29 吟二の激怒
いくつかの疑問を残しながらも、根来は、一通りの捜査を終えた。あとは司法解剖の結果待ちであった。それと根来は、赤沼家の人々に例の殺人予告状の件を明かさなければならなかった。そして、その時にあの怪人の絵画のことを赤沼家の人々に尋ねようと考えたのである。
かくして、応接間に呼び出されたのは赤沼家の人間と執事、使用人、料理人を含めた九人であった。根来はメモ帳を開いて、その九人の名前を確認した。
*
赤沼 早苗 五十八歳
淳一 三十五歳
由美 三十一歳
吟二 三十三歳
真衣 二十八歳
麗華 二十歳
稲山 文蔵 六十三歳
長谷川瑠美 二十五歳
井川 行彦 五十二歳
*
根来はコホンと小さな咳をすると、ことの次第を語り始めた。
「赤沼家重五郎さんが亡くなり、事情聴取も終わって、皆さん、さぞお疲れのことと思います。しかし、これでこの禍々しき惨劇が終わったというのならまだ良いですが、残念ながら私には惨劇が終わったとは思えないのです。皆さんは二週間ほど前に赤沼家の門にこのような手紙が落ちていたことをご存知ですか」
そう言って、根来は例の殺人予告状をテーブルの上にひろげた。
「なんだこれは……」
淳一が驚きのあまり声を震わせた。そこに書かれている内容は、赤沼家の人間の殺害を予告するものであった。その内容を読むに従って、赤沼家の人々の顔からは血の気が瞬く間に引いていった。
「父はこのMの怪人という人間に殺害されたのですか……?」
麗華は、根来にすがりつくような目つきで問う。その質問に根来は何とも答えられなかった。
「私が見たのは……この怪人なのですか……?」
早苗は気味が悪そうに呟いた。根来はその質問をも黙殺する。
「……琴音が自殺でないなんて、まさか……」
吟二は琴音は自殺ではないという一文で頭が真っ白になったようで、顔を覆い隠した。そして根来の方を向くと、
「しかし……なぜ父はこのことを私たちに知らせてくれなかったのですか……!」
「それは、おそらく重五郎さんがこの殺人予告状の内容を間に受けなかったからでしょう……」
根来の説明に納得できない吟二は、稲山の方に振り返った。
「稲山は……稲山はこのことを知っていたのか……?」
稲山はその吟二の鋭い質問にぎくりと身を硬くした。そして稲山は顔をうつむいて、わなわなと体を震わせた。
「存じておりました……」
「存じていた……? なぜこのことをもっと早く言わなかったんだッ!」
「旦那様が……けして他言せぬようにと……」
「そんな馬鹿なッ……」
「…………」
「このことをお前が誰かに話していれば親父は死ななかったんだ……!」
稲山は痛いところを突かれて上手く答えられずに緊張して押し黙った。それがかえって、吟二の逆鱗に触れたのである。
吟二は怒りに満ち満ちた声を震わせて、稲山の名前を叫ぶと、椅子から立ち上がり、稲山に力づくで掴みかかった。吟二の右の拳が振り上げられた。稲山の目を大きく見開いた顔にその拳が勢いよく振り下ろされる……。
途端に、根来が二人の間に矢のように飛び込んだ。そのせいで吟二の拳は、逸れて何もない宙を音を立てて舞ったのである。
「やめろッ!」
そのまま吟二と根来はしばらく激しい揉み合いになった。その振動でテーブルの上に置かれていたコップが床に落ちて、割れた破片が音を立てて飛び散った。そして、二人はそのまま、勢い余って床に突き飛ばされたのである。倒れた吟二をまた根来が上から抑える。
「離せッ。………離せッ!」
「落ち着いてください!」
「……くそッ」
吟二は根来を力づくで引き離すと、息を切らしてよろけながら立ち上がった。当然、根来の方も息を切らしながら立ち上がった。根来は節々がひどく痛かった。根来はしばらく息を整えてから吟二に言った。
「……いいですか。……吟二さん。稲山さんに責任がないとは言いませんが、稲山さんは重五郎さんに雇われた執事なのです。重五郎さんの言うことには基本的に従わなければならなかったのです。それに、これは赤沼家にとって軽々しく公にすれば、悪い噂も立ちかねない上に、家族に余計な不安を与えかねない、非常に微妙な問題だったのです。それに吟二さん、このような状況で赤沼家の方々が仲違いを起こせば、それはおそらく怪人の思う壺でしょう……」
「………」
吟二は幾分頭から血が引いたらしかったが、それでもまだ完全には納得がいかないらしく、ソファーにどっかりと腰を下ろして、不服げに腕を組みそっぽを向いた。
「それと、これから先、何が起こるか分かりません。けして皆さん感情的にならないように……」
根来は、あたりを見まわしてから、
「ところで、重五郎さんのアトリエに怪人の絵があったのですが、誰かご存知ないですか?」
「怪人の絵……?」
「ええ、アトリエにあったのですが、誰か……」
「さあ……知りませんわ……」
早苗夫人も首を傾げた。集まった人間がみな、ピンと来なそうな顔をしていた。
そして、ここに集まった人間からは、実際に怪人の絵画の情報はひとつも得られなかった。誰も知らなかったというのである。あれが、一体何の絵なのか結局分からぬままであった。
根来は何気なく腕時計を見て、あることに気がついた。もう新年となってから十分が過ぎていた。いつの間に年を越してしまったのか、根来は非常に残念な気持ちになった。
(とんだ年越しだったな……)
痛む肘を抑えて、根来は疲労感たっぷりのため息をついた。
このようにして、赤沼家殺人事件は幻想的な雪の夜に幕を開けた。そして根来の推測通り、赤沼家の殺人はけしてこの一回に止まらなかったのである。
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