霊媒堂 猫の手

小谷杏子

第一部 初代・仁科 仁

春の章 櫻幹~サクラミキ~

壱・冬櫻は鮮血を啜る

 ――その話は幕末の混乱した時代にまで遡る。

 ある美しい遊女が一人の客に入れ込んで、やがては子まではらんだとさ。雇い主は、そりゃあもう怒りを通り越して大暴れだった。

 まぁ、何時の時代でも似たような話はわんさかあるがね。

 遊女は当然、始末された。孕んだ子、共々串刺しだった。

 無残に捨てられ、路端に晒され、酷い有り様だったとさ。

 すぐに片付けられたのだが、その後、女が捨てられた場所に一本の櫻が芽吹いたという。

 櫻にしろ名もない木にしろ、そうそう巨木に実るわけがないのだが、それは三月も経たずに立派に幹を伸ばして美しい花を咲かせたとか。

 しかしその櫻、どうやら通り過ぎる人々をにしているらしい。

 鋭い枝が伸び、花を見上げる人間を串刺しにする。腹を貫き、臓物を掻き回し、滴った鮮血を啜るように幹がうねる。

 いやなに、毎度のことではないのさ。

 ある日、ある時間、その条件が満たされる時に櫻は人を襲うのだ。哀れな遊女が殺された日、つまり師走の満月の夜である。

 それが川沿いに沿った櫻並木のどこかに、未だ息づいているんだとか。

 季節外れの櫻が、新たなる贄を探して――


 ***


 師走の候。新暦がとっくに採用されているのにも関わらず、森家の主である文彦ふみひこは断固、「師走」だと言い張るので、孫娘の真文まふみも仕方なく「師走」と合わせていた。

 十二月二十五日。白く淡い雪がちらちらと舞う。黒く寒々しかった山も今では、粉砂糖をふりかけたように白く幻想的な画を創っている。

 山間の小さな村、吹山すいざん村は林業と農業が盛んな緑溢れる地であった。今は冬を越すために村民はひっそりとしているが、春になれば山の動物たちと共に動き出して活発になる。

 穏やかな日々、変わらぬ景色、繰り返しの習慣。

 元号が変われど生活までもは変化しない、と鈍感に過ごしていたものだから都町で何が起きて、何が流行っているのかさえ興味が無い。ただそつなく平穏に過ごし、明日の飯さえ食えりゃそれで良いのだ。

 しかし、世間は鎖で縛っていた時代のせいで他国と遅れを取っていたことに後悔の唸りをあげていた。

 なんとか足並みを揃えなくてはと急速な文明開化を起こしており、それまで長く親しんでいた庶民文化でさえも進化を遂げようとしている。

 人間の進歩が著しく加速していくにつれて村はどんどん置き去りになっていた。

 そんな吹山村ではあるが、元号も馴染みを見せた近年、時の風を受けた血気盛んな一部の若者たちが、頭の固い中高年の考えに疑問を呈しているらしい。

「この進化に我々も乗じていくべきではないか?」

 新しいもの好きな年頃である。新風なる思いを抱く者も少なくない。

 それは、次の年で十五になる真文も同じであった。

 戒めやら迷信やら、古臭い習慣はもう都会の辺りでは流行っていないのだ。年寄りの忠告も突っぱねて、適当に聞き流していることが多くなった。「川沿いの櫻幹さくらみき」についてもまた同様である。


 年の瀬も近い寒空の中、真文はのんびりとふもとの神社へ遣いに出ていた。

 この日は年に一度の戒めの日。櫻幹の呪いが夜更けに芽吹く。

 数日前に空を見上げれば、満月の訪れを知らせていたので、村の老人たちはこぞって「外に出るな」とまるで呪詛の如く子へとしつこく言い聞かせていた。

 真文も前日、懇懇こんこんと聞かされていたもので「耳に胼胝タコが出来てしまいそうだわ」とぼやき、呆れて外へと赴いたのである。

 気立ては良く、鈍感ではあるもの言いつけられれば素直に守る真文だが、昼間というだけで幾ばくか気を緩めていた。

 夕刻までには帰りつける。そう軽い気持ちで構えていた彼女は神主からお茶や菓子などを頂き、雑談をし、居眠りまでする始末であった。

 時間とは、油断の上に胡座を掻いているうちに素早く進みゆく。

 気がつけばもう夕陽が山へ還る頃で、真文は長靴ブーツも履き終わらぬうちに神社を飛び出した。

「もう、私ったらはしたないのだから! 何も居眠りまですることはなかったのに!」

 自身に愚痴をこぼしながら灰色空の下を急ぐ。

 走れども、川沿いがみるみるうちに墨を帯びていった。

 普段は大人しい櫻の枝が風に煽られ凍えるように震えあがっている。麓から家までがこんなにも遠いのか、と真文は改めて感じた。

 眼前の暗がりに、ぼんやりと白い綿が降りてくる。雪だと気がつくのにそう時間を要することはなかったが、その他に紛れているものも捉えた。

 慌てて神社を出てしまったものだから、提灯を借りることが出来なかった。手前でさえ目が慣れていなければこの薄暗がりで見えるはずがない。

 それなのに何故、のだろうか。

 真文は手のひらに舞い降りてくる、淡く透き通った薄紅の花弁を見つめた。

「――おや、そこにいるのは森道場の娘か」

 前方から、男の吠えるような大声がする。突如、灯りを向けられて真文は目を瞬いた。

「えぇ。その通りですが……」

 よく見ると、そこには鼻頭を赤くさせた若者が一人。剃った頭をジャリジャリと掻き、調子よく真文に近づいてくる。

「お前もまさか見に来たか」

「何をでしょう」

「何って、櫻だよ」

 至極当然とばかりに、彼はふんぞり返って言った。

 手のひらに降りた花弁を握ったまま裸の枝を見やり、真文は薄く笑う。ふわりと白い吐息が宙に消えた。

「まぁ……よりにもよってこんな日にお花見だなんて、悪趣味だわ」

 そんな彼女の言葉を、若者は大仰に笑い飛ばした。

「森。お前はあの迷信を信じているのか?」

「貴方は信じていないの?」

 答えずに訊き返すと、彼は眉をひそめて腕を組んだ。

「迷信だなんだと村の年寄り連中は言うけどな、事実、だーれも見たことがないんだよ。だから、俺たちで確かめてやろうと話していたのさ……まぁ、他の奴らは土壇場で怯えちまって、俺だけになったがな」

 確かに彼の言う通り。改めて考えればおかしな話だ。

 皆が口を揃えて「あの古櫻は危険」と言うのに、実際に「見た」という証言は生まれて一度も聞いたためしがない。

 ちらと見上げると、枝を張った櫻が寒さで身を縮めているように見えた。またも風に煽られている。

「俺はこれが馬鹿げた迷信だと証明するんだ」

 そうして彼は、持っていた提灯の前に何かをかざした。

 どうやらそれは何かを布で包んで縛ったようなもので、得意げに見せるくせにその正体を吐かなかった。ニヤリと笑って、櫻を見上げる。

 真文は呆れ顔で彼の様子を眺めた。家に帰りたい気持ちがほとんどだったが、年も近い若者の身も案じてはいたのだ。

 橙の火が辺りを明るく照らし出すほど、空はもう闇に染まっている。

 ふと、花弁と思しきものが手のひらから消えていた。雪と見間違えるなど、余程自分は臆病なのだろう。

 空を切り裂く音が耳を掠めるまでは、そう呑気に構えていたものだ。

 若者の口車に乗せられ、戒めの話に信用を失いかけていた。発展の乏しい村特有の古臭い風習だと心の奥どこかで小馬鹿にしていたのだろう。

 そのせいで、まさか脇に立つ櫻が満月の力を借りて、人を串刺しにしても実感が持てなかったのだ。

 分厚い雲間から白くふっくら肥えた月が覗いたと同時に、目の前の櫻が揺らいだ。それを皮切りに、真文の脳内は思考の働きを堰き止めた。

 黒い幹が枝をしならせ、鋭い刃の如く男の厚い腹を抉る。

 真っ赤な血飛沫が噴射し、雪を狂気の色に染め上げる。

 紅い雪は、その一本の櫻を包み込むように舞った。その枝だけが芽吹き、花を咲かせていく。畝る幹が血を啜ると淡い花弁が紅く色づいた。

 それはまさに逸話通りの惨状。

 戒めというのは、自身の目で確かめなければ伝承として残るだけ。それでも残されてきた話なのだから、誰かが見て伝えたには間違いないのだ。

 目の前の光景は、一瞬のうちに景色を変えた。

 絵画を見ているような感覚に陥り、真文の時が止まる。

 血飛沫が跳ね返り、べったりとした生暖かいものに触れてようやく思考が働くものの、今度は腰が抜けてその場から動けなくなった。

「……っ!」

 声にならない叫びが、乾いた喉から飛び出す。

 ――逃げなくては。

 そう全身が呼応しているのに、叫んでいるのに、足は身体は言うことを利かない。

 季節外れに咲く花は風に煽られ高く舞い、死んだ男の上に落ちてゆく。

 幹は次の獲物を探すように、黒墨の宙を畝っていた。その矛先に捕まらないよう、真文は這ってその場から離れる。

 しかし遅かった。

 櫻は嘲笑って花吹雪を巻き起こす。

「いや……いや、やだ、助けっ……助けてっ!」

 荒い息遣いで必死に命乞うも、枝が真文の足を捕らえた。逃れようと凍った土に爪を立てるが、力は圧倒的に幹が優っている。何か術はないかと、真文は辺りを探った。

 若者が持っていた、あの布から僅かな塩が小山を作って地面に流れて出ている。死に物狂いで砂利と一緒に掴むと、力いっぱい幹に投げつけた。

 その瞬間。

 なんと幹は音を立てて割れた。悲鳴を上げるように軋み、音を立てて木の根元までに亀裂が走っていく。

 咄嗟の判断とは言え、まさかそんなもので容易に破れるとは思わなかった。

「逃げなさい!」

 安堵したと同時に突如、鋭い声が冷気を伝って耳に届く。誰の声だろう。足元にあった提灯を拾い上げ、周囲を見回すも男の無残な屍しかない。

「早く!」

 追い立てるような声が再び聴こえた。川辺の向かい側に誰かがいる――

 その者を捉えるより先に、真文はようやく言うことが利くようになった足を奮い立たせた。

 提灯を持ったまま駆け出す。硬い長靴の底が地面を叩くようにけたたましい音を響かせて。

 家は丘を登ればすぐだ。

 走って走って、もはや石段を這いながら駆け上っていく。

 ――もう、大丈夫……のはず……

 中腹まで差し掛かった頃、真文は石段の最上部に途方もない思いを抱いた。息が上がっているせいか、脳が怠けていく。

 櫻はもう倒した。呆気なく割れた。

 今しがた起こった事象を振り返り、足が先に安堵を覚える。

 干上がった喉の痛みからか嗚咽が飛び出し、真っ白な息が止めどなく口から漏れ出ていくのを見ながら、胸を抑えて咳き込む。そして後ろを振り返った。


 ざくり


 再び空を切り裂いた音が彼女の鼓膜に伝う。

 雪を踏むような、麩菓子に楊枝を刺すような。目の端に、鋭い何かが駆け抜けていった。


 ***


「……それが三月前、ということですね」

「はい」

 真文は向かい合って座る青年の姿を、右目だけでまじまじと見つめた。

 散切りの髪型も流行りが過ぎたからか、彼の頭髪には何の違和感もない――耳を覆うように首筋まで伸びきったその髪の毛は柔らかで繊細。優しげな瞳は少し憂いを帯びており、丸い小さな眼鏡が鼻筋に引っかかっている。

 ここまでは申し分なく年相応の風格であるのだが、ひとたび目線を下げれば、誰もが眉を顰めてしまうだろう。

 着流しをだらしなく引っ掛けたような格好、その帯に括くくりつけたが三つ並んでぶら下がっており、異質さを醸し出していた。

 それに左腕に巻かれた包帯が指先まで綺麗に覆い尽くされているので、彼が指を動かせばどうにも気が散ってしまう。

「どうかしました?」

 物腰柔らかな声に、思わず肩を震わす。

「い、いえ! 何もございません!」

 その慌てようが可笑しかったのか、彼はクスクスと笑った。

「あぁ、私の姿が珍しいのですね。このような格好をした者は他にいませんから」

 図星を突かれ、真文は背筋を伸ばして着物を握る。張っていた糸を緩める隙がなく、胸の奥は戸を鳴らすように鼓動がうるさい。

 そんな彼女を気遣うように、痩身の彼は始終、笑みを絶やすことはなかった。鈴を見せて、真文の顔を覗き込む。

「これはまぁ、来るべき時に役立つ道具でしてね。だから、あまり気になさらないでください」

 気にするな、と言われたらもう鈴を凝視することも許されない気がした。ぎこちなく口の端を吊り上げると、彼女はようやく彼に視線を合わせる。

「そ、そうなのですね」

「えぇ」


 村の外れにひっそりと建つ雑貨屋。

 集落からはみ出たこの店は、風変わりな品物のみならず、店主も見た目は奇妙奇天烈。話には聞いていたけれど、やはり居心地が悪い。

 真文を静かに見る青年。

 それはいかにも雑貨屋「霊媒堂れいばいどう 猫乃手ねこのて」店主であり、名を仁科にしな じんという。



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