65 一年前の自殺の話

 そして、二十一歳になった頃、わたしは都内の大学に通っていましたが、学問に精を出したというよりは、ただ卒業できれば良いと思って、三年生のその冬には、ほとんど友人との交流もなく、週末の度に赤沼家の本邸に帰っては、村上隼人さんと会うことを楽しみにしていました。

 生きることを初めて実感し、ただそのことの為にのみ、わたしは生きていました。鞠奈もわたしと同じ気持ちだったのでしょう。わたしは、鞠奈と共に生きてゆくことが、この時ほど耐えられなくなったのことはありませんでした。わたしは二等分されて、その半分しか愛されず、隼人さんの視線の半分はわたしではなく、鞠奈に向けられていたのです。この感情だけは日記には書けませんでした。二人の感情が恋によって、二度と合わさることがなくなってしまったのです。

 隼人さんが「今日の君はちょっとおかしいね」と言えば、本当に隼人さんの心を射抜いたのは、わたしではなく、鞠奈の方だったのではないか、と激しい嫉妬に苦しみました。そして、溢れ出す自己嫌悪。もはや、生きてはいけないとも思いました。

 その後、隼人さんが結婚をしたいと言ってきた時、果たして、わたしたちのどちらが隼人さんと結婚するのか、決して、もう自分を偽って、愛情を半分にはされたくなかったのでした。

 ところが、隼人さんの結婚は、赤沼家の淳一お兄さん、そして父によって拒否されました。父の本音を聞かされたのは、その夜のことです。

「お前たち、二人が同じく一人を愛している。この結婚は不幸を呼び寄せることになるから、絶対に駄目だ」

 と言ったのでした。

 その後、わたしは隼人さんと山の中へ逃げ込みました。そして、その場で隼人さんに駆け落ちの話を持ちかけられたのです。嬉しかった。でも、駆け落ちするのはわたしなのか、それとも、もう一人のわたしなのか。わたしは悩みました。そして、わたしはこのことを日記には決して書きませんでした。

 その直後のことでした。鞠奈が首を吊ったのは。わたしは自分が殺してしまったのだと思いました。鞠奈は隼人さんとの駆け落ちの話を知らずに、絶望に打ちひしがれて自殺してしまったのに違いありませんでした。その時は、そう思ったのです。

 でも、そのことで悩むわたしに父は言いました。「鞠奈は殺されたんだ……」父は、この事件が落ち着くまでは、わたしの存在を隠しておこうとしました。それは、鞠奈を殺した犯人が、この赤沼家にいる人間だからだ、と言いました。

 そして、父は村上隼人との駆け落ちの話を持ち出して、「もうお前は自由なんだ……駆け落ちでもなんでもできるんだ……もう赤沼家の檻に閉じ込められることもなく、自由に飛び立てるんだ……」と言いました。だからこそ、わたしは死んだ人間として、姿を消す道を選びました。

 ただ父は、隼人さんとすぐには再会してはいけない、鞠奈を殺した犯人が自首するまでは、その犯行の証拠が得られるまでは、かつての友人とも会ってはいけない……。

 赤沼家の醜いところを晒してしまうのには、まだ適切な時期ではない、決定的な証拠を掴むまでは、と震えた声で言いました。

 だから、わたしは大野宮子という偽名を名乗って、埼玉の大宮に住みました。父は、それからというもの、必死にあの事件の証拠を探していました。ところが、父が決定的な証拠を掴めない内に、一年という月日が経ってしまったのでした。

 ところが父は、殺される一週間ほど前に、わたしと大宮の喫茶店で落ち合って、何か妙案が思いついたらしく、その場で、

「琴音……ついにお前も自由になれるぞ……上手くいけば事件もこれで解決し……赤沼琴音として堂々と復活することができるぞ……」

 と興奮した様子でわたしに言いました。

 わたしはその秘策が一体何なのか、非常に気になりましたが、ついに知らされることはありませんでした……。

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