55 三度目のフラッシュバック

 わたしにとって、この夜は深いため息が白くくもるほど寒かった。妹の麗華はどこか寂しげだった。わたしの気持ちを察してくれていたのかもしれない。隼人さんとの結婚はこの夜の闇に消えていくようね、とわたしが麗華にぽつりと告げると、わたしの代わりに彼女は涙を流してくれた。すべてがむなしく雪のように溶けてゆく。この冷えた感情も何の意味もなさずに、思い出の一欠片ひとかけらとなるだけだと悟ったのは昨日のことだった。

 新しい結婚の話、けして悪い話じゃない。でも、そこに何の本質があるというのかしら。幸福というのは形じゃない。すべて形ばかりの人生だったけれど、それでも本質を求めてかけ走った数年間が一瞬で破れて、消えていった。

 今夜は、お父さんがわたしに言ってくれた言葉があった。「違う形の幸せもあるよ」とお父さんは言った。でも、そんなものはない。違う形の幸せなんてありえない。

 この目の前のバルコニーから、外の暗闇を見つめていたら、何かが見えてきそうな気がして、涙を流してずっと見つめていた。鉄柵が冷たく光る。それでも、わたしには何も見えなかった。

 ところが、わたしの首に、今まさに、後ろから、ロープが。

 わたしは首を絞められた。誰。今、首を絞めているのは誰。誰なの。お願い。離して。わたしの人生はこんなものではないわ。こんなことで終わってしまう人生ではないわ。

 わたしを殺そうとしている誰かなのね。わたしのことが憎い誰かなのね。わたしの命尽きるのを喜ぶ誰かなのね。その誰かがわたしを殺そうとしているのね。

 わたしの人生は違うの。本当のわたしは。本当のわたしは琴音じゃないわ。琴音なんかじゃないの。

 わたしはずっと影法師だった。わたしは死ぬ時まで琴音だというの。わたしは琴音じゃないわ。死んだ後までわたしは琴音の影法師なの。誰か。わたしは琴音じゃないわ。わたしはわたしとして生きたかった。生まれた時から死ぬ時まで。死んだ後でさえ。鞠奈として生きたかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る