弐・忌まわしい傷と厄の怒号

 店に入るとすぐ右手にある六畳間の中心で、痩身の男と小柄な少女が向かい合って座っている。

 麗らかとは程遠い無愛想な空気が窓から流れ込み、袖からわずかに覗いた腕を掠めた。その冷たさにぽつぽつと肌が粟立つ。

「――では、少し見せて頂いてもよろしいですか?」

 仁科の問いに、真文は躊躇って顔を俯けた。

 祖母によってきちんと巻かれていたはずの包帯が、今ではもうすっかり開けようとしている。

 つい昨夜のことだった。夕餉ゆうげの後片付けをしている際、祖母が唐突に悲鳴をあげたのだ。

「真文の左目が

 そう言って。叫んで。

 祖母は涙を流した。

 彼女の左目は、あの櫻幹によって傷がついてしまった。瞼の真ん中が割れ、眼球にまで深く爪痕を残したように。

 そんな痛々しい様なのに、彼女は痕を気にする素振りだけで痛覚はないという。

 不思議なことはそれだけではない。祖母が悲鳴を上げるまで、その瞬間まで傷跡は掠っただけの小さなものだったのだ。

 嫁入り前の娘に、顔の傷は人生の致命傷とも言える。祖母が悲しんだのは、勿論心配が大多数だろうが、涙と同時にぽろぽろと零していたのは絶望めいた言葉だった。

 熱心に心血注いで育てた、たった一人の孫娘である。傷のせいでその行く末を案じてしまうくらい祖母の悲しみは飛躍し、深いものだった。

 対して真文は、祖父にすがって泣く祖母を見て居たたまれずにただ「ごめんなさい」と呟くだけでいる。とんでもない事態を引き起こしたのだろうと、遅ればせながら気づいた。

 あの日の櫻なのだろうか。

 かすり傷だと思いこんでいたのが、とてつもない災厄を招いてしまったのでは。

 不安は重く伸し掛かり、祖父母に押し出されてここへ辿り着いた次第である。

 足の悪い祖母を付き添わせるわけにもいかず、無理矢理に「一人で行けます」と飛び出したのだが、あの口元を覆って眉を下げるさめざめとした心配の顔色がどうにも頭から離れなかった。

「あ、あの……やはりお見せしないといけないのでしょうか……」

 消え入るような声で言う。およそ無に等しい彼女の抵抗に、仁科は困った素振りで鼻を掻いて応えた。

「う~ん、そうですねぇ……見せて頂かないことには、どうにもこうにも判断がつきませんから」

「えぇ、まぁ……」

 端から分かりきっていた。しかし、年頃のうら若き乙女の抱く羞恥は強固なものである。

 しばらく指先をまごつかせていたが、意を決してようやく包帯を外しにかかった。力を込めていないと、指先が僅かに揺れて手元が狂いそう。

 今も尚、鮮明に甦る恐ろしい記憶――あの櫻が本当に人を串刺しにしているのだと、何故信用しなかったのか。後悔の念が波となって押し寄せる。

 包帯を畳に落とし、ようやく真文の左目が顕わになった。

 亀裂のような傷が、彼女の左瞼から頬にまで及んでいる。常人が見たら思わず顔を覆いたくなるその傷口を、仁科は目を細め、唸りながら見つめた。

「あ、あの……驚かれないのですか?」

「まぁ、慣れておりますので」

 ――慣れている? お医者様でもないのに?

 真文の中で更なる疑念が渦巻いた。

 しばらく仁科は静かに、ただ静かにその傷を調べていた。触りもせず、じっと穴が開くほど見つめている。

 それが、僅かな時間であっても永遠に感じられ、どうにも視線の逃げ場がない。何故だろう、恥部を晒しているようで落ち着かなくなる。

 目のやり場に困り、思わず顔を覆いたくなる衝動に駆られた。

「あああの! もう……もう、よろしいでしょうか。この醜いものを見せるのは恥ずかしく、て……」

 堪らず、真文は唾を喉に通らせ、止めていた息を吐き出した。

「あ、申し訳ありません。いえね、あの櫻幹というのは興味のそそる一件ですので……失敬」

「はぁ……」

 許しが出たので、真文は急いで包帯を巻きつけた。不格好になったが晒すよりは良い。

「それで、あの……何か分かりましたでしょうか?」

「――ふむ」

 仁科は顎に手を当て、ゆっくりと含み笑う。そして頷いたかと思いきや、きっぱりと言い放った。

「全くもって、判りませんね」

 あれだけ見ておいて何を言うのだ。

 一瞬、聞き間違いかと思ったのだが、耳ですくい上げた言葉は「判らない」であり、真文は狼狽の色を右の面に浮かべた。

「し、しかし貴方はこう摩訶不思議な、怪異現象にお詳しいのだと……そう聞いていたのですが」

「おやまぁ、それはまた変な噂が立っていますね。一体誰の仕業なのやら。困ったものです」

 その白状に、真文はもう拍子抜けである。

 確かにここは「雑貨屋」だ。奇妙な道具や小物が商品として置かれていて、広い三和土たたきには商品が陳列された台と棚が所狭しと並んでいる。

 だが、その店主は不思議な能力を持っていると聞いていた。

 村の外れにある雑貨屋店主は変わり者だと、そう言われているものの老人たちには好評だ。

 どうも呪いや厄除けの守りを提供しているらしく、迷信を重んじる彼らには猫乃手そのものが打ってつけであった。かく言う真文の祖父母も「仁科に診てもらえ」と強引に話を勧めてきたものだから、こうして今に至る。

 疑念の中には一縷の望みも混在していたのだ。

 それなのに一体何事か。「判らない」のなら、もう自分には宛がない。為す術がない。

 一生、この傷を背負って生きていくなんて――十五になったばかりの少女には耐え難く重い枷だった。

「そう気を落とさないで下さい」

 仁科は穏やかに言うが、誰のせいで落ち込んでいると思っているのやら。彼の柔らかな笑顔が脳天気に思えて仕方がない。やり場のない思いがぽろりぽろりと溢れてしまう。

「私、もうお嫁に行けません。この姿成りでは、誰にも会えないのです。お分かりですか? いいえ、分からないでしょうね。この気持ち……この虚しさ……」

「待ってください。何故、そう話を飛躍させるのです」

 涙ぐむ少女を前にし、仁科は慌てて手のひらを振った。眉を下げて焦りを見せている。

「私は『判らない』と確かに言いましたが、匙を投げるつもりは毛頭ないので、あしからず」

 その言葉に、真文はおずおずと顔を上げた。

「では、助けていただけるのですか?」

「えぇ」

 仁科が目を細めて笑む。それはまるで日向で眠る猫のよう。

「ここは霊媒堂 猫乃手。『猫の手も借りたいほどにお困りでしたら、その依頼をお引き受けします』と名付けられたものです。大丈夫。貴女のその困りごと、なんとかしてみせましょう」

 彼の穏やかな声に、真文は涙が溢れた。まだ生きている右目だけ。その瞼の下から浮かびあがって零れる。右の視界がぼやけていく。

「あ、申し訳ありません……涙など……」

 慌てて拭おうとすると、仁科が手ぬぐいを渡した。木綿の、少し目が荒い布。薄く色づく紫色のそれは仄かに甘い香りが漂った。

「そんなことはありません。悲しい、嬉しい、その時に涙は零れる。人の感情は豊かです。それはとても美しいことです。私は恥ずべきことだとは思っておりません」

 温かく諭され、気持ちはもう緩みきってしまった。真文は渡された手ぬぐいを素直に受け取って、零れた涙を吸い取る。

「有難うございます……」

 僅かに湿気た手ぬぐいを、彼女はきちんと丁寧に折り畳んだ。

「……では、この目は完治するのでしょうか?」

 はなをすすり、落ち着こうと息を整えた後、気を取り直して訊いてみる。すると、彼は変わらぬ笑みを見せて告げた。

「判りません。あまり期待はしないでくださいね」

 その口元に慈悲は貼り付けられていなかった。まったく、言っていることがてんでバラバラである。

 真文は固まって、目の前の男にまたもや疑念を抱いた。この屈託ない笑顔は剥がれ落ちることなく、やはり平然とあるのだ。

 いちいち翻弄されてしまい、あどけなさの残る少女の心は浮き沈みが絶え間ない。

「あ、の……それはどういう……」

 真文は持っていた手ぬぐいを握りしめ、問おうと腰を浮かせたのだが、外の騒がしさによって声が掻き消された。

 ガヤガヤ、ドタバタと表は忙しない。その横槍に思わず口を閉じてしまった真文は、障子窓に顔を向けた。

「はて……何事やら……」

 仁科も障子窓から外をチラリと覗き見る。

 騒々しい音は、やがて言葉へと変わり、二人の耳にはっきりと伝った。

《仁科アアアアァ~ッ! 仁科仁~ッ! 今スグ出テ来イ!》

 野太い怒号が荒々しく乱暴な言葉を発している。

 様子を詳しく見ようと障子窓へ首を伸ばすと、直ぐさま仁科に制されてしまった。前に立ち塞がり、音の主が分からない。

「森さん、お気になさらず。いつもの厄介者が厄介事を厄介に運んで来ただけなので、ここは無視をしましょう」

 随分な言いようである。店を訪ねてきたならともかく、相手は激しく怒り狂っているのだ。

 あまりにも呑気な面構えに、真文は口元を引きつらせた。

「いえ、しかし……あの、良いのですか?」

 それでも、仁科は「無用だ」と言わんばかりに、障子窓を勢い良く閉めてしまう。

「大したことではないので」

 ならば、こんなにも大勢の怒号が聴こえるはずがないだろう。バタバタと近づく音に、不安な気持ちを隠せずにはいられなかった。

《仁科ァ! 開ケロォ! 今スグ開ケロオオオオォ!》

 無数の声。轟く激高。怒りという感情が店を取り囲んでいるよう。

「あのぅ……仁科先生……」

 外の騒がしさが一層増し、やはり我慢ならなかった真文がおずおずと口を開く。

「先生、とは私のことですか? そんな、大層なものじゃあないのですが」

「いえ、それよりも……もう、店が壊れてしまいそうですよ」

 無数の怒りで建物が倒壊するなど、起こりうるはずがないのだが、そう思えてしまうほど真文は怯えきっていた。

 彼女の縋るような視線に、仁科はばつが悪そうに鼻を掻く。そして、ゆっくりと膝を立てると三和土へ降りた。

「まぁ、気にするなと言う方が無理ですね。どうやら止みそうにないですし……森さん、もう少し奥へ移動してもらえますか」

 そう前置きするので、真文は手をついて畳の端へと落ち着いた。それを確認した後、仁科は店の戸を速やかに開けた。

 途端、中へ駆け込む人影が一つだけ現れる。

 転がるように土間へ入ってきたのは、色鮮やかな着物を纏った派手な人物だった。

 そして仁科は、人が一人入るなり、目にも留まらぬ素早さで戸を閉めた。

 何かを押さえつけるように戸口へ立ち、今しがた入ってきた人物を見る。しばらくガタガタと、戸が喧しかったのだが、徐々に引き下がっていき、やがてはピタリと無音に戻った。水を打ったような静けさが、かえって不気味に思えてしまう。

「よし」

 仁科は小さく呟くと、戸から離れた。

 一方、転がり込んできた者は項垂れて、店の戸棚に背を預けている。

「おかえりなさい」

 派手なその人に向かって、仁科は柔和な笑顔を湛えて手を差し出た。包帯を巻いた左の手を。それを見た、派手な装いの人は荒い呼吸をし、息を整えて手を取る……かと思いきや、激しく叩いて振り払った。

「仁! お前、気づいてたんならさっさと開けろ! こんの人でなしっ!」

 そうやって威勢よく罵声を浴びせる。

 真文は身震いして物陰に隠れた。大きな壺の後ろから、こっそりと様子を窺う。

「まぁまぁ。お前のことは毎度ですので……つい、知らぬふりをしました」

 あっけらかんと言い放つ仁科である。その態度に相手は憤りの地団駄を踏んだ。

「あぁぁ! もう! いつもいつも、お前はそうやって! 人を! 馬鹿にしている!」

 真文は驚きのあまりに声が出なかった。

 仁科に怒るその相手……見た目こそ色気のあるなのだが、声が姿と似合わない。太く低いが、その割に若々しくもある。

 しかし、姿形は麗しい女であるからどうにも状況の整理が追いつかない。ちぐはぐな姿に脳が混乱を招く。

 新種の生物か、化け物か、真文には判断がつかなかった。

「そんなことないですよ、登志世としよ。お前のことは大事に思っていますよ、それなりに」

「それなりにっ? いや、それよりも! 登志世と呼ぶな! 何度も言っているだろうがっ!」

「はいはい。そこまでにしてくださいね。登志世」

「お前の耳は竹輪か何か? あ? お前、いい加減に……」

 片手でその怒号を制し、仁科は涼やかな顔で壺に隠れる真文を指し示す。

 たちまち静寂が訪れた。

 一時の沈黙後、不可思議なその人は垂れた前髪を流して耳にかけ、爽やかな笑みを浮かべた。

「あ、あらら……お、お客様がいらっしゃったのねぇ~。もう、仁ったら早く言って頂戴よぉ~」

 急に声色と口調が変わり、ますます真文は肩を震わせる。必死に誤魔化そうとしているのが窺い知れ、どうにも唖然としてしまう。

 そんな彼女を慰めようと、仁科はゆっくりと近づいた。さながら、怯えた小動物を相手にするような仕草で。

「というわけで、申し訳ありません。森さん、お騒がせしました」

「は、はぁ……」

 声を掛けられても尚、真文は壺の影からしばらくは出て来られなかった。


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