ったまま後に続いて彼女の背まで移動する。

 そして、今や畳に横たわって枝を茂らせる真文に、背を打ち付けんばかりに翻した。

 小刻みに息を吸う、哀れな少女の様相を見ることが出来ず、鳴海は彼女の両腕を掴むとしっかり押さえ込む。

 仁科が太い幹を両手で握った。

「真文さん。少し、我慢してくださいね」

 仁科は彼女の目から伸びる幹の成長を食い止めるべく、力づくで彼女の目の奥へと押し込んだ。

 枝は抵抗しようと激しく震え、幹は掴まれた手から逃れようともがく。

 そんな櫻の動きをもろともせず、彼は両の手のひらに力を込めた。押し負ける櫻が次第に幹を収縮させていく。

 だが、その代わりに真文が一層大きく叫びを上げた。

 耐え難い激痛に身をよじろうにも、鳴海がその動きを封じている。

 喉を振り絞って放たれる叫泣の中を掻い潜って耳に届いたのは くぐもった鈍い音。

 それが、真文の頭蓋骨から発せられる、 ぎしぎし、と鳴る不気味な軋みだと気づき、思わず目を伏せた。

 ――これほど酷なことはない。

 犠牲は仕方ない。しかし、目の当たりにした以上、黙っている方が無理な話だった。

 彼女の叫びが、苦しみが、心を惑わす。

 あんな非情な言葉だけで片付けるなどもう出来やしない。悲痛な声にとうとう耐え切れなくなり、鳴海は仁科に懇願した。

「仁! 早く……!」

 応えるかのように、仁科は一気に枝の力を封じた。

 開きっぱなしの傷口へ櫻が還っていく。枝が歪む。細長い小さな枝や芽が辺りに散らばる。顔を覆うほどの幹は既に手のひらに収まるまで収縮した。

 それを認めた仁科の眉間が少なからず和らいでいく。その様子に鳴海も安堵しかけた、

 瞬間、

「え……?」

 真文の体がフッと軽くなった。もがこうと足をばたつかせていたのに、腕を振り乱していたのに、彼女の動きも声もピタリと。

 訪れた静寂さが、不安を掻き立てる。

 仁科は枝を握ったまま、囁くように声をかけた。

「真文、さん?」

 反応がない。

 仁科は両眼を大きく見開かせ、眉間に深く皺を寄せた。顳かみから滴る汗が、散らかった花の上に落ちる。

 同時に、彼の目が眼鏡の奥で僅かに光った。

「鳴海、まずいです。今すぐ離れ……」

 しかし、その声は衝突音によってすぐにかき消される。途端、襖が真っ二つに折れた。その奥から仁科の足が見える。

 彼は叩きつけられていた。それまで収縮していたはずの櫻の枝が素早く動き、鋭い枝先で仁科を攻撃したのだ。

「仁!」

「大丈夫。鳴海、お前は下がってください」

 よろめいて立ち上がる仁科は、襖を踏みつけて戻ってくる。そして、好き勝手に蠢く枝を睨んだ。

 下がれ、と言われても部屋は狭い。

 櫻に見つからないよう、そろそろと真文から離れ、今しがた仁科が吹き飛ばされた襖の方まで行く。

 櫻は先よりも大きく伸び、天井を突き抜けんばかりに枝を茂らせていた。

 仁科に狙いを定めようと畝ねる。獣の爪を模した幹は枝の先で壁を引っ掻いて、こちらに狙いを定めるようとしている。

「おい、どうする。あれはもう……」

 背後で声をひそめたら、なんと仁科はこの状況下で僅かに口角を上げた。

「いいや」

 まだ勝機があるというのか。

「完全な支配は出来ていない。それならば……」

 空を斬る。

 黒く太い幹は一直線に、仁科に猛威を奮おうと狙いを定めている。

 その俊敏さ。速度。

 肉眼で認めることは極めて難しい。

 これが今までにあった愚者を惨殺し、命を喰らった櫻の力か。

 それを仁科は、躊躇うことなく左の手のひらで受けた。包帯が巻かれていたあの左手で。

 当然、刃のごとく鋭い幹は彼の広い手を貫いた。

 傷ついた畳の上に、 赤黒い血が滴り落ちる。手のひらの肉と骨を突き破った枝先は、眼鏡の至近距離で固まり静止した。

 舞う花弁が仁科の顔にまとわりつく。それらを振り払うことなく、彼は手を貫いた枝だけを真っ直ぐに見据えた。

 やがて花弁が、枝が、幹が、身を捩って震え上がり、ぼろぼろと音を立てて萎び始める。

 持て余した右手で残骸を掴むと、彼はまたも彼女の目まで静かに押し込んだ。

 今度はもう大人しい。

 枝は逆らう気が失せたのか、抵抗もせずに還った。

 左の瞼だけが開かれた状態で、真文は気を失っている。

 その左半分を、仁科は傷ついてない右手だけで撫でる。開いた傷はもう、継ぎ目をつくって塞がっていた。

「――鳴海。視えますか?」

 呼ばれて、すぐには反応出来ない。鳴海はゆっくりと二人の近くへとにじり寄った。

 言われるままに、仁科があてがっていた真文の左顔面を見る。

「……まだ、あの櫻が視える、けど」

 戸惑いが隠せないまま、ありのままを答えると、殺気立っていた仁科の表情が和らいだ。

「そうですか」

 長く息を吐き出すように言う。彼女の左顔面は、既に裂けた部分以外はもう元に戻っている。

 張り詰めていた緊張がゆるゆると解かれ、二人は同時に畳へと崩れた。

「ちょっと……疲れました」

 畳に倒れこむように座る彼は、額からも汗が吹き出していた。肩で息をし、怪我をした左手の止血をしようと右手で抑える。

 もう落ち着いたのだろう。驚異は終わった。小さく息をする意識のない真文を見やり、鳴海は堪らず口を開いた。

「――なぁ、仁。櫻を彼女からは出せないのか?」

 それに対し、仁科は苦笑いして鼻を掻いた。ずれ落ちた眼鏡を直して静かに真文を見つめる。

「最善は尽くしました」

 無感情な声が、仁科の口から飛び出す。

 あまりにも呆気ない。

 淡々とした言葉に失望を抱く。冷や汗だらけなのに、何故だか身体のどこかで煮えたぎる思いがほとばしるようで、握っていた拳に力が入る。

「これが最善かよ。お前の言う、最善って……」

 彼がどう思いを巡らせているかなど、考える余地もなく鳴海の口は開いていた。

 それにかぶせて仁科は言う。

「古くからの戒めというのは、頑固で強力。お前も知っているように、あの櫻は相当の数の人を刺して食ってきた、化け物です。私の力にも限界はあります」

 そう言われてしまえば反論は難しい。

 返す言葉が見つからないうちに、仁科が再び口を開く。

「しかし、その力を衰えさせることは出来ました。今や、あの櫻は生きることしか出来ない。だからといって、あれの力を封じ込めるのは、少々厄介が伴います」

「でも……」

 鳴海は真文を見つめた。乱れた髪の毛を撫で付けるように優しく触れる。

「彼女に櫻を押し付けることはない」

 鳴海の押し殺した精一杯の反論に、仁科は項垂れた。

「……今後、櫻の威力は収まるでしょうが、彼女の受けた呪いはそう簡単に消えるものではないのです。それに、お前だって元は彼女に良い印象を持ってなかった。違いますか?」

 今もなお淡々としたそれには、鳴海を黙らせる威力がある。

 こちらの目を見もしないくせに、あたかも自分は真意を見透かしていると言わんばかりに振る舞う。

 静かに罵倒されているように思え、鳴海は悔し紛れに唸った。

「お前は……本当に人でなしだ」

 どっちがそうだか。

 言った自分でさえ虫唾が走る。

 そんな鳴海の負け惜しみが込もった悪態に、仁科は頼りなく眉を下げて喪失の笑みを浮かべた。

「まぁまぁ、そう言わないでくださいよ。私だって彼女を助けたいのですから……無責任に、ここで放置することなどありません」

「当然だ。呪いが消えるまであたしが面倒見てやる……それくらい、やってやる」

 失念からか、後悔からか、鳴海から飛び出した強い思いに、仁科は眼鏡の奥の両眼を見開く。

「それは、頼もしい」

 仁科は傷を負った手のひらを袖の中へ仕舞うと、猫のように目を細めて微笑んでみせた。


 外が白み始める。夜明けの光が差し込むよりも早く、二人はテキパキと後始末を行った。

 仁科は吹き飛ばされたせいで背中が痛い、と呻いていたのだが、それよりも穴の空いた左手が鳴海には気掛かりで仕方なかった。

 散らかっていたはずの花弁や枝の残骸は、萎びて消え失せている。初めから居なかったかのように。

 しかし、爪痕だけは残していた。部屋に刻まれたおぞましい傷跡。真文の顔面に残る深く根強い裂傷。

 それらは日が経てば、人の手が加われば、どうとでもなる。見た目は。

 移りゆく時の流れは残酷だ。

 この戒めが朽ち果てるのも、この部屋と同じように塗り固められてしまうのだろう。無かったことにされるのだろう。

 しかし。

 それでも。

 心には、記憶には、どうか、どうか、片隅に残しておいて欲しい。

 二人は黙りこんだまま、部屋を後に。それから老夫婦に真文を託し、簡単な説明をし、早々と夜明けの道をゆっくり歩いて帰路についた。


 ***


「こんにちは」

 二日後。

 目を覚ました真文は朝食もそこそこに、再び猫乃手へ足を運んだ。未だ、左目には包帯が巻かれているが、傷は不思議と塞がっていた。

「おや、真文さん。その後、お加減はどうですか?」

 庭先で蹲り、雑草をいじっていた仁科がこちらを見上げて笑みを見せる。真文も笑顔を返した。

「お陰様で、すっかり……ではないですが、幾らか楽になりました」

「そうですか。それは良かった」

 仁科は満足そうに頷くと手についた土を叩いて立ち上がった。

「いくつかお聞きしたいことがあるのですが……中でお話しましょうか」

「え? はい……」

 訝しくも言われるままに、真文は店の中へ招かれた。


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