9 大晦日の夜、怪人現る


 非現実的で、夢か幻のようにさえ思える赤沼家の美しい城郭は、ついに大晦日の夜を迎えた。この夜には、不可思議な出来事がいくつも起こった。赤沼家の惨劇の幕開けを告げたものは、突如、本邸中に響き渡った早苗夫人の悲鳴であった。

 しかし、それよりも以前の、灰色の夜空に雪が舞い始め、それが山の景色を白く染めていった頃の出来事から、語り始めなければならないであろう。

 この積雪こそ、この事件をより不可解なものにした原因のひとつであった。もしも、この日に雪が降らなかったならば、事件はいかなる様相を呈することとなったのだろうか。そんなことは、今となってはもはや誰も想像することができない。

 雪が降るのは、赤沼家の本邸のあるこの地方では、今年に入ってから、すでに何度目かのことであったので、稲山執事はこの頃になると、あの手紙の一文と結びつけて、危機感を感じるということが少なくなっていた。犯人もそれを狙っていたのだろうか。それとも、別に理由があるのだろうか。

 稲山執事は、この日、重五郎がアトリエにこもったまま、油絵を描き始めたことを心配していた。アトリエは、離れになっていて、重五郎の油絵を描く趣味の為に建てられたものであった。

 何も大晦日の夜に、絵など描かなくてもいいのに。それとも、重五郎はあの怪人からの手紙のことをすっかり忘れてしまったのだろうか、と稲山は不満を抱きながら、重五郎のことが気になって、チラチラとアトリエの方を窺っていた。そして、重五郎らしき後ろ姿やその顔が、時々、窓の中に見える度に、ほっと胸を撫で下ろした。

 絵を描いている時の重五郎は、決まって人を近づけようとしないので、稲山もアトリエには近づけず、邸宅の廊下から、その姿を窺うだけであった。

 気がつけば、アトリエと本館の間には、白い雪の絨毯ができていた。そこには、この時、足跡はひとつもなかった。

 午後八時頃、雪はすっかり降り止んでいた。執事稲山は、この時刻になると、食堂に集まった赤沼家の人々の対応で、忙しかった。

 一応、年越しのパーティーという形をとっていて、早苗夫人、麗華、淳一、その妻の由実、吟二、その妻の真衣の、合計六人が食堂に集まっていた。

 さらに、料理人と使用人の二人もこの時、食堂で様々な支度に、忙しく動き回っていた。

「重五郎さんはどこへ行ったの? 稲山」

 早苗夫人は、分かりきっているくせに、自分の不満をよほど誰かに皮肉りたいのか、腹立たしげに訊ねてきた。

「旦那様はまだアトリエにいらっしゃると思いますが」

「まだ描いているの。あんなもの。何もこんな日に絵を描かなくても良いのにねぇ。ねぇ、真衣さん?」

 早苗のご機嫌取りにいつも苦労している真衣は、この時も曖昧な笑顔を浮かべて、

「そうですねぇ、ほほほ」

 と馴染みのない上流貴族風な笑い声で誤魔化した。その不自然な声だけが、静寂の中の食堂に虚しく響いていた。

「何も無理に連れ出してくることはないさ。親父のやりたいようにやったら良いだろ。そんなことは」

 と吟二は、自分も絵描きだからか、重五郎がアトリエにこもっていることには寛容であった。

「でもねぇ、せっかくの家族水入らずじゃない」

 早苗夫人はそれでも不満げらしかった。

「水入らずなんて、大したものじゃないだろう。それに、ここには使用人だっているのに。第一、親父がアトリエにこもっている時は、誰もあの親父を連れ出せないんだろう?」

「あの人は頑固ですからねぇ」

 早苗夫人は不満げであったが、仕方ないことと思ったらしく、その後は何も言わなかった。


           *


 午後九時頃になり、稲山執事は、相変わらずパーティーの準備や片付けに忙しかった。一体、この赤沼家の人間というのは、何故、こんな下らない注文ばかりしてくるのか、それにこだわりが強くしつこいのか、稲山は腹が立って仕方がなかった。

 稲山が、ふと何気なしに窓の外に目をやると、雲の隙間より差した月明かりに照らされて、暗闇の中に、ぼんやりと白銀のなだらかな山の景色が浮かんでいた。それは、身も心も凍えるような思いになる景色であった。

 今夜も冷え込むだろうな、と稲山が眉をひそめた、その瞬間のことであった……。

 突如、雪の夜の静寂を引き裂くように、甲高くてひどく耳障りの悪い、人間のものとは思えないような、おぞましい悲鳴が本館の中を轟いた。まるで血を吐くような痛々しい響きのある、濁った叫び声であった。

 稲山は、何が起きたのか咄嗟に理解できず、しばらく茫然としてしまったが、何か容易ならない事態が発生したことを知り、その悲鳴の聞こえた方向へと走って行った。

 玄関の階段に達した時、そこにしゃがみ込む早苗夫人の姿を見つけた。その顔は恐怖にねじ曲がっていた。その驚きに満ちて大きく開かれた眼は、半開きになった玄関を、食い入るように見つめていた。

「ど、どうなされました?」

「稲山……」

 早苗は放心した様子でゆっくり呟いた。

「い、今、そこに人が……立ってたのよ……」

 早苗夫人は震えながら、階段横の窓際あたりを指差す。

「人? 誰ですか?」

「し、知らないわ。でも、その人、わたしに気付いて、すぐに玄関から逃げて行ったわ……」

 泥棒でも忍び込んだのか、稲山は、慌てて玄関に駆け寄った。恐る恐る、扉の外を覗いたが、暗闇に包まれた世界が広がり、人影どころかほとんど何も見えなかった。

 稲山は、慌てて玄関の鍵を閉めると、早苗夫人の方に振り返って、

「不審者の特徴は? どんな奴でした?」

 早苗夫人は気味が悪そうに身を揺すって、息も絶え絶えに語り始めた。

「そ、その男、気持ちが悪いのよ。こっちを振り向いたの、その顔といったら……」

「その顔といったら?」

 早苗夫人は、はぁっと息を吐いて、恐ろしげに言った。

「その男、顔に仮面をつけていたの。それが、人間の笑った顔みたいな気持ちの悪い仮面だったのよ……」

 それを聞いた瞬間、稲山の脳裏をある言葉が駆け巡った。それは他でもない殺人予告状の差出人として記されていた、あの「Mの怪人」という言葉であった。その男こそ、Mの怪人なのだろうか。稲山は凍りつくような思いがした。

 だが一体、その怪人は何をする為に、この赤沼家の本邸の中に忍び込んでいたのだろうか。目の前にいる早苗夫人はこうして無事である。ということは……。

 稲山はあることに気が付いて、血が凍るような思いがした。そして稲山は、早苗夫人をその場においたまま、射られた矢のように、一目散にある場所へと走り出した。

 稲山が向かっている場所、それは、赤沼重五郎のアトリエであった……。

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