伍・少女はその目に愚行を宿す
猫乃手からの帰り道。真文は肩を落とし、ふらふらと雑木林を歩いていた。
砂利を踏む靴底と、少し粗めの石粒がこすれあって一定の細やかな音が作られるが、踏み鳴らしている感覚はない。足裏にすら伝わらない。
彼女の意識は別の所にあった。
まるで、自分の脳味噌だけが水中を漂っている感覚。淀んだ水の中。水分を含んだその脳は、ぶくぶくと海綿のごとく重く膨れ上がり、やがて奥深くへと沈みゆく。
途端、息が詰まった。
酸素は充分に身体へ行き渡っているはずなのに、呼吸が出来ないだけでこうも恐怖に駆られるのか。
心臓が脈打っていることに気づき、ようやく真文は我に返った。頭を振って、ふやけた脳内に思いを巡らせる。
本当に、彼らの言うことを信じても良いのだろうか? この傷が癒えるだろうか?
思えば思うほど、今度は不安が膨らむ。
ふと、薄い布越しから傷口をなぞった。固くざらついた歪な模様が、柔らかな指先の神経にまで伝わる。ミミズ腫れの傷を再確認して彼女は身震いした。
「お祖父様たちはああやって、仁科先生を信用しているけれど……他の人が何と言っているのかご存知ないのかしら」
昔、仲の良かった道場の門下生からその話を聞いたことがある。
「話を聞くに、あの雑貨屋の店主は変わり者だという。変な物を売りつけて、この村の老人を騙しているのさ。それに、化け物も囲っているらしく」
彼は猫乃手でどんな目に遭ったのだろう。
他愛もない話だろうが、あれはまさしく陰口だ。武道を嗜む者ならば隠れ忍ばず堂々と
しかし、人という生き物はこういった話が大好きなのだ。好物とも言える。
世間知らずの幼子であった真文は「ほぉ」と口を開いて、その延々な陰口に耳を傾けていたのもまた事実。
摩訶不思議な店の話は、例え陰口が情けなかろうと店主が変わり者だろうと、魅力を感じてしまうもの。
しかし、齢十五にして店の厄介になろうとは思いもよらず、また不気味でおぞましい依頼を持ちかけてしまえば、幼い頃の興味もとうに薄れてしまった。
恐怖と疑心で固められた心は何者にも溶かせやしない。
どうして今にそんな話を思い出したのか。
あの彼の笑みが胡散臭いものに思えたからだろうか。
どれほど優しく迎えられようとも、「助ける」と言葉をかけられてもなお、身を委ねるほどの信用は出来ない。仁科と鳴海、果たして彼らは自分にとって善であるのか、悪であるのか。
――あぁ、いけない。
真文は俯いていた顔をハッと持ち上げた。頬を叩き、首を横に振って邪念を追い払う。
いつしか人の機嫌を窺いながら、大人しくあろう、慎ましくあろうと生きてきた。
そんな真文がここ最近で得た教訓は『人間というのは疑うべく生き物だ』ということ。それがどんなに失礼極まりないことか重々承知の上だったが、染み付いた習慣というのはなかなか正そうにも難しいのが現状だった。
雑木林を抜ければ、川のせせらぎが耳に届く。
川辺に立ち並ぶ櫻並木の奥、向こう岸には枝を失くした今にも崩れそうな櫻の樹が右目に映った。はた、と立ち止まった真文は呆けるように、黒い幹を見つめる。
「うわ……祟り持ちだ」
やや強張った囁きが、風の流れに沿って伝った。
ふと、視線を変えると、川上の方で村民の姿が窺えた。仕事に勤しんでいたらしい若者たちの帰宅時間と重なったのか、気づけば周りには人がちらほら見渡せる。中には櫻に殺された男とつるんでいた者も。
彼らは真文の姿を見るなり、そそくさと遠ざかり、奇異の目で見つめるのだ。
「あの櫻から祟りを貰ったんだと」
「それで顔を隠しているのかい?」
「なんでも、人目に出せない酷さらしい……」
そのざわめきには、悪意と畏れが混ざり合っていた。
皆がこぞって責め立てる。
その目、目、目……視線はさながら、見えない矢のごとく真文の左目を突き刺していく。
「ご、ごめんなさいっ……」
顔を覆い、真文は逃げるようにその場から走り去った。
怖い。あの時と同じだ。
冬の冷たさが骨まで届くあの夜。狂気と恐怖と叫声に満ちたあの夜。櫻に左目を奪われたあの夜――。
今はもう、彼らの目が怖い。昨日まで、あんなに仲良くしていたのに。笑い合い、人として接してくれていたのに。
信頼を得るのは時間がかかるのに、それを失うのはいとも簡単。容易く脆い。なんと、不条理なのだろう。
橋を渡り丘へと続く石段を、彼女は始終、袖で顔を隠して走った。胸が苦しい。急な運動によるものではなく、向けられる奇異の目がそうさせるのだととっくに気づいていた。
早く隠れなくては。この顔を晒すくらいならば、もう二度と外へなど出るものか。
石を叩き、数段飛び越える勢いで駆け、丘を上りきると真文はようやく安堵の吐息を漏らした。
外に出ていた祖母の顔がすぐに見える。
「お祖母さま!」
思わず大声で呼ぶと、驚きの色を浮かべて祖母が振り向いた。すぐに柔和な笑みを見せてくれる。
それだけで、溜まっていた何かが弾け飛んでしまい、真文は右の頬に涙を一筋落としてしまった。
「お祖母さま……」
息を切らして、祖母の元へとよろめく。そんな孫娘を、祖母は両手を広げて小さな胸の中に迎え入れた。
「真文、大丈夫だったかい?」
ゆっくりと、体の芯を温めるような声。その問いに、真文は思わず言葉を詰まらせた。
祖母は眉を頼り無さそうに下げており、深く刻まれた皺には陰影が浮かんでいる。
そんな祖母の顔色を伺い、真文は落ち着きを取り戻そうと躍起になった。意味もなく、着物の皺を伸ばそうと引っ張る。
「っ……はい……大丈夫です」
「どうして泣いているのです?」
「これは……いえ、なんでもありません」
悲しみと嬉しさが同時にこみ上げた、その感情がどうにも上手く言葉に出来ずに真文は口をつぐんでしまった。
そんな孫娘の頭を撫で付ける祖母は小さな笑いを落とす。
「可笑しな子ですね。さぁ、夕餉の支度をしますよ。手伝ってくれるかい?」
ようやく祖母の腕から離れ、真文は頬に落とした涙を振り払った。
「はい」
小さく大人しく返事をすれば、祖母は彼女の右側に優しさを向けてくる。そして、脇に置いていた籠を持ち上げると真文を家へと手招きした。
***
「まったく。連中ときたら、どうしようもなく冷たいもんだよ。まったく……」
食事の間、祖父はしかめっ面で愚痴をこぼしていた。
どうやら祖父は、今日は連絡もなしに無断休を働いた門下生の家々を巡っていたらしい。
小さな森文彦道場に、門下生は三人。そのどれもが村の若者で、内一人は十も満たない子供である。
祖父は、元々剣道を得意としており、江戸の時代には村一番の剣道の達人とまで名を馳せていた。
それからは他の武芸にも手を出し始め、大抵の武芸ならばこなせる隠れた超人であった。腰を痛めるまでは、の話だが。
そうして昔は栄えていた道場も、真文がこの村へ預けられた頃には衰退しており、明日の存続も厳しい。その要となる門下生三名の足が途絶えた理由としては、昨日の騒動を全員が見ていたからにほかならないだろう。
「真文が何をしたって言うんだ。何も危害を加えたわけではないのになぁ。まったく、情けない。男がああじゃ、世も末だな。まったく、本当に、まったく……」
「お父さん。先程から箸が進んでいませんよ」
静かに食事をしていた祖母がようやく窘める。厳しい声音に、祖父は慌てて箸を握った。
「……あの、お祖父さま。門下生の方々はおいでにならなかったのですか?」
真文は思わず訊いていた。
嫌でも耳に入る話に、胸がすく思いでいるのが耐えられなかった。祖父の顔が瞬時に曇り、祖母は眉を
「いや……うーん……何も、お前のせいではなくてだな」
「お父さん」
更に墓穴を掘りかけた祖父に、祖母の鋭い声が飛ぶも、真文は既に箸を膳の上に置いて立ち上がった。
「やはり、私のせいなのですね」
そうして、肩を落とし「御馳走様でした」と言い残して居間から逃げ出した。背後から祖父母の声が聞こえたが、構わず自室へと向かう。
祖父の困った顔など見たくなかった。祖母の遠慮がちな微笑みも見たくなかった。
何故、こんなことになったのか。
小さな自室の
――私が悪い。
全て、私が悪い……悪い……悪い?
悪いのは私? 本当に私?
私は、悪いことをしたのだろうか。それならば、何がいけなかったの?
逃げたこと? それとも、あの場で死ななかったこと――
悪い考えがぐるぐると渦巻き、目眩がしてくる。それでもなお、真文は頭を抱えて問答を繰り返した。
呼吸は乱れ、手に熱がこもる。湧き上がる様々な感情が更に思考を惑わせる。
「いいえ。私は悪くないわ……だって、だって、悪いのは……」
悪いのはあんな戒めだ。
あれのせいで、こんなにも自分は苦しんでいる。何が村の掟だ。何が戒めだ。
あんな根も葉もない戯言のせいで、村民も私も今まで長いこと縛られていたのではないか? そのせいで、皆が悪い夢を見ているのではないか?
そうだ。あんな恐ろしい現象、有り得るはずがない。
――では何故、私はこの有り様で苦悩している?
真文は、ゆったりと頭を持ち上げると、隅に立てかけていた姿見の布を捲った。そして、不格好に巻かれた顔の包帯を恐る恐る取り除く。
奥歯の辺りが、僅かに震えた。それが伝うように指先も。横に垂れた短い髪の毛を両耳に掛ける。そして、瞑っていた右目を開いた。
鏡面に、滑らかな白い右頬と幾重にも亀裂が入った裂け目のある左頬が映る。左瞼など、自力では開かれずに張り付いてしまったよう。昨日までの平常さはどこへ消えてしまったのか。今朝よりももっと傷が深いように見える。
その醜さを目の当たりにし、息を飲んだ。
「あぁ……」
やはり夢ではないのか。
亀裂の線を指の腹でなぞると、やはり、ざらついた感触があった。
「どうして……」
鏡の自分に手のひらを押し付ける。これ以上見たくない。
鏡面に縋りつき、彼女は嗚咽を漏らした。
涙が溢れる。全部、右から。
涙さえも左目は流せなくなってしまっていたことに気づけば小さな嗚咽はどんどん、どんどん膨らんでしまう。
やがては幼子のごとく声を上げて泣いた。
声も涙も枯れることがない。鏡面から離れて、畳に突っ伏して泣きじゃくっている。
祖父母にも聞こえていただろうが、こちらへ声を掛けてこないということは、幾らかの配慮をしてくれているのだろう。
二人はとても優しい人だ。それなのに、あの二人に迷惑をかけてしまった。こんなに醜い孫娘など、もういなくなったほうが良いのではないか。いっそ、消えてなくなってしまいたい。
真文は絶望に侵食される感覚を味わった。自分を攻撃することで、祖父母が救われるのではとさえ思いを抱いた。
どれほど泣き続けていたのだろう。
思いを巡らせているうちに、いつしか声も涙もしくしくと小さな音へと変わっていた。右目が腫れている気がする。瞼が重い。
手の甲で涙を吸い取り、真文は溜息を畳に落とした。夜闇の色に染まった
涙の痕だろう。その湿った上に手のひらを翳し、彼女は打ちひしがれたまま洟をすすった。
もう考えることも疲れていた。胸の中は既に
ぽたぽた、と。
色のない水たまりが出来上がっていく。
そこに滴り落ちるのが、涙の他にもあることに、すぐには気がつかなかった。
見間違いだろうか。
水気を吸った畳の上に、何故か花弁が落ちている。
「これは、櫻……?」
淡い紅の小さな花弁。
それを指で摘み、顔を上げた時、真文は鏡に映る自身の姿に両の目を
「ひぃ……っ……!」
先程、見つめた傷が変形している。
ゆっくりと、膨れ上がった傷口が頬の皮膚を引っ張っている。櫻から受けた傷が開いていく。継ぎ目をこじ開けるように、何かがゆっくりと壁を破っていく。そして、その中から見えたのは、そこにあるはずの白い眼球ではなく、黒い櫻の枝だった。
「あ……あぁ……」
鋭いその枝と目が合い、全身を強張らせてそれを凝視する。
枝はやがて、傷口を更に広げて芽を伸ばし始めた。しゅるると真文の目から飛び出ていく。
眼球に根を張っているのか、徐々に顔の骨が軋んでいくようで、その小さなギシギシという悲鳴が内側から鼓膜へと捻じれこんだ。
途端に大きな掌で握り潰される圧迫感に襲われ、頭蓋骨が音を立てて崩れるかのように、軋みが一層増していく。
「いや……嫌よ……そんな、そんな……っ!」
茂る枝を抑えようと、真文は左顔面に手をあてがった。
しかし、櫻の勢いは増すばかりで、やがては太い幹が傷口を引き裂く。指の隙間から、蕾やら花弁やらが溢れていく。
薄い紙を破るような、繊細な細胞が壊れていくような音が真文の耳に届く頃、それが自分の皮膚や肉を裂いているのだと気づくまでに時間はかからなかった。
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