参・渾沌を招き見抜く者
「改めて紹介をします。私、仁科仁と、これが
ガツンと、石をぶつけたような音。丈夫そうな拳が仁科の頭に直撃する。
向かいに座る真文は、顔を引きつらせて口元に手を当てていた。
「登志世じゃねぇって言ってんだろうが……ごめんなさいね、森さん。あたしは
深々と丁寧に頭を下げる榛原鳴海という人物。真文も慌てて会釈する。
「ご依頼の方がいらっしゃるとは露知らず、お見苦しい所をお見せしました」
「い、いいえっ……そんなこと、は……」
鳴海は綺麗にまとめ上げられた豊かな髪の毛を
しかし、声はどうも無理をしているのか高いのだが、女性のそれではないのだ。ようく見れば、その線こそは細いのだが、首元の喉仏が目立ち、幾らか肩幅も広い。
一体どちらなのか、その予想は鳴海が口を開いたと同時に脳の隅へと葬られてしまった。
「森さん。ご依頼というのは、その左目……妖の類であるとお見受けられますが、如何でしょう?」
気安く小首を傾げる鳴海だが、微笑の中にある鋭敏さに真文は言葉を失った。
何も説明をしていないのに、何故分かるのか。ただただ驚くばかりである。
「なんでしょう。とても悪い……それに、どうも土の匂いがします。いや、これは植物か……」
ぶつぶつと呟く鳴海。その視線は、包帯の奥にある左目を貫くよう。真文は挙動不審に仁科を見やった。
「まぁ、お前ならばすぐに分かると思っていましたよ。何せ、川辺の櫻幹ですから」
彼は殴られた頭を擦りながら楽観的に笑う。
そのサラリとも白々しい言い方に、鳴海は危うく聴き逃したと言わんばかりに彼を二、三度は見返した。
「さ、櫻幹だって?」
「はい」
鳴海の大袈裟な驚きようにも仁科は動じない。
戸惑う真文を盗み見て、次に鳴海を目の端で見た。その俊敏な合図に、鳴海も気まずそうに咳払いする。
「――あれはとんでもない妖気を蓄えている、もはや化け物です。その櫻から傷を受けたとなれば……その左目、治ることはまずないでしょう」
「そんな!」
鳴海の固い声に、真文は思わず立ち上がった。
「あんまりです。もう、もう治ることはないのですか? 本当に? 僅かな望みさえもないのですか。私は、このままで生きていくしかないのですか」
必死に捲し立てる彼女に鳴海は目を伏せる。長い睫毛が影を落とした。その仕草のせいで、不安はますます煽られる。
「森さん、落ち着いて下さい。何も策がないわけではありませんから」
仁科が横から入り込んだ。その穏やかな低音を聴くと、不思議と感情を飲み込んでしまう。
両の拳をふるふると腿の横で握り、「申し訳ありません」と呟きながら腰を畳に下ろした。沸き立つ思いを堪えるために唇を噛む。
一方、眉を顰めて仁科を睨む鳴海が、真っ赤な紅を差した唇をこそりと開いた。
「仁……」
窘める響き。
真文の耳にも届いたが、その真意まで考えが及ばない。
向かい合う両者の隙間には静かな痺れがあった。その隙間を縫うように、仁科の声が流れてくる。
「確かに、鳴海の言うよう、『完治』までは難しいでしょう。しかし、出来る限りのお力添えはいたします。時間も掛かるかと思いますが、それでもよろしいですか?」
半ば、説き伏せる物言いだった。
完治は難しい。
しかし、このおぞましい姿からは幾分、解放され和らぐかもしれない。
絶望がほとんどの胸中に希望の一筋を見出し、真文はようやくこくりと首を頷かせた。
両手を重ね、畳に額を押し付けて頭を下げる。
「よろしくお願いいたします。この目が少しでも良くなるのならば」
その声は、恥や落胆、恐怖などあらゆる感情を吸いとった海綿を、固く固く絞ったようだった。
思うことは様々あれど、無力な自分には願いを託すしか道がない。
そう言いたげな、苦しい申し入れだった。
***
「仁……」
真文を見送った後、鳴海は相棒の丸まった背に呆れを投げつけた。手には長い
「お前、あの娘を本気で助けられるとでも思っているのか?」
「えぇ」
どこまでも涼やかな応えに、鳴海は苛立ちを隠しもせず舌を打つ。
「期待させることを軽々しく口にするなんて、正真正銘の馬鹿野郎だ。この人でなし」
「……そうですね」
罵倒されても彼は、開け放した障子窓の奥を眺めているだけで、こちらには一切見向きしない。
見えない感情に、鳴海は探りの目を向けたが、すぐに諦めて溜息混じりに煙を吐いた。
燻らせた紫煙が春風に流され、障子の外へと流れ出ていくのを目で追う。すると、煙越しに仁科の声が伝ってきた。
「――でも、ここは『霊媒堂 猫乃手』。私とお前なら、幾らかの手助けは出来る筈です。今までもそうやって来たじゃないですか」
「そうは言うが……お前、あの櫻幹だろう?」
鳴海の苦々しい表情は、どうやら煙を吸い込みすぎただけではないようだ。含み、言い淀むも口に出す。
「あれは失敗だった。完全に油断していた。それの……犠牲者がまだいたなんて、こちらとしては深手もいいとこだ。ジジイどもが今にでも喚きだしかねん……」
「だからこそ、ですよ」
仁科は微笑みを湛えてこちらを見た。遮るその声に僅かな哀が窺える。そのせいで、鳴海はもう何も言わなかった。
夕暮れの山は黒く、有彩を飲み込んでいく。春の麗らかな風は唐突に冷たくなり、日が落ちていくことを告げる。
それを認めた鳴海は煙管を灰皿に置き去り、店の奥へと引っ込んだ。
三和土の奥に位置するそこは、寝具や衣服が放られた手狭な空間だった。その一角に、膝丈ほどの長方形が置いてある。
四面が和紙で出来た、古い置行灯が静かに佇んでいた。底は
鳴海は、入れていたマッチを手に取り素早く擦ると、行灯の蝋燭に火を点ける。すると、鳴海の後を追うように、仁科の声が空気を伝ってきた。
「……その行灯、もう時代遅れですよ。いっそ新しいものに変えましょうよ。電灯に。まだ見たことありませんが、とても明るいんだとか」
振り向かずとも、彼が背後に立っていることは容易に分かった。マッチを仕舞いながら、仁科の言葉を鼻で笑う。
「馬鹿言うな。これはうちの爺さんから譲り受けたものだ。遅れてなんかない。時代が先走っていくことのがよっぽど愚かさ」
つっけんどんに言うも、古ぼけても立派なその照明を大事そうに愛でている。
和紙から漏れ出てくる蝋の火を瞳に映せば、立っていた気も幾分収まりがつくのだ。
「お前も村の爺様たちと変わりませんね。そのうち置いてけぼりにされますよ」
苦笑で返す仁科に、鳴海は「
日がすっかり落ち、辺りが暗闇に染まるまで、二人はゆったりと時を弄んでいた。行灯が煌々と輝きを増してゆく。
「よし」
それまで黙想していた鳴海が息だけで呟いた。それを聴き逃すことなく、仁科が組んでいた腕を解いて反応する。
「では、登志世。行きましょうか」
そう言葉をかけて、自分は部屋の隅に置いた墨色の羽織を手に取る。
鳴海も立ち上がり、帯を締め直した。結い上げた髪の毛もきちんと正しながら、気乗りしない声音でぼやく。
「あぁ。まったく、厄介な仕事だよ、本当に……」
「厄介はお前です。今日も、色んな厄を従えて店に突撃したではないですか」
「……煩い」
昼間の一件を蒸し返され、鳴海はバツの悪そうに顔をしかめた。
あの騒動は確かに自らが招いたもの。外へ出ると毎度、厄が身にまとわりついてくるので辟易してしまう。
いつまで経っても不便な身体に慣れやしない。
やり場のない不甲斐なさはやはり苛立ちへと変化する。これを消化しなければ、仕事に支障を来すだろう。
外に出て鍵を閉めると、鳴海は静かに拳を振りかぶった。それは仁科の脳天へと見事に命中する。
「いてっ」
不意を突かれた仁科が小さく悲鳴を上げる。そして、釈然としない面持ちでこちらを振り返った。
「なんですか、急に。痛いです」
「煩い。あたしを登志世と呼ぶな。この人でなし」
その不毛な応酬をした後、二人は深い闇の中へと飲み込まれるように消えていった。
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