番外編Ⅳ 死の芸術家

「はぁ、はぁ、はぁ!」


 街灯どころか月光すら満足に届かない複雑に入り組んだ外縁街――首都の外側に設けられた街――の路地裏を、一人の女性が息を切らせながら駆け抜けていく。肩口から木目細かい肌を大胆に露出し、薄い布を纏っただけの情欲を誘うドレス姿から察するに娼婦であることが窺える。

 しかし、娼婦にとって貴重な商売道具である柔肌には幾つもの擦り傷が設けられており、ドレスに至っても所々に破れ目が出来上がっていた。恐らく道中で何度も転倒したのだろうが、女性は形振り構わずといった体で路地の奥を目指して突き進んでいく。

 周囲に気配を張り巡らすも人気らしいものは一切感知出来ず、凍てつくような夜闇に沈んだ路地裏の風景と相まって、ゴーストタウンに迷い込んだのではと錯覚すら覚えてしまいそうだ。

 そもそも外縁街は中心街と異なり、真夜中でも遊べる娯楽施設の類が一切存在しない。おまけに治安も御世辞にも良いとは言い難く、羽目を外して意気揚々と出歩く人間など皆無に等しい。

 故に夜が訪れれば外縁街は否が応でも静寂を受け入れるしかなく、夜の蝶として働く彼女を始めとする人間が少数派に立たされてしまうのは止むを得なかった。

 やがて彼女は只管に酷使していた足を止めた。目前には行き止まりを意味する薄汚れたコンクリートの壁が聳え立っており、左右も似たような壁で阻まれている。どうやら知らず知らずの内に袋小路に迷い込んでいたようだ。女性は逃げ道を求めて自分がやって来た方向へ踵を返そうとした。

 だが、彼女が振り返ると逃げ道を塞ぐかのように全身黒尽くめの男が路地の道半ばで立ちはだかっていた。暗闇に溶け込むような出で立ちは暗殺者だが、その身に纏う雰囲気は獲物を追い詰める狩人のソレに近い。暗闇に浮かび上がる純白のダンスマスクは男の素顔を隠すだけでなく、相対した女性の恐怖心を煽り立てる一助となっていた。

 女は恐怖と焦りで表情を引き引き攣らせながら後ろへ後退るが、数mも進まぬ内に背後の壁にぶつかってしまう。対する男は文字通り不敵な笑みを張り付けたまま一歩、また一歩と女性の方へと歩み寄っていく。


「こ、来ないで!」女性がヒステリックにも似た引き攣った声で叫ぶ。「何でアタシを狙うのよ!! お金が欲しいの!? そ、それとも体が欲しいの!? どっちでも好きなのをあげるから―――」


 と、そこで男は相手の言葉など意にも介さずにゆるりと右腕を持ち上げた。まるで鎌首を擡げる蛇のように指先を窄め、そして次の瞬間には獲物に飛び掛かる蛇のように目にも止まらぬ俊敏さで振り抜いた。

 途端、女性の舌に何かが絡まり付く嫌な感触が走った。それを感じ取るや不快さで表情を崩したのも束の間だった。


「げぇっ!?」


 男がクンッと腕を後ろへ引くのと同時に、口腔に収まっていた舌が自分の意志に反旗を翻したかのように外へ飛び出した。無論、舌が宿主の意思に反する筈などない。正確には舌に巻き付いた何かによって思い切り引っ張り出されたのだ。

 その証拠に男の指先と自分の舌の間で、月光に照らされてキラキラと輝く蜘蛛の糸ような細い銀糸が橋を作っていた。それで締め上げられる度にミチミチという肉の悲鳴が上がり、赤々とした舌は鬱血にも似たドス黒い紫色へと変色していく。

 只でさえ怯えていた女性の表情にパニックと恐怖と苦痛が彩られるが、助けを呼ぼうにも舌が封じられているせいで悲鳴はおろか声すら出ない。更に追い打ちを掛けるように銀糸は女性の四肢を縛り上げ、身動きを取る自由さえも奪い取ってしまう。

 苦悶の面持ちという表現でさえも物足りないほどの凄まじい形相を浮かべながらも、女性は助命を嘆願するかのような必死の眼差しを投げ掛けた。しかし、男は何もしない。まるで美術品を鑑賞するかのように女性をじっくりと見詰めた後、マスクの覗き穴から恍惚に歪んだ眼差しを投げ掛けた。


「いやぁ、良いよぉ……実に良い」


 男は存外に若々しい声をしていた。二十代後半、もしくは三十代前半か。しかし、甘ったるい声の中には常軌を逸した狂気の響きが含まれており、それが余計に女性の恐怖を育んでいく。


「岩石のように硬過ぎず、粘土のように柔らか過ぎない。年季の入り過ぎた老骨のように脆過ぎず、ひもじい子供のように骨張っていない。適度な肉と頑健な骨、瑞々しくて肌理の細かい肌、そして深みのある紅色の血……」


 そこで男は言葉を切り、陶酔し切ったかのようなうっとりとした溜息を吐き出す。


「嗚呼、私の求める美に応じてくれる素材は、これを置いて他にない……」

「あ……あぁぁぁぁ……!」

「だけど、そんな素材でも不要な部位は存在するけどね」


 そう言って男はグッと右腕を後ろへ引っ張った。舌を構成していた筋肉繊維がブチブチと嫌な悲鳴を上げ、やがてブチンッという分厚いゴムが千切れたような断末魔と共に放物線を描いて彼女の口腔から飛び出した。


「――――!!!」


 声にならない絶叫が喉奥から迸り、言葉に表しきれない苦痛が襲い掛かる。しかし、舌を失った今の彼女にソレを表現する術は無かった。唯一出来るのは噴水のように止め処なく溢れる血を吐き出すだけだ。


「私は思うんだ、素材に舌は不要だとね。これがあるとキィーキィーと悲鳴を上げ、口が利けたら罵倒なり助命なりで耳障りったらありゃしない」

「………!!」


 パクパクと酸素を求める魚のように口を動かすも、出てくるのは言葉どころか声にすらならない空気の塊ばかりだ。やがて意識が朦朧とし始め、夜闇とは異なる暗がりが視界を覆い尽くさんとした矢先、ボンヤリとした男の声が脳裏に響き渡った。


「大丈夫、君の死は無駄ではないよ。私の素晴らしい作品の一つとなるのだからね……」



 暗闇が蔓延っていた路地裏から人気の無い街道へ出ると、黒く煤けたコンクリートの下地が露わとなった灰色の街並みが彼を出迎えてくれた。この世の色彩という色彩を排除したかのようなモノクロの世界は酷く冷淡であり、見る者の心に荒廃の二文字を植え付ける。

 外縁のカーブに沿って整然と建ち並ぶ街通りを黙々と歩き続けると、一台の黒塗り馬車が朧げな光を投げ落とす街灯の脇で停車していた。それも中心街で乗り回されるような高級馬車であり、みすぼらしい外縁街では滅多に見られない代物だ。

 男は馬車の傍へと歩み寄ると、手綱を握っている従者に目もくれず後部の扉を徐に開け放った。降り注ぐ街灯よりも明るい光が扉の中から飛び出し、視界がソレに慣れるにつれて高貴さと気品さを兼ね備えた女性の姿が露わとなる。


「お待ちしておりましたわ、ペイル様」

「いや、こちらこそ丁寧な出迎えを寄越してくれて感謝する」


 そう言って女性は扉を開け放った男……ペイルに対しにこりと上品な笑みを浮かべた。ペイルも似通った――されど此方は愛想笑いにも似た――笑みを浮かべながら、女性の向かい側の席に腰を下ろし、顔に張り付けていたダンスマスクを剥ぎ取るように脱いだ。

 仮面の下から現れたのは、狡猾な狐を彷彿とさせる三十歳前後と思しき男性の顔立ちだった。水銀のような長い銀髪を後ろに結い、華奢という印象を覚えてしまいそうなほどに全体的な線は細い。

 柔和な口調と小奇麗な身形で上品そうに装っているが、吊り上がった細目から覗かせる黒い瞳には邪悪な何かが秘められている。しかし、女性はソレに気付いていないのかニコニコと無邪気な笑みを振り撒きながら男に接し続けた。


「この度は私の願いを聞き入れて下さって有り難うございます。それで首尾は如何でしたか?」

「ああ、それなら問題ありませんよ。あの女……キミの腹違いの妹さんは始末しました」

「妹という呼び方は止してください! あんな阿婆擦が私の妹だなんて、想像しただけで虫唾が走ります!」


 と、思わず感情を露わにするもペイルが目の前にいる事実を思い出し、女性は慌てて取り繕うような笑みを浮かべて誤魔化した。但し、その笑みには邪魔者が消えた事への、所謂本心から来る笑顔も混ざっているが。

 この上品そうに振る舞っている女性は中心街で暮らす貴族の一人であり、先程ペイルが路地裏で殺害した娼婦の腹違いの姉にあたる存在だ。しかし、今の発言から分かるように腹違いの妹に対して親愛など抱いておらず、寧ろ憎悪や嫌悪の感情を抱いているのが見て取れる。


 全ての原因は浮気癖の酷い父親にあった。欲望に従うがままに種を撒き続ける性欲の権化のような父は、次から次へと取っかえ引っかえに愛人を設けては様々な問題を引き起こす一家の恥トラブルメーカーであった。

 そんな父が突発性の病で急死したのを機に、家督を受け継いだ女性は生前の父が遺した負の遺産トラブルが無いかを極秘裏に調査してみた。結果、外縁街に居るみすぼらしい娼婦との間に私生児を設けていた事実が発覚したのだ。

 女性は父親の置き土産に激怒し、次いで焦燥に駆り立てられた。奔放な父親のせいで家名に多少の傷が付いたものの、それは受け継いだ己が時間を掛けて修正すれば良いだけの話だ。しかし、由緒正しい一族の血脈に賎しい平民が連なっているという事実は修正しようがない。

 建前や面子を重んじる貴族社会において、ゴシップやスキャンダルは命取りとなる。万が一にコレが知れ渡れば、肩身の狭い思いをするどころか現在の地位から失脚させられるという憂き目を見るのは明白であった。

 どうにかして第三者が腹違いの妹の存在を嗅ぎ付ける前に葬り去らなければ……と思案を巡らしていたところに現れたのがペイルだった。

 どういう訳か彼女の事情を知っていた彼は、強迫するどころか親身な態度で協力を申し出た。これには流石の女性も驚愕を覚えずにはいられなかった。欲深な人間ならば口止め料を要求するか、此方の足元を見て強請りを仕掛けてくるのが常だ。

 とは言え、事情を知られているとあっては下手に拒絶も出来ず、何よりも腕に覚えのある彼からの申し出は個人的な不安を凌ぐほどに魅力的だった。そうして女性は渡りに船と言わんばかりに、ペイルからの申し出を甘んじて受け取ったのであった。


「それにしてもペイル様に頼んで正解でしたわ」女性は気を取り直すように呟いた。「嘗ては貴族の暗鬼と呼ばれる凄腕の暗殺者、そして今や偉大なる七人ドレッドセブンの一角を担う英雄――そのような方から協力を持ち掛けられるなんて、私はなんて幸運なのでしょうか」


 ペイル・キーソンは偉大なる七人に選ばれた強者の一人だが、ランベルトのように歴とした功績を挙げて鳴り物入りで入隊した訳ではない。そもそも彼は貴族達の暗部として帝国の裏側で活躍していた凄腕の暗殺者であり、表舞台に立つ事の許されない人種であった。

 ある事件で逮捕された彼は本来であれば死刑台へ直行される筈であったが、これまでの犯罪行為の一切を不問とする代わりに、偉大なる七人の一員として国家に対する忠誠と尽力を誓うという条件付きで免罪符が与えられたのだ。

 ドレイク帝国には力さえあれば素性は問わないという極端なまでの実力主義が存在するが、この決定の裏には政治を牛耳る貴族達――特に彼が実行した暗殺事件に関わっていた貴族達――の圧力があったのは言うまでもない。


「ところで――」思い立ったように女性は神妙な面持ちで尋ねた。「――どうして私に協力して下さったのでしょうか? あまり自分を卑下するのは好きではありませんが、私の一族は貴族社会において下級と言っても過言ではありません。とてもじゃありませんが、ペイル様の目に留まるような目立った存在ではないかと……」

「いや、大した理由はない。貴方のような美しい女性の力になれたら……と思って声を掛けたまでさ」

「美しいだなんて……」


 片手を頬に添えながら照れ隠しにも似た微笑を浮かべる女性。素直に喜びたいのも山々だが、そんなはしたない真似を人前で晒すことは出来ないという淑女らしい体裁が見え隠れしている。

 しかし、そんな彼女の心境など気にもしないペイルは、スルリと女性の膝上に乗っていた手に己の手を重ね合わせた。相手が偉大なる七人の一人だからか、それとも異性として意識しているからか。女性の頬が紅潮し、乙女の一面を垣間見せた。


「嗚呼、貴方は実に魅力的な女性だ。その美貌は僕の創造力インスピレーションを刺激し、新たなる美の扉を開け放ってくれる」

「まぁ、ペイル様ってば……。口が御上手ですわね」


 と、女性はペイルの台詞を御世辞から来る誉め言葉として受け取り、クスクスと鈴を転がしたような上品な笑い声を零した。故に気付かなかった、彼の瞳の奥底に潜んでいる危険と狂気を併せ持った審美眼に。


「嗚呼、間違いない――――キミは最高の作品になれるよ」



 翌日、頭頂から爪先に至る全身の皮膚という皮膚を剥ぎ取られ、生々しい筋線維を剥き出しにした二人の女性の変死体が外縁街の路地裏で発見された。まるで互いに手を取り合いながら跪いてキスをするかのように、輪切りにされて断面となった互いの顔を密着させる奇妙な姿勢でだ。

 この奇抜な惨殺死体を目の当たりにした神経の細い憲兵達は、胃液を撒き散らして現場を汚染したとかそうでないとか。兎に角、身元を特定するのに必要となる材料が無い上に、現場に残っていた手掛かりの少なさも相まって捜査は暗礁に乗り上げてしまった。

 だが、一つだけ解明された答えがあった。それは変死体となった二人の女性が姉妹であったという事実だ。尤も、それは憲兵達の地道な捜査で判明した事実ではなく、犯人が現場の壁に書き残した血文字のメッセージで明らかになったのだが。


『麗しい姉妹愛に祝福を!!』


 その後も続けられた必死の捜査も空しく事件は迷宮入りし、姉妹の正体と事の真相が明らかになることは無かったのであった……。



※次回は一週間後になります

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