肆・明日ありと思う心の徒櫻

 すっかり陽が落ちた山間の村は、シンと静まり返り、天も地も墨をこぼしたかのよう。

 この辺りに住む者は皆、陽の入りと共に活動を止めるので夜更けに出歩くことは滅多にない。しかし今となっては、夜を迎えるまでにきっちりと所要を済ませるという徹底ぶりだった。

 これは、くだんの櫻幹事件が最大の要因だろう。

 あの冬以来、村は夜中の外出に神経質だった。やむを得ない場合のみ数人で外を歩く、そんな暗黙の決まりごとまで蔓延る始末だ。

 二十四節気で言えば啓蟄けいちつも過ぎた頃ではあるが、山間の夜は今も空気が凍る。花冷え、というにはまだまだ早くとも、指先が凍える冬の寒さと同等の気温だ。

 寒さを凌ぐためにきっちり戸や雨戸の締め切られた家々が、雲間から覗く月明かりを浴び、徐々に闇から姿を現していく。

 静寂。風すらも黙りこむ。

 しかし、その空気に反する者が現れた。

 静かな世界に砂利を踏む足音が響く。村外れの雑木林から、赤々と燃る橙の灯りが暗がりの中で見え隠れする。

 やがて、その光はゆっくりと林を抜けた。提灯はどうやら二つのようで、仄暗い灯りはその人相をぼんやりと浮かばせる。

「いやぁ、なんとも絶好の肝試し日和ですねぇ」

 先を歩く痩身の男が嬉しそうに空を見上げた。月の見えぬ穴蔵のような丸い天井に、呑気な笑いを向けている。

 その後ろから静々と歩く背の高い女……外見は女である人物が煙管を吹かしながら隣の男を窘めた。

「何を馬鹿な事を……それに季節外れだろう。肝試しは夏にやるものさ」

「おや、まさかお前が話にのってくるとは思いませんでしたよ」

 その返しに、苛立つのも馬鹿馬鹿しく思えてくる。呆れと諦めを表すように煙を吐き出した。

「それにしても、なんでしょう。外へ行く用事がまたも櫻幹だなんて、これはもう命運としか思えませんね」

 浮かれているのか、それとも悔いているのか……妙に曖昧な口ぶりである。

 仁科 仁と榛原鳴海は例の櫻の元へ向かっていた。

 その樹がそびえ立つのは、集落よりも少し離れた細い川と丘を挟んだ砂利道である。

 昔から言い伝えられていた「櫻幹」は、この村に長く息づいており、二人もこの地に辿り着いた頃から話には聞いている。ここ数年で、日本情勢の変わりゆく新しい息吹が、若者たちを焚き付けたせいで戒めを信じない者が出ていることも。

 それに「戒め」だと口を合わせてはいるものの、若者だけでなく村民の大半は畏れを忘れていた。声高に発信しているのは老人のみだから、重んじなくとも大概はその戯言に従おうという体で今日まで平穏無事に暮らしていたのだ。

 その日が迫っていた冬、村の老人たちは聞く耳を持たぬ若者の身を案じていたものの、心の内どこかでは冷徹さを浮かばせていた。

「言い伝えを馬鹿にする者は、必ず罰が下る」

 勿論、純粋に若者たちを心配する声もあった。その内の一人が薄っすらと仁科に話をしていたもので、あの日、様子を見に行くという名目で川辺を張り込んでいたのだ。

 鳴海が前以まえもって確認した際、櫻は死んだように眠っており、他の櫻と見紛うほどに静かだった。

 異物であれば、擬態していようとも僅かな違和が浮かび上がるもの。活動も厳しいのでは、と軽視しつつ幾らか用心はしていた。

 それなのに。

 まさか、あの大人しい櫻が一晩のみ力を使う為に身を潜めていたのだと知り得たのは当日のことだった。念のために張っていた術をいとも簡単に破るなんて。

 そうして、若者の一人が腹を貫かれて即死。

 櫻の下で無残な肉片と化した十代後半の若者がまさに逸話の遊女と同じ有り様で、枝に貫かれた屍の腹からは臓物が剥き出しだった。事態は思っていたよりもかなり深刻である。

 生き血を吸う櫻。生あるものの命を全て残らず掠め取る。

 あれは櫻と呼ぶには軽すぎだろう。化物――人を喰らう恐るべき化物のというのが相応しい。

 さて。この平和な村で数十年ぶりに被害が出たというこの悲報は、瞬く間に村中へと駆け巡り、多くの目が冴えたという。

 だが、仁科たちの失態をなじる者はなかった。寧ろ、端から信用されていないのでこちらの存在は空気である。

 その代わり、彼らは手のひらを返すように「戒めを侮った罰だ」と盛んに声を上げた。元々は迷信を重んじる教育を施されて今までを生きていたのだ。

 それが仇となったのか、被害者を弔うという気概を持ち合わせる者は少ない。あの運が良くてたまたま生き残った、櫻の被害者である森真文にも良い印象はなかった。

 そして、村民の持つ冷淡さは、実は鳴海にも通じる所がある。

 戒めを敢えて亡き者にすることに前向きではないもので、元より櫻退治に乗り気ではなかったのだ。

 確かに、真文の件は気の毒だ。こちらの落ち度もある。

 だが、戒めを重んじておけばこうはならなかった筈だ。死んだ若者もそう。浮ついて馬鹿を引き起こしたに過ぎない。真文は居合わせただけなのだろうが、あの傷は気の緩みが招いた災厄である。

 あの潤んだ瞳に、ただただ「望み」を託すだけの無自覚な身勝手さが隠れているように思えて仕方がない。

「可哀想に」「そんな姿になってしまって」

 あぁ、口ではなんとでも言えるのだ。

 ――

 そんな非情を抱いてしまい、鳴海は端正な顔を醜く歪めた。

「人」の勝手さには異を唱えるべきだ。

 時代の移り変わりも、所詮は人の勝手が招くこと。そのせいで、失われつつあるものだって山程ある。憂う暇さえ与えちゃくれない。

 一目見た時、真文の包帯の向こうにあるものにを感じた。そして、仁科からの「櫻幹」という言葉を聞いた瞬間、確信した。

 あの冬、川辺で見た櫻の狂気に圧倒された後、仁科が先を走り、何かを追いかけていた。娘があの場にいたというのは事が済んで聞いたが……まさか、櫻が虫の息でも娘に傷を負わせていたとは。しかも、それが三月も後に発覚しようとは。

 見たところ傷は深いようだが、狂気を孕んだ櫻とは似ても似つかぬだった。傷は遅かれ早かれ、薬を使えば多少なりとも癒えよう。

 求められればくれてやるが、目に宿った化物を相手に、正直なところ無茶はしたくない。これ以上の行いは手に負えないと、はっきり断りを入れようと決めたのに、あろうことか仁科が「助ける」と言ってしまった。

 一体、どうして奴はああも簡単に受け入れるのだろう。

 厄介は自分だけで充分であるのだから、これ以上の厄介は抱えたくないのが個人的な理由である。

 故に、想定外の事態に頭を抱え、嫌々承諾したものの心は今でも否を唱えている。いやはや、どうにも腑に落ちない。「あたしも相当の馬鹿野郎だな」と鳴海は溜息を交えて鼻で笑った。

「何か面白いことでもありましたか?」

 僅かな笑みの溢れが先を行く仁科に聞こえたようで、鳴海は思わず彼を突き飛ばした。

「何でもない! それに、何も面白くなんかないんだよ! この日和見野郎!」

「夜更けに騒ぐもんじゃありませんよ。煩いです」

「お前に言われたかぁない!」

「まぁまぁ……おっと、到着したようですよ」

 鳴海を適当にあしらうと、仁科は足を止めて提灯を頭上に掲げた。その瞳は、揺らめく光を捉えている。

 枝を失くし、無残に亀裂の入った櫻の屍が、ひっそりと佇む。その小さな川辺の砂利道で鳴海も立ち止まった。

「櫻は人の死体を食って咲く、と言いますがこの櫻はまさにその通りですね。まぁ、今は見る陰もないですが」

 仁科の呑気な声。鳴海は黙ったまま櫻を見つめていた。持っていた煙管の雁首を逆さまにして、灰を地面に捨てる。そして、空になったのを確認して袖の中に忍ばせた。ゆるゆると滑るように櫻へ近づく。

「気をつけて」

 背後から声をかけられる。それを無言で受け取って、鳴海は手のひらを闇の中へ這わせた。

 ザラザラとした大木は異様に冷たい。指で樹を撫でると、あの日は感じなかった脈打つような違和が伝ってくる。

「何か、えますか?」

 仁科が囁く。鳴海は黙ったまま、長く息を吐き出すと、首を縦に振った。

「そうですか……では、まだ櫻は生きているのですね」

「いや、もう……」

 今度は言葉を返した。その声色は低く重い。

 いつもは威勢がいいくせに、良からぬことを予期してしまうばかりに口が上手く使えない。

 それでも、仁科はじっと待ち続けた。鳴海の見解をどうにか知ろうと耳をそばだてている。それに応じるべく、やがて鳴海は決したように唾を飲み込んだ。

「触れて分かった。こいつ自体はもう死にかけだ。戻ろうにも戻れない。要するに、この樹は器だけのものさ」

 割れた樹の皮はボロボロで、今にも塵と化しそうだ。手のひらに張り付いた粉のようなぼろくずが、ばらけて地面へと還っていく。

「死にかけ……ですか」

「あぁ。こいつはもう、あと僅かだ。櫻としての器はもう朽ちるだろうね。だが」

 鳴海は振り返って仁科を見た。暗がりでよくは見えないが、その表情が芳しくないのは彼の放つ負の気配で判る。どうやら、考えることは同じなのだろう。

「次の器を探して、もう見つけてしまった。ゆっくりと、その器に忍び込んでいる最中だろうよ。で、その器が……」

「森真文さん」

「あぁ……あの娘、櫻に食われるぞ」

 口にして、すぐさま背筋に寒気が走った。

 櫻の呪いを受けて、生き残った人間というのは聞いたことがない。毎年暮れになれば村の老人に櫻の話を聞いていたが、ただの一つもなかった。

 もし、あれが人に宿ったら――

 前例がないだけに、恐ろしさは倍増する。

 張り詰めた空気に、少しの熱が走った。鳴海の表情は険しくなる一方だ。それはどうも仁科も同じらしく、神妙な顔を見せていた。

「そうですか。困りましたね……もう少し早く相談があれば良かったのに」

 表情とは裏腹に、全く困ってなさそうな軽薄さを漂わせる。それに対し、鳴海は「フン」と鼻を鳴らした。

 奴はいつだってそうだ。本心はひた隠し。今でさえ、この現状に困っているはずなのに口はいつも軽々しい。それだから誤解を受けやすく、胡散臭くて気味が悪い。本当に人でなしのろくでなしだ。

「……なんだか、嫌な悪態をつかれたような……気のせいですかね」

「あぁ、気のせい気のせい」

 鳴海は煩そうに手を振って、櫻から離れた。

「これからどうする?」

 回収するべく情報はこれ以上望めなさそうだ。

 仁科が引き受けた依頼なのだから、ここはもう彼に判断を委ねるしかない。袖に忍ばせた煙管を取り出して、手で弄びながら鳴海は応えを待った。仁科が鼻の頭を掻く。

「それは勿論、毎度のように片は付けたい……しかし、どうにも難しい」

「難しい、か……そらぁ、まぁ」

 分からんこともない。

 鳴海は苦汁を舐めたような顔で黙り込んだ。

 もしかすると、もう手遅れなのかもしれない。いや、まだ策はあるかも。

 思いを天秤にかけてしまうほど、この櫻はとにかく視えにくい。

 動向も動機も不明瞭で、一体何故、生身の人間に今頃取り憑こうというのか。そこまで生き長らえたい理由があの櫻にはあるのだろうが、何しろあれに宿っていた化物は言葉も思念も失っている。

 怨霊ならば何かしら強い恨みつらみを抱えていそうなものを、あれはその要素が欠けているのだ。

 それが鳴海の判断をぐらつかせる要因である。

「それともう一つ。私は、櫻よりも真文さんが引っかかります」

「あの娘っ子にかい? どうしてさ」

 顎に手を当てて考えに耽る相棒を前に、鳴海は首を傾げた。それを見やり、仁科は眉を下げて口を開く。

「おかしいと思いませんか。傷を受けて、三月も放置していたのですよ。かすり傷だったとは言え、この辺りではまぁまぁ良い家柄のお嬢さんです。顔に傷が付けば大騒ぎになるほど……そして、彼女はこう言っていました」

 ――お嫁に行けません。誰にも会えません。

「それがどうした。なかなかに自分本位なんだと思うが」

 仁科が気にする部分がよく分からない。

 鳴海は森真文の大人しそうな顔を思い出して唇の端を吊り上げた。それに返答するよう、仁科がこれ見よがしに深い息をつく。

「自分本位、にも思えますけど、それならば三月も傷を放置するでしょうか。かすり傷でさえあの年頃ならば気にして当然。彼女はどうにも自身に執着がないような……そう思いませんか?」

 言われてみれば確かにそうなのだが……ただ単に、彼女が大雑把で怠慢だったとも考えられる。

「……考え過ぎだろう?」

 あまり頭を煮詰めると、どんどん深みに嵌ってしまうので鳴海はここで打ち切った。今は森真文よりも櫻だ。

 仁科も目的を思い出すべく、「そうかもしれませんね」と苦笑を返す。

「因みに、森さんがこのまま櫻に乗っ取られたらどうなると思いますか?」

「なんてこと聞くんだよ……」

 鳴海は僅かに肩を震わせた。

 そんなの決まっている。あの化物は、一定の日になれば人を串刺しにするのだ。今までの眠りが嘘のように、畝る幹としなる枝が狂気を奮う。

 今までは地面に根を張り動けなかったからまだしも、自由になれば「森真文」に成りすまし、夜な夜な人を狩りに行くやもしれない。

 穏やかな娘が化物へと変貌する――

 あぁ、おぞましい。酷く気持ちが悪い。視えてしまうから余計に感情が揺さぶられてしまう。

 目の端に黒煙のような幻影が掠めていくように思え、それを振り払わんと鳴海は首を振った。

 ――そんなこと、あって堪るか。

「登志世。具合でも悪いのですか?」

 仁科が顔を覗く。

 いきなり現れる眼鏡に、陰鬱な思いを巡らせていた鳴海は思わず肝をつぶした。すぐに蹴飛ばす。容赦はしない。

「何でもない! 登志世と呼ぶな!」

「……律儀に訂正を入れるほどなら、心配も無用でしたね」

 蹴られた脛を擦る仁科だが、ちっとも痛そうでないので心底不気味だった。攻撃しても顔色一つも変えない様が歯がゆく憎らしい。こちらの気も知らず、彼の振る舞いには苛立ちが募る一方だ。

 心休まる日を待ち詫びるのも幾度目か。

「それでは、森さんの元へ向いましょう。事は一刻を争うでしょうから」

 体制を立て直して、仁科が川上を指差す。丘にある道場までは、歩けば少し遠い川上の方角にある。

 鳴海も提灯を掲げて、夜闇の道を照らした。

「万が一、間に合わなかったらどうする」

 あまり考えたくはないが、一応の考慮は必要だ。訊くと仁科は珍しく押し黙った。

 彼なりに何か思うことはあるのだろうが、その複雑怪奇な脳味噌で一体どんな策を構築しているのかまでは視えない。

「出来るだけ、は尽くします」

 無感情の笑みをこちらに向けて仁科は言った。

「まったく……」

 前向きな答えではあるが、いまいち信用ならない。二重にも三重にも疲労困憊した煙を吐き出しかけた、

 その時、

 悲痛を訴える金切り声が二人の耳をつんざいた。

 背筋にぞわりと走る本能的な戦慄。悲鳴は絶え間なく、冷えた空気を切り裂いていく。

「仁!」

 呼ぶや否や、既に彼は丘の上を睨んでいた。紛れもない。音の出処は分かりきっている。

「仁……まさか……」

「急ぎましょう」

 その言葉を残像に、彼は砂利を蹴散らし飛ぶように川上の方角へと駆けた。



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