8 法事でのこと
先ほど、赤沼家の菩提寺である
金剛寺は、切り立った崖の上に建てられた苔むした寺で、風が吹けば奈落の底に落ちて、今にも無くなってしまいそうな印象を受けた。崖から見下ろせば、霧がかかっていて、天狗でも住んでいそうな、ぞっと肝が冷たくなる深い深い谷底であった。
赤沼家の本邸のあるこの地域は、かつて観音信仰が特別に根深かったところで、そのせいで
この法事の為に、赤沼家の長男淳一と
長男の淳一は、ビールや日本酒を飲み、トロの握り寿司を箸でつまみ、飲み込むように平らげた。
赤沼淳一は、重五郎の会社に勤めていて、次期社長候補といったところであるが、まだ三十五歳の若さである。重五郎は、淳一の性格が人間に対して冷たすぎて、将来、部下が離れていくのではないかと心配していた。
その淳一の食事の様子を、怪訝な表情で見つめる男がいた。次男の赤沼吟二である。赤沼吟二は、赤沼家の家名や伝統といった重圧に抵抗して、ほとんど縁を切って、画家として日本中を旅したり、好き勝手な生活をしていた。そんな吟二の将来を重五郎は心配している。また重五郎の心配していたことは、彼には、すぐに喧嘩をふっかける血気盛んなところがあった。
麗華は、二人がいつの間にか退室して、どこかへ消えたことに気づいて、何か揉め事が起こってやしないかと気になって、少し寺の中を探すと、果たして、禅寺風な枯山水を拵えた庭の端で、二人が向かい合って立っているところを見つけた。
「どうした? さっきから不満がありそうな目でこっちを見て。言いたいことがあるなら言ってみろ」
淳一は、吟二の視線に気づいていて、それを咎めようとしている口ぶりであった。怒りの感情の混じった冷やかな響きであった。
吟二も、じっと淳一を睨みつけたまま、しばらく黙っていたが、ふいに口を開いた。
「兄さん、今日は、琴音の法事というのに、ずいぶん平然としているじゃないか。それが不満で仕方ないんだよ」
「平然と飯を食って何が悪い。もう琴音が死んでから一年にもなるんだぞ」
「兄さんは、一年やそこらで、あの出来事のことをすっかり忘れてしまったようだな」
「何を忘れたっていうんだ、覚えているからこうして法事に来たんだろ」
「そうですか、そうですか」
吟二は、いかにも腹立たしげに笑った。そして、適当にうなづく。
麗華は、その様子を冷や冷やした様子で見ていた。こうなることは分かっていたのだが、こんなことは、まだまだ諍いの序の口にすぎないと思われた。
「琴音は、隼人君と一緒になれば、さぞ幸せだったことだろうな」
吟二は、皮肉を込めてそう呟いた。
「またそれか。もういいだろう。そのことは」
「兄さんにはわからないのさ、赤沼家の檻に閉じ込められた苦しみが」
「俺だって赤沼家の人間だ。この家の重圧も理解しているつもりだ。だが、あの男は、うちには合わなかったよ」
「兄さんが、そういうことを言って、例の名家の息子とやらを連れてきたのが、そもそも良くなかったのさ」
麗華には、吟二が何のことを言っているのか思い当たる節があった。麗華は、一年前のある騒動のことを思い出していた。琴音には、愛していた村上隼人という青年がいた。その恋はついに赤沼家の人々に許されなかった。そして、その後、琴音が絶望に打ちひしがれ、憔悴しきった表情を浮かべていたことが、麗華の脳裏にまざまざと蘇ってきた。
「お前はそれしか言えないのか。好きな男と結ばれないからって、死ぬやつはいないだろう。お前は、琴音が村上という男と結ばれなかったから、自殺したと本当に思っているのか」
「それ以外に何があるって言うんだ。あの騒動の一週間後に、琴音は自殺したんだぞ」
「そんなにあの男と結婚したけりゃ、あいつは駆け落ちでも何でもしただろうよ。それぐらいのことで自殺するのは、ただ本人の意思が弱いだけだ」
「本気で言ってるのか、兄さん」
今にも殴りかかりそうな血走った鋭い目つきで吟二は、淳一を睨みつけた。
「勿論、俺は、琴音があのことで死んだとは思っていない。琴音もそれほどの馬鹿ではなかったろう」
「馬鹿とか、そういう話じゃないだろう」
吟二は、琴音をおとしめる発言だけは許せなかったらしく、苦々しく呟いた。
「とにかく、一族が集まる場では、俺のことを睨むな。お前はもっと周りをみろ。叔父さんや叔母さんも来ているんだぞ」
淳一はそう言うと、この様子を誰かに見られることを心配したのか、踵を返して、庭をさっさと歩き、ついに見えなくなった。座敷に向かったのだろう。
一人残された吟二は、何かを考えているらしく、眉をひそめて、枯山水の規則的な波紋をじっと見下ろしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます